ホーム:「弥生時代」について:

王権交代と「鉄器」


 「日本列島」の「鉄」の歴史は「砂鉄」による「たたら製鉄」に始まります。これは「弥生時代」に始まるものであり、主に「出雲王権」の版図の中、特に「筑紫」「出雲」周辺で「渡来人」などにより行なわれていたものと考えられます。
 その後半島で「鉄」が採掘されるようになり、それを「倭」諸国も利用するようになります。これはついては『魏志韓伝』に以下のように書かれています。

「國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」

 ここにあるように「辰韓」からの供給であったようです。ここで「鉄」を用いるとしているのは「錬鉄」の状態ではなかったかと思われます。
 「鉄」製造には「鉄鉱石」(酸化鉄の状態)を1000℃以下で(酸素を余り送らないで)燃焼させると、発生する一酸化炭素で還元されて「錬鉄」ができます。これを再度熱して「鍛造」する事により「剣」や「農機具」が割と簡単に製造できます。そのため「製鉄」の方が「製銅」より先行したのではないかという識者も居るぐらいです。1500℃などの高温は必要ないのです。高温を製造するには強制的に酸素(空気)を送るなどの当時として先端的技術が必要ですが、そのような技術なしに鉄製品を造る事ができるのです。
 このように利便性があり、利用価値が高いとするとこの状態であれば「貨幣」として普遍的価値を持っていたとして不思議ではありません。(完全な鉄加工品ではそれを再度溶解させるには高温が必要となるため「貨幣」たり得ないと思われます)

 ここでは「從取之」と書かれており、これが意味することがやや不明ですが、「欲しいままに取る」という解釈もあるようであり、そうであれば、大量に国内に「鉄」が導入されたこととなると思われます。もっとも「順番に」取るとという意もあると思われ、そうであってもやはり同様に「鉄」が大量に列島内(特に「筑紫」)に流入したとみることは可能でしょう。それを示すように『魏志倭人伝』にも「鉄鏃」について記事があります。

「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。」

 ここでは、「鏃」つまり、矢の先頭につけられる「矢の威力」の急所ともなるべき部分に、「鉄」が使用されていると言っているわけです。古代の戦争において「弓矢」は汎用の武器であり、非常に大量に使用されたものと考えられます。「鉄」製の「鏃」であれば、「盾」や「甲冑」なども「薄いもの」であれば貫通してしまうぐらいの威力があると考えられ、このため「鉄鏃」は大量に国内で製造されることとなったのではないでしょうか。

 また、『韓伝』に書かれた「鉄」供給が行われていた時期については「二郡」つまり「楽浪郡」「帯方郡」という名詞が書かれている事を捉えて「後漢」から「魏」の時代の事と見ることもできそうですが、「出雲」から列島の覇権を奪ったのが「紀元前二世紀付近」の「弥生時代」の半ば過ぎと考えられる事を踏まえると、少なくとも「委奴国王」が「列島」を保代表する王権という自負を以て遣使した時点において「委奴国」(これは「倭の奴国」と見ていますが)の主要な兵器として「鉄剣」等の鉄製品があったであろうと考えられるものです。つまりほぼ紀元前後には「鉄」材料がかなり普及していたと見るべきこととなるでしょう。その意味で「出雲」の「賀茂岩倉遺跡」や「荒神谷遺跡」から「銅剣」「銅矛」が大量に出土したのは示唆的であると思われます。
 これらは「大地震」等の自然災害に対応できなかった「出雲王権」の失墜の過程を示すと思われますが、言い換えれば「鉄器」の威力の前に「屈服」した状態を示すものともいえるでしょう。

 「出雲」では「半島」から大量の「鉄」が流入する以前から「砂鉄」を原料とした「鍛冶工房」が存在していましたが、そこで生産される「鉄」は「少量」であり、純度の高い「優秀」な「剣」を製作することはできるものの、「大量生産」は出来ません。このためそこで制作された「鉄剣」などは「王」などの「限られた人たち」だけの独占物であったと考えられます。そして、「半島」(「辰韓」)より「大量」の「鉄」(「錬鉄」)が流入するようになり「筑紫」を中心とした地域で「鉄製武器」が大量生産され始めると、その「鉄製武器」が「筑紫」の周辺に行き渡るようになり、その結果「武器」が「争い」を呼ぶようになった結果それが「国譲り」に現れていると考えられます。

 「記紀」の「国譲り神話」を見てみると(たとえば『古事記』)、派遣された「建御雷神」は「十握劒」を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座った、と書かれており、このような新しい鉄製武器を背景にした「威嚇」により「出雲」を中心とした「旧体制」は崩壊し、「筑紫」中心の「拡大倭王権」が形成されていったものと考えられます。
 「記紀神話」のパターンはいくつかありますが、「普都大神」(「布都御霊」とも「物部経津主之神」とも「經津主神」とも)に「建御雷神」(「武甕槌神」とも)が付随するというのが基本であると考えられ、これは「強力」で「鋭利」な「兵器」を所持した「物部」(布津大神)を先頭とした遠征軍が「大伴」(建御雷神)を引き連れる形で「出雲」地域を手始めに、列島内各地を席巻していくこととなった事を示していると考えられます。「物部」は戦闘集団であり、その「兵器」の優劣は戦いの際に「生死」を分けるものですから、他にも増して「鋭利」で「丈夫」である必要があったものです。これを「神」として崇めたとして不思議ではありません。
 しかし「大伴」はその名の示すとおり「親衛隊」であり、つねに「倭王」の至近に警衛として存在していたものです。そのことから考えて「物部」と「大伴」だけが「遠征」に出発していたはずはなく「倭王」が同行する「親征」という形で行われていたと見られるのです。


(この項の作成日 2019/01/10、最終更新 2019/02/22)