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「張政」の来倭と帰国(二)


 彼(彼ら)が派遣された目的(趣旨)は「倭王」であるところの「卑弥呼」からの「支援要請」に応えることですが、より重要なことは「魏」の大義名分を「狗奴国」を含む「倭」の諸国に認めさせることであり、「檄」を告諭し、それを「狗奴国」が受け入れるか否か択一をせまったものと推量します。それに対し「狗奴国」としても「魏」と全面的な対決姿勢を取ることまでは考えていなかったと見られ、(「魏」が本格的に介入して「韓国」が「楽浪」「帯方」に全面的に分治されたように「倭」も同様のこととなる可能性を危惧したものとも考えられます)「檄」の意味するところを受け入れ、戦闘」はその時点において停止し、「和議」が交わされたものと思料します。
 事態がこのように推移したとすれば、その時点において彼(彼ら)は「職責」を果たしたものであり、その時点で速やかに帰国することとなったはずです。その彼(彼ら)の帰国に、「壹與」の貢献のための使者が同行したものですが、従来はこの「壱与貢献」記事部分だけを「西晋の泰始二年」(二六六年)の貢献記事(※)と見て、それまで「張政」が「邪馬壹国」に滞在していたとする説が多いようですが、そもそもこの部分は記事として連続しており、一体のものであると理解せざるを得ません。さらに、そのような長期間の滞在というものは考えられないものと思われます。なぜならそのようなことは「朝命」に反しているといえるからです。

 彼(張政)には「帯方太守」から与えられた(それはつまり「皇帝」から与えられたものでもあるわけですが)「任務」を速やかに終え帰国して報告する「義務」があったはずです。「勅使」など「皇帝」の命を受けている場合、「速やかな復命」は絶対であり、可及的速やかに帰朝して報告することは彼に課せられた「義務」でもあったと思われます。しかも「倭女王」の交替という重大事案が起きたわけですから、その結果と過程は逐一報告するべきものであったはずであり、しかもその性格上「速やかに」行う必要があったとみられます。そう考えると、「壹與」即位を見定めた後それほど長く「倭王」の元に滞在したとは思われず、速やかに帰国したと考えるべきでしょう。
 しかも「皇帝」の代が代わっているということは場合によっては自らが属する官僚機構全体に変革があったという可能性も出てくるわけですから、急ぎ帰国する必要があったはずでしょう。

 「景初」年間の「明帝」が死去後「斉王」「曹芳」が即位し「正始」と改元されました。この「曹芳」から「張政」は「帯方太守」を通じ「朝命」を下されたと考えられますが、その新皇帝「曹芳」の代は「二五四年」まで続き、その後「曹髦」が即位します。この時点で「張政」(というより帯方太守王斤)に「詔書」を与え、「朝命」を下した「皇帝」は変わってしまっています。もし「張政」が「邪馬壹国」に長期間滞在していたとしたら、遅くともこの時点で「帯方郡治」から偵察が追加で送られることとなったのではないでしょうか。少なくとも「新皇帝」の即位という事態に立ち至れば、彼等がこの時点以降速やかに「帰国」し、「帯方太守」と共に「新皇帝」に拝謁し、「前皇帝」から受けた「朝命」に対する帰朝報告を行い、また新任務を拝命されるのを待つこととなるべきではないかと思われますが、それが「西晋」成立まで遅れたとすると、彼はほとんど「今浦島」状態ではないではないかと思われます。
 皇帝の代変わりがあったり、新王朝が始まると「冠位」や「制度」が変更になることがあるのは当然であり(当然彼の「位階」もとっくの昔に変更になっているはずでしょう)、そのような中で長期間に亘って「夷蛮の地」に滞在し続けたということを措定することは全く不可能であると思われます。
 この事については「古田氏」は『「海賦」と壁画古墳』(『邪馬壹国の論理』所収)において、『海賦』で述べられている以下の部分について「倭国が狗奴国との交戦によって陥った危急を急告、それに対する中国の天子のすばやい反応によって危難が鎮静された事件」があった事を示すとされ、この「正始八年記事」が該当することを述べておられます。

「若乃偏荒速告,王命急宣。飛駿鼓楫,汎海?山。於是候勁風,?百尺。維長?,挂帆席。望濤遠決,冏然鳥逝。鷸如驚鳧之失侶,倏如六龍之所掣一越三千,不終朝而濟所屆。」(『海賦』より)

