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「張政」の来倭と帰国(一)


 「卑弥呼」(というより彼を「佐治」していたという男弟)が「魏」の皇帝に「使者」を送った背景は、彼らの権力基盤が「共立」されたという一種の「不安定さ」があったからと考えられます。
 「卑弥呼」はあくまでも「疫病」など人々が宗教的救済を必要としているときに前面に立たされたわけであり、その能力は俗事には渡っていなかったとみるのが相当です。その意味で「外交」はもつぱら「男弟」の役割であったものであり、彼の判断が大きなウェイトを占めていたでろうと推察されるわけです。彼は「奴国王」であった「帥升」が施行した「郡県制」を維持しようとしたと思われますが、そのためには「邪馬壹国」自体の「てこ入れ」が必要と考えたと推察されます。
 「邪馬壹国」とその「王」が「強い権力者」として存在しなければ、「郡県制」は維持できず、また「群雄」が割拠する事態となってしまいます。しかし、その時点では「不安定要因」だらけであり、それを少しでも減らすべく、外国勢力にバックアップを求めたのだと思われます。
 しかし、「朝鮮半島」は「公孫氏」に制圧されていました。彼等は「後漢」の勢力の衰退に乗じ「朝鮮半島」を制圧し、それまでの「楽浪郡」に加え「帯方郡」を「分治」したのです。それを「魏」は認めていたものですが、「公孫淵」の時代になって、密かに南方の「呉」と連係することとなったようであり、「公孫氏」と「魏」、「魏」と「呉」などの間の確執がピークに達して、ついに「魏」により「公孫氏」が滅ぼされるいう事態が発生することとなるわけですが、この時点に至って「邪馬壹国」は頼るべき相手を見極めたうえで、「魏」に使者を派遣したものです。それも「朝献」、つまり「皇帝」に面会することを求めた、と言う事で、これは単なる「朝貢」であれば出先機関である「帯方郡」に持って行けばいいわけであり、直接使者(「難升米」と「都市牛利」)を「魏」のキまで派遣した、ということには別の意味があったはずであり、「倭」の内部の主導権を握るための最後の方策であった事を示唆させるものです。

 この時「魏」の皇帝は「倭」という絶域からの「朝献」に強く感激し、多量の下賜物品を与えていると同時に「親魏倭王」という称号を与え、それを彫り込んだ「金印」を持ち帰らせています。(後に「帯方太守」が持って行ったもの)
 そしてそれ等の下賜品について「魏」の皇帝は「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」というように「国中に示すように」指示しています。これこそ「卑弥呼」が望んでいたことであり、自分のバックに「魏」がいることを「国中」に示し、国内事情を安定化させようとしたのでしょう。(この「国中」とは「邪馬壹国」率いる「諸国」全てを指すと推察されます)
 このような努力にも拘わらず、敵対する「卑彌弓呼」率いる「狗奴国」というものがあり、彼の統治範囲であった「東方」の諸国が「卑弥呼」の率いる「倭王権」に対して反旗を翻していたというわけであり、これに対して軍事力を行使するにもかかわらず、戦果はかばかしくなく、やむを得ず再び「魏」に仲裁(というかバックアップ)」を頼んだというわけです。

「…其八年(二四七年)太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。…」

 これをみると、「魏」からの使者(「塞曹掾史張政等」)が「詔書、黄幢」を持参し、「檄」を「告諭」したとされています。つまり、皇帝の「手紙」と「魏の軍」であることを示す「黄色」の「旗」、そして「檄」つまり(「卑弥呼」の国は「魏」の国の一部であること、「卑弥呼」に逆らうことは「魏」に逆らうこととなること、よって直ちに戦闘を停止すること、という一種の「命令」が書かれた文書ないしは「木札」)を戦争当事者である両国首脳に告げた、と言う事でしょう。
 ただし、この「檄文」について『属国同士の戦いを禁じた「法」に違反しているから、双方に対して戦闘を止めるよう諭す』という内容であったとする説もあります。(彼らを宣諭使とみるもの)しかし「卑弥呼」率いる「邪馬壹国」を中心とした勢力は確かに「魏」に対して「臣事」していたものであり、「属国」であったというのは正しいかも知れませんが、「狗奴国」側の勢力については「魏」の属国であったかは不明です。というより推測によれば「魏」というより「呉」の勢力下にあったものではなかったでしょうか。であれば「魏」としては「邪馬壹国」というより「狗奴国」に対して「戦闘停止」を命じる内容となったものと見るべきです。
 ここでは「詔書、黄幢、拜假難升米」とされ、「魏軍」を示す「黄幢」が「難升米」に手渡されていますから、明らかに「魏」は「邪馬壹国」側に立っています。つまり「張政」という人物や「黄幢」の存在は、中立的な存在としての「仲裁」ではなくあくまでも「邪馬壹国側」に立ったものとして機能していたというべきでしょう。

