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「卑弥呼」の墓と「薄葬令」


 奈良で「纏向遺跡」の発掘が進んでいます。巨大な「古墳」とともに多くの住居跡や「官衙」ともいえそうな建物跡など大量の発見が続いており、これらの発見を「邪馬台国」や「卑弥呼」などに結びつけ、古代史上最大の謎が解明されようとしているように報道され、大衆の多くがそう考えているように見受けられます。しかし、以前から指摘されているように一番の大きな問題は「邪馬台国」といい、「卑弥呼」と言いながら、それらの名称が出ているほとんど唯一の史書である「三国志魏志倭人伝」についての評価が実は正当ではないのです。
 曰く「魏の使者は列島に来ていない」「方向も距離も不正確」「伝聞記事である」「参考にならない」などというのがいわゆる学界の大勢であり「定説」となっているようです。しかしそれらを重要視しない最大の理由は「参考にすると近畿に届かない」からであり「近畿の古墳状況と合わない」からだと思われます。つまり魏志倭人伝の距離と方向を正確に理解すると九州島内から出ることはないし、『倭人伝』に描かれた「卑弥呼」の墓の状況と近畿の古墳の造営の状況がまるで合わないからなのだと思われるのです。

 「魏」からは「狗奴国」との戦いに際して軍事顧問団を受け入れており、自分も部下も「魏」の天子から印璽を受け、「魏」の軍隊の「階級」をもらっています。これらから見ても、「卑弥呼」が、というより「倭王権」が「魏」の配下の諸「候王国」のひとつとして存在していたことは間違いなく、(少なくとも)宮廷内部では「魏」の法令に拠って統治していたことと思われます。そして、その代表的なものが「葬制」であったと考えられます。
 『魏志倭人伝』には一般の民衆の「葬制」については書かれていますが、王のレベルではどうであったのかと言うことが不明です。しかし、「卑弥呼」に限って言えば、彼女は「魏」から「親魏倭王」という称号を受けており、「魏皇帝」配下の「諸王」として生きていたものであり、「魏」の「薄葬令」に則ってその「墓」が作られた可能性が高いものと思われます。

 「魏」では「曹操」の遺詔により定められた「薄葬令」(「二〇五年」に、「石室・石獣・碑銘」などを設置したり、豪奢な葬礼を行なったり、あるいは墓碑を立てることを禁止する、などの事が詔として出されたもの)をそのまま「文帝」も受け継いでいて、「卑弥呼」クラス(諸王)の場合にも「大きさ」や「副葬品」についても規定されていたと思われます。
 『倭人伝』中には「卑弥呼」の墓の大きさとして「径百余歩」という表現が使われています。『三國志』全体から帰納した結論によると「墓」(ないしは塚または冢)の大きさに「径」という表現を使用している場合は「円墳」、つまり全体の形が円形であると言うことなのです。(というより「当時の魏晋朝」には「円墳」しか存在していません)
 この用語が使用されている、ということは「卑弥呼」の墓も「円墳」(少なくとも円に近い形)であったという証明になるものと考えられます。しかもその大きさが「百余歩」と書かれていますが、この大きさが「短里」で表わされているとすると30m前後になり、この大きさも重要と考えられます。
 既に述べたように「張政」が来倭した時点では既に「卑弥呼」は死去していたものと見られ、その後「墓」を造営することとなった時点では「張政」はそれを近くで見ていたものと推定されます。そのことからこの「百余歩」というものも彼が「歩測」して把握した値という可能性もあり、その意味では「リアル」な値であると思われます。

 ところで、この「百余歩」とは推定では「百八歩」ではないかと考えられます。それは『孝徳紀』の薄葬令で「王墓」としての大きさの指定が「方九尋」とされていて、これを含む「薄葬令」全体が「魏の文帝」の遺詔の換骨奪胎として知られていますから、この「魏」の段階に於いても、その大きさについて「王墓」としては「九」×「単位長」となっていたという可能性が考えられるからです。(「九」は易経で極値として考えられていることから、最大値を表す寓意があると思われます)
 そうであれば「単位長」とは「十二歩」であることとなります。「孝徳」の「薄葬令」ではこれが「尋」という単位で表されているとみられるわけですが、本来海の深さなどを測る「単位」である「尋」がそこで登場するのは「違和感」があります。
 「尋」は「両手」を広げた長さとされますが、構造物や墳墓の径(差し渡し)などの表記に使用することは記録上「希有」であり、そのような単位をあえて使用しているのは「基準系」の移行時の暫定措置であるように思われます。
 そう考えるとその単位とは「十二歩」で構成されるわけですから、これは「二×六歩」である可能性が高いと思われます。「二」とは「静歩」と「動歩」の換算であり、両足の長さを足して「一歩」とする考え方が根底にあり、それを「六倍」して初めて「歩測」幅となったと考えられ、この部分が本来別の単位で呼称されていたものと思料されます。
 