 ここでは「不終朝而濟所屆。」と書かれ、この「不終朝」が「古田氏」により「朝飯前の意」とされたように、事件の解決に時間がかからなかったことの比喩として書かれていると思われますが、そうであれば「帰国」まで二十年というように年月がかかる道理がないこととなります。当然「帰国」は速やかに行われたものと考えるべきであり、「西晋朝」の成立まで帰還しなかったとは甚だ考えにくいこととなるでしょう。
 また、この文章が書かれたのが「魏志」の中であることも重要であり、そもそも「晋朝」への「貢献」はここに書くべき事ではないと考えられます。そう考えれば、この部分についても「正始年間」の記事として書かれたと理解するのが正しいと考えられるわけです。

 また彼は「張政等」という表現にも現れているように「単独」で来倭したわけではありません。彼の他にサポートメンバーとでも言うべき人員が随行したと見られます。
 後の時代の例から考えても、彼のように「戦地」へ赴いて「告諭」するという使命を帯びた派遣の場合は彼の他十名前後の「告諭使節団」が形成されていたと思われます。たとえば(ずっと後代ですが)「隋」から派遣された「裴世清」は「宣諭使」であったわけですが(これは「告諭使」とほぼ同様の職務があったと思われます)、彼の場合も彼を含め十名ほどが派遣されていたものと見られます。(『書紀』では「大唐使人裴世清 下客十二人」とあり、「裴世清」以外に「十二人」が同行したように書かれています)
 そもそも「詔書」「黄幢」という最重要物件を運ぶわけですし、さらに平定されたとはいえ一触即発何があるかわからないような「韓国」の内部を一部陸行するわけですから、護衛が厳重であったのはいうまでもないことでしょう。また彼らの「告諭」に「狗奴国」など関係者が応じず、逆に攻撃に晒されるという可能性さえ考えられるわけですから、その意味でも兵士たり得る「軍関係者」をその中に当然含んでいたものと思われます。それらのことを考えると、彼らが一斉に長年月「邪馬壹国」に留まったという想定は現実的ではないと思われます。(後の「宣諭使」や「会盟使」などにも長期滞在した例がありません)
 長くいればそれだけ現地の政治に無関係ではいられなくなってしまいますが、それは「告諭使」という限定的権能しか与えられていない使節団には避けるべき事であったと思われます。当然彼等の権限を超えた判断や行動をしなければならなくなる事態も考えられ、「越権行為」を冒す可能性が出てくるからです。本来それを避けるために「監察御史」などに相当する人員をその「団」の中に抱えていたものと思われますが、彼等が存在していたならますます無用の長期間の滞在はこれを「否」とされ、早急の帰国勧告がされたものと思われます。(これら「監察御史」相当の官吏は「使節団」の言動を「律令」等に照らし合わせ最善の措置を講じたかを判定し助言あるいは勧告を行うことを職掌としていたものです)そうであれば「二十年」の長きに亘って滞在し、その間に派遣した王権が既に交代してしまうなどの状況の変化を看過したとは考えられないこととなります。
 つまり「張政」は「停戦」と「卑弥呼」の死及び新しい「邪馬壹国王」の即位という一連の事象を見届け、「その年の内に」帰国したものであり、「壹與」はその「張政」の帰国に併せ「感謝の意」とさらなる支持を求めて貢献したものでしょう。そのように「年中」に「壹與」の即位まで進行したというのは、「卑弥呼」の後継者を巡る記事の中に「歴年」というような複数年にわたる表現がみられないことや「当時」というような「点」としての表現しかみられないことがあります。これらのことは「後継者争い」が長期化しなかったということを示すものであり、「その年」つまり「正始八年」のうちに「後継者」としての「壹與」が即位することとなったことを示すと思われます。

 その後「西晋」朝廷の成立に合わせ(二六六年)に再度「倭女王」である「壹與」は「貢献」を行ったと理解すべきなのではないでしょうか。つまり「西晋」への貢献というものは、「張政帰国」に合わせて行ったものとは別の時点の話と考えられるわけです。(中国側の「王朝」交替に併せ、祝賀の意も込めて使者が別途遣わされたと考えるのが正しいと思われます。)
 逆に言うと、「卑弥呼」は「支援」を要請して「張政」が「倭」を訪れたその年(二四八年)の内に「死去」したと考えられることとなるでしょう。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2019/09/20)