「卑弥呼」の祭祀については(後にも述べますが)、『倭人伝』の中では「鬼道」という用語が使用されています。
『倭人伝』
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事『鬼道』、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。…」
ここでいう「鬼道」については『三國志』の中ではこの「卑弥呼」の例の他には「五斗米道」の例しか見られません。そのことは「卑弥呼」の祭祀と「五斗米道」の祭祀が(その質的部分)似ているという意味合いを多分に含んでいると思われます。
ところで、「鬼道」ではなく「鬼神」となると「半島諸国」に関連記事があります。
「高句麗伝」
「高句麗在遼東之東千里。…其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭『鬼神』。又祀靈星、社稷。…」
「韓伝」
「…常以五月下種訖、祭『鬼神』、羣聚歌舞、飮酒晝夜無休。其舞、數十人倶起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢、亦復如之。信『鬼神』、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事『鬼神』。諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善惡有異。 …」
「…弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似,祠祭『鬼神』有異,施竈皆在?西。…」
これらについては「鬼道」という語は使用されておらず、そのことは、ここで触れられている「鬼神」というものに対する信仰と「卑弥呼」の「鬼道」とが内容が少なからず異なることを示すものであり、「鬼神」信仰の方がより土俗的、未開的な要素が多いことを示すものと思われます。
この中で注目されるのは「韓伝」であり、「鬼神」を祭って「歌舞」するとされますが、その舞は「鐸舞」に似ているとされます。この「鐸舞」については『三國志』の中ではここに出てくるだけで他には触れられていませんが、それ以前の「漢魏」の「楽」として「鐸舞」が出てきており、少なくともその時代には宮廷で行われていたらしいことが窺えます。
「…其後牛弘請存?、鐸、巾、拂等四舞,與新伎並陳。因稱:「四舞,按漢、魏以來,並施於宴饗。…鐸舞 ,傅玄代魏辭云『振鐸鳴金』,成公綏賦云『? 鐸舞庭,八音並陳』是也。…」(『隋書/志第十/音樂下/隋 二/皇后房?歌辭』より)
ここでは「鐸」を鳴らして舞うとされているようですが、詳細は不明です。この「鐸舞」に「韓伝」に書かれた現地の舞が似ているというわけであり、そのことからこれが中国から伝わったものである可能性が高いと思われます。
このように「鐸」は「中国」や「半島」にはよく見られたものであるわけであり、それが「収穫祭」などで「祭祀」の一環として行われていたことを示すものですが、そのようなものが「倭」つまり列島の領域の一部で見られたとしても不思議ではないこととなります。
この「鐸舞」に使用されている「鐸」と思われるものが実際に「半島」と「北部九州」から出土しており、「小銅鐸」と呼ばれています。それはいわゆる「銅鐸」に比べ「小型」であり、また形や文様も始原的と思われ、時代の差(古さ)を感じさせます。
この「小銅鐸」の年代としては「弥生中期」から「後期初頭」が想定されており、近畿における「銅鐸」の祖型という指摘がありますが「短絡的」といえるでしょう。一元史観に毒されているという言い方が(きついですが)いえるものです。
また「韓伝」では「大木」に「鈴鼓」をぶら下げるとされ、そこには「鐸」の文字はないものの、「鐸舞」で使用された「鐸」との関連が考えられます。それらは「近畿」における「銅鐸」を使用した祭儀がそれらに類似していたという可能性を示唆するものでしょう。
「鈴鼓」も「銅鐸」も基本的にはよく似た形状であり、揺れ動かされることにより音を出し、その音色によって「祭儀」にアクセントがつくという点では同様であると思われます。このことから「銅鐸」もまた「大木」などからつり下げられて使用された可能性が高く、同様に(「死者」であるところの)「鬼神」を祭る儀式に使用されたものと思われます。