 ところで、「尺」は「手指」の長さから作り上げられた基準尺であり、「歩」は本来「足」の大きさからできた「基準尺」です。「手」より「足」の方が大きいのですから、当然「尺」より「歩」の方がやや大きい数字となると考えられます。
 「周尺」は「19.7cm」ほどと復元されていますが、「周歩」の方は「原器」となるものが見つかっておらず「直接」「復元」できていません。逆に言うと「周髀算経」などから「復元」する方向で論理展開する必要があるのです。
 前述したように「周髀算経」からは「76−77m」程度という「里」数が導き出されています。但し「測定精度」の問題があり、ある程度誤差がありますが、一応「歩」としては「25.5cm」前後という数字が弾き出されますが、これは「19.7cm」程度とされる「尺」より少し長いはず、という上の推定に合致しています。

 「秦代」に「始皇帝」が即位して「度量衡」を改めて定めたとされていますが、この時点でこれらの基準尺に「インフレ」が起きたと見られます。彼はそれまでの「基準」を全て破棄し、自らの権威を高めるためにそれまでの基準尺を「拡大」「延長」したと見られるのです。
 そして、この時点で「測歩」(歩行して測定する為の「歩」)という概念が造られ、「歩幅」を基準とすることとなったと思われ、「六尺一歩」に拡大されたものと考えられます。
 近年「魏」の「曹操」の墓ではないかと推測される古墳が発見されましたが、その直径が約60m程度となっており、この大きさと副葬品などは彼自身が出した「薄葬令」と矛盾しないものでした。
 「魏」の使者も(三国志の中で)「卑弥呼」の墓について、その大きさ・形状に異議を示していないことから、「薄葬令」に矛盾(違反)していない墓であったことを示すものと考えられます。
 しかし、これを「奈良」の「纏向」の遺跡に当てて考えるとなると話は別です。そもそも古墳の形状が「前方後円墳」であり、「円墳」ではありません。この「前方後円墳」というものは列島に特有のもので「魏」の国にはないものです。「魏」の使者が見たなら当然何らかの指摘が記事中に存在するものと思われますが何も書かれていません。大きさも「薄葬令」に決められているものより遙かに巨大なものです。
 もし「前方部」が後に付加されたもので、「後円部」が原初型であったとしてもこの部分だけで「150m以上」になってしまいます。これらの現状は『魏志倭人伝』に書かれた状況や当時の「魏」国内の「諸王」の墓の状況とも全く合致しないことになってしまうのです。
 このような状況があるからこそ「魏志倭人伝は参考にならない」という考えが発生するのでしょう。参考にすると即座に「近畿奈良には『邪馬壹国』がなかった」ことになってしまうのです。

 『魏志倭人伝』によれば、「伊都国」には「世々」つまり、「代々続いた」「王」がいる、と書かれています。
 その「伊都国」は現在の「福岡県」「糸島半島」付近であると推定されていますが、この地に遺跡がある「三雲」「平原」などは「王墓」と考えられており、たとえば「三雲」遺跡などからは「璧」(ただしガラス製)が出ています。
 「玉」や「璧」は「王権」のシンボルとも言えるものであり、そのようなものが出る、と言う事の中に「世々王有り」という中身が示されているようですが、またこのことは「薄葬令」に反することでもあります。
 「魏」の「曹操」の「薄葬令」によれば「斂(おさむる)に時服を以てし、金玉珍宝を蔵する無かれ。」(武帝の遺令、魏志一)
となっており、これに倣えば、墓に「玉」や「璧」「朱」など「珍宝」を入れてはいけないと言う事になっています。逆に言えばこの「薄葬令」に先行する時代の「漢」の時代と考えられる「墓」には「玉」などを入れることが一般的であったものであり、そのことから考えて「伊都国」と考えられる「弥生王墓」からも「玉」が出て不思議はないこととなるでしょう。
 これらの「王墓」は「世々」という言葉通り、「魏」の前代以前から連綿と続く「王」のものと考えられ、「卑弥呼」に先行するものであり、そのため「璧」が埋納されていたものと考えられるものです。(この「王墓」が「邪馬壹国」のものという考え方もあるようですが、上に述べた理由により成立しないと考えられるものです)


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/08/30)