ホーム:「弥生時代」について:魏志倭人伝について:

「邪馬壹国」の位置


 「伊都国」と「奴国」の領域について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなりますが、古田氏をはじめとする多元史観論者の多くは「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。
 古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。
 「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのような宝玉類は出てこないでしょう。そう考えると、これらの宝玉類はそのような「薄葬令」が出される以前の墓と考えるべきことを示すものです。
 「卑弥呼」の墓を造るに当たっては「難升米」や弟王(この人物はあるいは「難升米」と同一人物か)あるいは次代の王である「壱与」などの意志が関与していると見られますが、彼らが「魏」の朝廷の意志や「薄葬令」を知らなかったとは思われず、そうであれば無視などはできなかったはずです。
 また「卑弥呼」の墓は「魏」から「張政」が「告諭」のために来倭中に造成されたものと見られますから、いわば「魏」の使者の監視の下で作られたこととなります。そうであればなおのこと「薄葬令」を意識せずにはいられなかったでしょう。とすればこの時「奴婢」は殉葬したものの「宝物類」は埋納されなかったと見るべきこととなります。そうであればこの「豪華」な副葬品が出土した「須久・岡本遺跡」という地域は「邪馬壹国」ではなくそれ以前の「倭」の代表権力者であった「奴国」(あるいは「伊都国」)の領域と考えるべきこととなるでしょう。
 たとえば「奴国」はそれ以前の「倭王権」の中枢であった時期があったものと思われ、その時代に中国と関係ができ「宝物類」を下賜されたことがあったものとして不自然ではなく、それらを「埋納」したということが考えられます。(そもそも「皇帝」からの下賜品というのはそれほどバリエ−ションがあったとも思われず、「倭」など「夷蛮」への下賜品としてはある程度決まっていたという可能性が考えられるでしょう。その意味では「卑弥呼」への下賜品と似た内容となったとして不思議はないと思えます。)

 この地域が「奴国」であったという可能性は「二万余戸」という人口にも表れており、「博多湾岸」のかなりの部分を占めなければこの人口を収容できないと思われます。「博多湾岸」を「邪馬壹国」が占めるとすると、「奴国」の領域は(西側の)「山」に押し込められかなり狭くなるでしょう。それでは「二万余」という人口を格納できないと思われるわけです。(でなければ「正木氏」のように唐津付近まで「奴国」の領域を広げる必要があると思われますが、それでは「博多湾」の防衛を担うはずの「一大率」の存在が浮いてしまうでしょう。)
 もう一つは「水城」の存在です。「水城」の構造の解析から、その基礎部分には「敷きソダ構造」が採用されており、その最下層の「ソダ」の年代判定として「卑弥呼」の時代まで遡るものもあるとされています。(※1)
 「水城」の位置とその構造から考えて、「水城」は首都防衛の重要な施設であったと見るべきこととなりますから、「水城」よりも海岸に近いところに首都があるとすると「水城」の存在意義と反してしまうこととなります。これは後世の太宰府などと同様「首都」となるべき領域は水城の「背後」にあると考えなければならないと思われます。(「狗奴国」との戦いの中で構築されたものでしょうか)それを示すように後に「元寇」に備えて造られた「防塁」は「海岸線」に存在していました。この時代は「博多湾岸」にその九州統治の中心があったものであり、その防衛線はそれよりも海岸側に造られて当然であることをしめすものですが、それは「水城」によって防衛されるものも当然「水城」の背後になくてはならないことを示すものです。
 さらに「神護石」遺跡の分布も「筑前中域」にはその中心がありません。それよりも「筑後側」に偏した付近にその防衛すべき主体があったと見る方が正しいと思われます。もちろん全ての「神護石」遺跡が「卑弥呼」の代まで遡上するというものではありませんが、「祭祀」に使用された遺物の時代判定からは一部についてはやはり「三世紀」付近までその起源が遡上すると考えられるものもあるとされます。(※2)そう考えると、「水城」や「神護石」という重要拠点の防衛として構築されたらしい遺跡の存在から考えて、「博多湾岸」ではなく、そこから一歩下がった現太宰府付近にその中心があったと見るべきでしょう。
 それはまた『倭人伝』に記された「伊都国」からの「行程」からも推定できます。
 伊都国からの距離として(「魏使」の常に留まるところと云うのが現「吉野ヶ里付近」と見てそこから出発したとする場合)距離が明示されておらず、これは「一日以内」の行程であったことを示すものでありせいぜい「二〇〇里」程度と思われ、「実距離」として15km程度が推定されますが、これを地図で確認すると「太宰府付近」までその範囲として含むことが可能と思われますから、位置関係としては矛盾しないと思われます。