また「別邑」が設けられそこは「蘇塗」と呼称されたということは、日本語の「外」(そと)の語源とも思われ注意されます。(節分で「鬼は外」という文句にもそれが残されているとも考えられないでしょうか)
この「小銅鐸」の発展型というべきものが、「卑弥呼」の「領域」ではなく、「狗奴国」率いる諸国で祭祀に使用されていたと見られる訳であり、「狗奴国」の率いる諸国と「卑弥呼」の領域とでは「祭祀」の種類が異なると共にその伝来の起源や段階が異なっていたという可能性が考えられるものです。
「狗奴国」の祭祀用具が「銅鐸」であるとともに、そのルーツとしては中国南方の「江南地域」あるいはその背後である「雲南省」などの地域が考えられているようです。このことから「三国時代」にあっては「呉」の地域と関係があったと見るべきことを示しています。このようなことが背景にあったとすると、「卑弥呼」と「魏」の間に「支援」関係が構築されたことも首肯できると思われます。
「狗奴国」の背後に「呉」があり、「呉」の影響の元に「祭祀」が行われていたとすると、「魏」としては「卑弥呼」の「邪馬壹国」の側に立って行動することが国益にかなったことであり、戦いの場において「邪馬壹国」側に立って「告諭」したことも当然ともいえることとなるでしょう。(後述)
そもそも「銅鐸」は、「魏」では「祭祀用具」ではなかったわけですし、それが「祭祀」に使用されていたとするとあまりに「異文化」過ぎることが問題となってしまい、良好な関係が築きにくかったのではないでしょうか。それは「卑弥呼」の「祭祀」でさえ「鬼道」と見なす「魏」の王権のことですから、なおのこと違和感が強かったものと思われます。
研究によれば(※)この「大型銅鐸」の出土分布は「近畿」から「東海」へと広がっており、「尾張氏族」の範囲とほぼ重なるとされます。また「銅鐸」の鋳型の多くが「石」からできているのが確認できますが、尾張氏族の支族(伴造)として「石造部」がいることも注目されます。彼らにより「銅鐸」が製造されていたのではないかと考えられるわけです。そう考えると「狗奴国」の支配構造の中に「尾張氏」の「祖」というべき氏族が介在していたことを示します。
その後「尾張氏族」は本拠地から東方に移動する模様であり、それは「外的圧力」を受けた事がその原因と考えられ、それは「倭の五王」の時代ではなかったかと考えられます。そしてそれ以降「美濃」が彼らの氏族の新しい中心となった時期があったと見られます。(それ以降は「愛知」付近へ移動したもの)
「倭の五王」の筆頭である「讃」は「四世紀の末」から「五世紀初め」にかけて王権を確立したと思われ、「百済」と友好関係を樹立し、半島への権益確保に勢力を伸ばしていました。このような拡張政策の対象となったのが「半島」だけではなかったのは当然ともいえ、後の「武」の上表文にも書かれたように、「九州島」の内部及び「近畿」などへの勢力伸長が行われたものと思われます。そのための「ツール」となったものが「半島」からもたらされた「馬」であり「刀剣類」ではなかったでしょうか。
この時の「讃」の「国内」征服行動は「騎馬集団」によるものであったらしく(後述)、各地に「馬」と「馬具」の遺物が多く出土する状況の原因となっていると思われます。
これらのことは「讃」が「卑弥呼」の後継王朝である可能性が非常に高いことを示すものであり、その出発地が「武」の上表文の示すように「九州島」の中にあったらしいことが窺えます。
またそれは「讃」の時代まで「卑弥呼」の王朝と「狗奴国」の王朝が並立していたことを示すものとも思われます。
そして「銅鐸」の終焉もこの「讃」による国内征服行動の結果であったと思われ、この時点で「狗奴国」は「銅鐸」を捨てて「三角縁神獣鏡」を受け入れる事となったものではないでしょうか。(ただしこの時点では「讃」の王権と同一の墓制を強要するような政策は行っていなかったものと思われます。)
(※)田中巽「石作部と銅鐸」甲子園短大紀要一九七〇年
(この項の作成日 2014/06/15、最終更新 2014/08/16)