 「狗奴国」と「女王国」との争いについては、互いに中国の影響を考えるべきと思われます。「卑弥呼」は「魏」と連係して「狗奴国」との対立を解消しようと試みたようですが、「狗奴国」も「呉」などの勢力をバックに対抗していたと見られます。「狗奴国」の動きにはそれを感じさせるものがあるようです。
 「狗奴国」は「卑弥呼」が「魏」から「金印」などを下賜されたことを知っていたはずであり、また「魏」の軍を示す「黄幢」を掲げていたことに当然気がついていたでしょう。そのように「魏」と「卑弥呼」とが親密であるとわかっていたのにも関わらず「狗奴国」側は行動を起こしているように見えます。彼らのこの行動力の源泉としては「魏」のライバルであった「呉」の存在があるとみるべきでしょう。「呉」は「魏」に滅ぼされる「二八〇年」まで、「魏」に対抗して勢力を維持しており、海外でも「呉」側につく勢力がかなりあったものと推量されます。この「狗奴国」においても「呉」との関係を持っていたということも当然考えられることとなります。
 このような強力な国が「卑弥呼」の「倭王権」の外に存在しているわけであり、「倭王権」の内部をまとめる困難さに加え、そのような国内事情を見透かした上で軍事的圧力を加えてくる勢力もあったわけですから、「卑弥呼」の「統治」は非常に困難であったものと考えられるものです。このような困難さの中で「卑弥呼」は死去し葬られたわけです。

「其八年(二四七年)…卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩臺與、臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」

 ところで、この『倭人伝』の「其八年」以降の記事については「一連」のものと考えられていないようであり、「張政」の帰国とそれに伴う「壹與」の貢献は「西晋」時代の事として理解されているようですが、「私見」では「一連」のものであり、全て「其八年」の年次の出来事と理解すべきではないかと思料します。
 一般に中国史書の書き方として(編年体の場合)「年次」付き記事というのは、基本としてその「年次」の出来事がその後に書かれているものであり、その年次のことではない場合、「初め」であるとか「〜の時」あるいは「後」というように「年次」から「切り離す」文言が付加されるのが通例です。
 例えば以下の「武帝紀」の例では、「初平十年春正月」という年次の記事の中で別の時点の事を述べるときには『初討譚時』、『後竟捕得』というような表現をしています。

「初平十年春正月,攻譚,破之,斬譚,誅其妻子,冀州平。下令曰 其與袁氏同惡者,與之更始。令民不得復私讎,禁厚葬,皆一之于法。是月,袁熙大將焦觸、張南等叛攻熙、尚,熙、尚奔三郡烏丸。觸等舉其縣降,封為列侯。『初討譚時』,民亡椎冰,令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰 聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。民垂泣而去 『後竟捕得』。」「三國志/魏書 武帝紀 曹操」
 
 ここでは「初平十年春正月」という年次の記事として確かに「攻譚,破之,斬譚」とありますが、『初討譚時』というのは「初平五年」のことですから(以下の記事)、この「初平十年」とは異なる年次のことです。それを明確にするためにここでは『初討譚時』という言い方をしています。

「初平五年八月,…紹初聞公之?瓊,謂長子譚曰 就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣。乃使張?、高覽攻曹洪。?等聞瓊破,遂來降。紹?大潰,紹及譚棄軍走,渡河。追之不及,盡收其輜重圖書珍寶,虜其?。公收紹書中,得許下及軍中人書,皆焚之。冀州諸郡多舉城邑降者。」「三國志/魏書 武帝紀 曹操」

 この時点で始めて「公」即ち「曹操」と「袁紹」とその「長子」である「袁譚」を交えた戦いが行われています。先の記事の『初討譚時』というのはこの時点のことを言っているわけです。
 しかし、この『倭人伝』の文章にはそのような「年次」と切り離す「文言」が確認されませんから、「太守王?」以降「異文雜錦二十匹」までの文章が全てその前の「其八年」という年次にかかっていると理解すべき事となると思われます。