 ところで「一大率」は「伊都国」において「刺史の如く」存在しているとされますから、「王」には実権がないものと考えられますが、このようなこととなった経緯については以下の通りと考えられます。
 「伊都国」は「黥面文身」の本拠とでも言うべき領域であり、またその領域はほぼ「海浜」に限定されていたと思われます。つまり彼らは基本的に「海人」であったと思われるわけですが、しかし「邪馬壹国」率いる諸国は「後漢」との折衝を経て以降「律令制」と「国郡県制」のような階層的行政制度を構築しようとしたと推定され、その中心は「農業」であったことが「伊都国」の衰亡に関係していると思われます。
 中国においては「農業」が基本であり、「稲作」と「養蚕」というように男女の労働負担の振り分けも(慣習ではあるものの)決められていました。これを「倭」でも取り入れようとしていたと思われるわけですが、『倭人伝』には「倭」が「漁業」、つまり「海人」が中心の領域であるように書かれています。「末廬国」の描写のところやそれ以外でも「黥面分身」の風習や「沈没して魚介類を捕る」というようなことが書かれており、「魏使」にとって珍しいものであったことが窺えます。しかし「租賦」を納める「邸閣」の存在も書かれているように、当時の「倭」では「租」が人々から徴集されていたと思われますが、これは「穀類」であり、その中心は「稲」でした。「稲作」には広い領域を必要とし当然その中心は「内陸」となります。これは即座に「奴国」「邪馬壹国」などの領域の方が「租」の実量において多数を占めることを示し、相対的にこれらの国々の方が政治的実力も高くなることとなったことが推定できます。
 「賦」については「布帛」つまり「絹織物」を中心とした繊維類や各国の特産物などを貢納するというようになっていたものと思われ、魚介類なども当然この中に入ってはいたと思われますが、税の主体が「穀類」となったことは動かしがたく、その意味で「邪馬壹国」について『倭人伝』で戸数が「七万」という大きな数字とされていることは重要です。このような戸数は「東夷伝」全体でもどの国にも見られずその意味で「邪馬壹国」がずば抜けて大きな人口を保有していたことがわかります。このことからかなりの量の「租」が「邪馬壹国」から収集可能であったものと思われ、それは即座に「邪馬壹国」の「政治力」の増大につながったものと思われます。つまり「稲作」そのものは当然国内では以前から行われていたものですが、それが「税」の中心となるという事態に立ち至って以降「海人」の国である「伊都国」はその体制の中心から遠ざかることとなったのではないかと推察されるわけです。

 何か明証があるわけではありませんが、「伊都国」の権力が衰えたのは「卑弥呼」の死後のことではないかと思われ、代わりに立ったという男王が「伊都国」関連の人物であったという可能性があり、それが受け入れられなかったと云うことから「伊都国」の権威の失墜と云うことにつながったのではないかと考えられます。そして、それ以降「一大率」の拠する場所は「奴国」の支配下に入ったと云うことではないかと推察されるわけです。つまり「伊都国」の権威失墜に「奴国」が関与していたという可能性は高いと思われ、結果的に「奴国」のいわば「多数派工作」が成功したと云うことではないかと推察されます。


(※1)古田武彦『俾弥呼 鬼道に事へ、見る有る者少なし 』2011年ミネルヴァ書房


(この項の作成日 2014/09/06、最終更新 2015/06/05)