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「到」と「至」について


 『魏志倭人伝』を見ると「到」と「至」が混在しているように見えます。論者の中にはこの「到」と「至」は『魏志倭人伝』において「峻別」されており、「魏使」は「到」で表される国には確かに行っているが、「至」で表される国には実際には行っていないという論を成すものがありました。
 また同様に「峻別」する議論として「到」は最終目的地であり、「至」は「論理上」の点であり、また「途中経過」的な用法であるとするものもあります。
 これについて『三國志』の中で使用例を渉猟すると、「到」が到着を表す(つまり目的地に到着した意を表す)というのは確かにその通りと思われますが、逆に「至」が「到着」を表すのに「使用されていない」ということはないこともまた理解できます。
 例を挙げると以下のようなものが散見されます。

「…太和二年…明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公、持節、領郡如故。使者『至』、淵設甲兵爲郡陳、出見使者。又數對國中賓客出惡言。
景初…二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍『至』遼東。淵遣將軍卑衍、楊祚等歩騎數萬屯遼隧、圍塹二十餘里。宣王軍『至』、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。宣王令軍穿圍、引兵東南向、而急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、夜走。諸軍進『至』首山。淵復遣衍等迎軍殊死戰。」(公孫淵伝)

秋九月,太祖還?城。布到乘氏,為其縣人李進所破,東屯山陽。於是紹使人?太祖,欲連和。太祖新失?州,軍食盡,將許之。程c止太祖,太祖從之。冬十月,太祖『至』東阿。

建安元年…秋七月,楊奉、韓暹以天子還洛陽,奉別屯梁。太祖遂『至』洛陽,衞京都,暹遁走。

 これらの例は「至」が「到」と全く同義で使用されていることを示すと理解できます。これらはいずれも「目的地」を示す場所に「到着」した時点で使用されています。最初の例では「遼東」は派遣された遠征軍の目的地であり「公孫淵」の本拠とでもいうべき場所です。この場所に「到着」したという時点で「至」が使用されています。
 同様にその次の例は「太祖」つまり「曹操」が「天子」(これは「後漢」の霊帝)が「洛陽」に軟禁されていることを知って、軍を率いて「洛陽」にやって来たことを示す意義であり、ここでも「洛陽」は明らかに「目的地」です。
 『倭人伝』の中でも「南『至』邪馬壹国」とされていたり、「從郡『至』倭」あるいは「自郡『至』女王國」とされている例が確認できますが、当然「倭」及び「邪馬壹国」「女王国」は「郡使」の最終到着予定地であるはずであるにも関わらず「至」が使用されているという状況があります。
 つまり「陳寿」あるいは彼と同時代の「報告書」等を記した人達は「到」と「至」を峻別していないといえるものです。

 ちなみに古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』の中で、この「両者」の差異についてすでに検討されており、私見と同義の結果を得ています。最も古田氏がそう言ったとかということが絶対ではないことは確かであり、例えば氏の論の中では「使訳通じる所の三十国」には「狗邪韓国」が入るという結論となっており、それは私見とは異なりますが、この考えは「瀚海」に対する誤解といわば「セット」であり、「狗邪韓国」が「韓地」であって「倭王権」の埒外であるという認識があればまた結論も変わったであろうと思われます。いずれにしても冷静で論理的、合理的な思惟進行が必要であるといえるでしょう。

 この「到」と「至」という両者の混用は先に論じた「瀚海」と「翰海」の例とは自ずと異なるものであり、この両者が意味上全く異なるのに対して(当然混用されているはずがない)、「到」と「至」はその元々の意味が非常に近接しており、より一般的、広範な意味で使用される「至」に対し、意味上限定的といえる特殊型が「到」ではないかと思われます。つまり「到」は「至」に含まれる概念であり、「到」の意味で「至」が使用される事は充分あり得るといえるでしょう。


(この項の作成日 2019/04/20、最終更新 2019/04/24)