 また「張政」は「詔書」を携えており、このことは「帯方郡」単独ではなく「洛陽」つまり「皇帝」からの使者という形で派遣されてきたと考えられることとなります。
 この「正始八年」記事の直前に「正始六年」記事があり、そこでは「郡治」に付するという形で「難升米」に「詔書」「黄幢」がもたらされたことが書かれています。この「詔書」「黄幢」がどのようないきさつで「郡治」へ運ばれたかは不明ですが、当然のこととして「倭女王」から何らかの請願があり、それに応じたものであったと考えざるを得ません。それはまたその後に書かれた「狗奴国」との戦闘に関連していることもまた確かであると思われます。つまり「卑弥呼」は「難升米」を「帯方郡治」へ派遣し「狗奴国」との戦闘について「太守」(当時は「弓遵」)に説明、報告させ、援助を要請させたものと考えられるわけです。それに対し当時「太守」であった「弓遵」はこれを「都」へ報告し「皇帝」の裁可を仰がざるを得なかったと推量します。なぜなら「卑弥呼」は「親魏倭王」の金印を授与された存在であり、「魏」から正式に「倭王」として認められた存在であるからです。そのような「封国」が他国(しかも域外諸国)から攻撃を受けた場合には「宗主国」たる「魏」には防衛の義務があったものです。そうであればそれに対する対応については「郡太守」の裁量の範疇を超えていたとみられ、「皇帝」自らが裁可する必要があったものと推量されます。
 このような事情により「皇帝」は「郡太守」に命じ「黄幢」「詔書」などを「倭王」の元へもたらすこととなったわけですが、あいにく「韓国内」に争乱が起きてしまい、その混乱の中で「弓遵」本人が「戦死」するなどしたため、代わりの「太守」が派遣されるまで「倭王」の元へ「詔書」等がもたらされることはできなかったものであり、「帯方郡治」に留め置かれていたものかと推測されます。そして、その後「卑弥呼」からの再度の要請に従い(これはしびれを切らしたものか)「新任」の「帯方太守」である「王斤」は必要な人員を「詔書」と共に派遣させることとなったものであり、「張政」がその派遣団の団長として選ばれたということではなかったでしょうか。


(※)以下は「晋書」の「倭(人)」貢献記事です。

「晉書/帝紀 帝紀第三/世祖武帝 炎/泰始二年
「二年十一月己卯,倭人來獻方物。…」

※以下は「以」が「既に」という意味に使用されている例です。

「漢書/列傳 淮南衡山濟北王傳第十四/淮南脂、長」
「…爰?諫曰:「上素驕淮南王,不為置嚴相傅,以故至此。且淮南王為人剛,今暴摧折之,臣恐其逢霧露病死,陛下有殺弟之名,奈何!」上曰:「吾特苦之耳,令復之。淮南王謂侍者曰:「誰謂乃公勇者?吾以驕不聞過,故至此。」乃不食而死。縣傳者不敢發車封。至雍,雍令發之,以死聞。上悲哭,謂爰?曰:「吾不從公言,卒亡淮南王。」?曰:「淮南王不可奈何,願陛下自ェ。」上曰:「為之奈何?」曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮諸縣傳淮南王不發封餽侍者,皆棄市。乃以列侯葬淮南王于雍,置守冢三十家。」
 
 ここでは「淮南王」が「既に死んでしまった」ということを聞いた、という意味と解釈できます。

「舊唐書 志第三十/刑法
「…及太宗即位,又命長孫無忌、房玄齡與學士法官,更加釐改。戴冑、魏?又言舊律令重,於是議絞刑之屬五十條,免死罪,斷其右趾。應死者多蒙全活。太宗尋又愍其受刑之苦,謂侍臣曰:「前代不行肉刑久矣,今忽斷人右趾,意甚不忍。」諫議大夫王珪對曰:「古行肉刑,以為輕罪。今陛下矜死刑之多,設斷趾之法,格本合死,今而獲生,刑者幸得全命,豈憚去其一足?且人之見者,甚足懲誡。」上曰:「本以為ェ,故行之。然?聞惻愴,不能忘懷。」又謂蕭?、陳叔達等曰:「朕以死者不可再生,思有矜愍,故簡死罪五十條,從斷右趾。朕復念其受痛,極所不忍。」叔達等咸曰:「古之肉刑,乃在死刑之外。陛下於死刑之?,改從斷趾,便是以生易死,足為ェ法。」上曰:「朕意以為如此,故欲行之。又有上書言此非便,公可更思之。」其後蜀王法曹參軍裴弘獻又駁律令不便於時者四十餘事,太宗令參掌刪改之。弘獻於是與玄齡等建議,以為古者五刑,?居其一。及肉刑廢,制為死、流、徒、杖、笞凡五等,以備五刑。今復設?足,是為六刑。減死在於ェ弘,加刑又加煩峻。乃與八座定議奏聞,於是又除斷趾法,改為加役流三千里,居作二年。」

 この場合は「太宗」が「既に死んでしまった者を生き返らせることはできない」と言っていると解釈できます。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/06/18)