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「甕棺」と倭王権


 既に述べたように「一大率」は「伊都国」でその権勢をふるっていたとみられ、また同時に「博多湾岸」で「睨み」を聞かせていたものと思われますから、「伊都国」の領域も「博多湾岸」まで伸びていたとみられるわけですが、それは「奴国」の位置や「邪馬壹国」の位置についての従来の理解とはかなり衝突するものです。しかしそのような理解が著しく不当なものではないことはたとえば、「甕棺」の分布からいえると思われます。

 「甕棺」とは「弥生時代」の九州北部に特有の埋葬方法であり、大型の「甕」(「かめ」或いは古田氏によれば「みか」)に遺体を収納し(主に屈葬)、それを土中に埋める形式のものですが、このような埋葬法を使用する人たちとそうでない人たちの領域には明確な地域差があるとされます。
 この「甕棺墓」の全盛期は「卑弥呼」の時代をやや遡上するものではありますが(弥生中期から後期)、そのような「同一祭祀圏」としての性格はその後の各国に継承されたものと見るべきであり、その推移を見ることは「卑弥呼」の時代の様相を窺う格好の史料となると思われます。それを踏まえてみてみると、「甕棺」という墓制を行っている地域は「西」は「松浦川」を基準として区切られ、東は「福岡県」の「多々良川」までがその範囲とされています。この範囲は「通常」の理解において「末廬国」「伊都国」と「奴国」にまたがっています。さらに「古田説」に従えば「邪馬壹国」の領域さえもその中に含んでいることとなります。

 「奴国」や「邪馬壹国」の領域が「松浦川」まであったとも考えにくいのは確かですから、あきらかに「複数」の「クニ」の領域をその中に含んでいるわけですが、このような「甕棺」の分布は、「同一の墓制」は「同一の祭祀圏」に属するということを踏まえると、これらの国々が同一政治・文化圏に所属していることを示すものであり、それは「伊都国」について「邪馬壹国」(女王国)に「統属」している(「皆統屬女王國」)という表現があることと関連していると思われ、「伊都国」と「邪馬壹国」とが同じ様式の埋葬形式を採用していたことをも示しています。しかし、この両国は通常の理解では「隣接」していないと思われますから、その間にある国(それが「奴国」と「不彌国」さらには「伊都国」の向こう側の「末廬国」)においても少なからず「統属」といえる関係があったことを示していると思われます。それを示すように確かにこれらの地域は「弥生時代」においてすでに「王権」の存在を示す遺跡が多量に出土している領域でもあり、その意味で「邪馬壹国」だけではなく「九州北部」全体において「倭」における「先進地域」であったものと言えます。

 また、中国では「殷代」の「王墓」から多数の「殉葬者」が確認されていますが、これは「戦争捕虜」であると考えられており、それはその「王」の功績を顕彰する意味ではないかと考えられています。「倭」の場合においても(「中国」と通交があったとみられる「伊都国」「奴国」の場合は特に)同様ではなかったかと考えられることとなるでしょう。このような対外戦争による「戦争捕虜」は「奴婢」となったと思われ、古代においてはそのような一種奴隷の存在が「強い権力者」の存在と表裏を為すものであるのは自然であり、「甕棺」に埋葬されている人たちのかなりの部分は「奴婢」であったのではないかと考えられることとなります。その分布はそれら「強い権力者」の統治の主要な範囲を示していると思われ、これらの地域にそのような「奴婢」あるいは「殉死」そして「甕棺」という様式を共通する「強い権力者」がいたことを示すものでもあります。

 「卑弥呼」の死に際して「殉葬」されたという「百余人」という「奴婢」を収容したものも(時代としては「木棺」が主要な「葬送形式」となっていたとは思われるものの)「甕棺」ではなかったかと思われ、その意味でも「邪馬壹国」の領域が「九州北部」であるのは自明と言えますが、他方「末廬国」などとは別個にその領域を想定すべきとすると「邪馬壹国」の領域自体もある程度限定して考えるべき事となるでしょう。これを「博多湾岸」に設定すると「奴国」と「伊都国」の領域が重なってしまうこととなりますから、それを別個に領域を確保するとした場合、「邪馬壹国」はやはり「大宰府」付近以南の地区に設定するのが妥当と思われることとなります。(もちろんそこも「甕棺」墓制地域です)その場合その周辺からは「王墓」と思われる「豪壮な副葬品」を含む遺跡は出ていないわけですが、それについては既に考察したように「卑弥呼」の「邪馬壹国」が「後発」の王権であり、時期的に「魏」の薄葬令に則った墓制を採用していたものだからという理由が最も考えうるものです。
 その意味では「伊都国」の領域と「奴国」の領域、さらに「邪馬壹国」の領域などが現代の感覚で言う国境線のようなもので明確に区切られているとは考えない方が良いのかも知れません。つまり、この「甕棺分布」からは即座に「伊都国」の領域が博多湾岸まで伸びてはいなかった、とはいえず、逆に言うと「多々良川」沿いの「博多湾沿岸」という領域では「甕棺墓」が急激に減少しているわけですから、そこには「強い権力」が及んでいなかったことを示唆するものですから、そこが「邪馬壹国」など中心権力の地ではなかったこととなり、「その余の傍国」とされる領域ではなかったかと考えられることを示すものです。

 さらに「末廬国」の領域についても「松浦川」からそれほど西側に広がっていないこともまた明確と思われます。それは「松浦川」を境として「甕棺墓」が大きく減少すると言うことと、その西側でも松浦川に接する地域では「甕棺墓」が認められるものの、その中への遺体の埋葬法が他地域と異なるとされ、そのような墓制や埋葬法という重要な習俗が同一の王の支配地域内で大きく異なるとは考えにくく、これはその付近に当時の「倭王権」の直轄支配領域の末端があったことを示すと考えられます。この「境界線」がその後移動したという可能性もないわけではありませんが、それでも「川」や「山」という自然国境はかなり堅固なものであり、大規模な橋や道路の造成などがなされない限り状況が大きく変化するとは考えにくく、「卑弥呼」の時代にあってもそう大きく「西側」へ支配領域が拡大したとも考えられないこととなります。
 このことは「魏使」など外国使者の入港する港湾が現在の「唐津」付近であったらしいと推測されることにもつながるものです。つまり、「一大率」は「魏使」などを「博多湾」から遠ざけて入港(入国)させたと見られるわけですが、他方この「松浦川」以西に大きく外れた地域へは誘導しない或いはできない状況が存在したのではないかと考えられる訳です。(服従はしていても別の氏族であったという可能性があると思われます。)そう考えると、「松浦半島」の先端や以西に「魏使」の出入国地点を措定することは困難であると考えられます。このような重要な港湾等の拠点が「直轄領域」つまり「直接統治」の範囲の外であるとは考えにくく、そのことからも「松浦川」以東に「一大率」の外交窓口があったとみるべきことを示します。
 この点について参考になるのが『隋書俀国伝』に示される「行路記事」です。そこでは「附庸国」として「筑紫(竹斯)」以東が示されており、その直前に書かれた「壱岐」「対馬」が外れています。これはその「壱岐」「対馬」が「附庸国」ではないこと、つまり「宗主国」の範囲であることを示すものですが、これもまたそれまでの時代の推移を反映しているとみるべきものでしょう。いずれにしても「博多湾岸」に「伊都国」の領域があったとしても不思議ではないことが甕棺の分布から言えるものと思われるものです。


(この項の作成日 2015/01/23、最終更新 2019/12/30)