『後漢書』によれば「安帝永初元年」つまり「一〇六年」に「倭国王」とされる「帥升」の貢献があったとされます。
「建武中元二年(五十七年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(一〇六年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』
この記事によれば「安帝永初元年」という年次で「帥升」は「皇帝」に会うことを「願請」したとはされているものの、それが実現したとか、「後漢」から改めて彼を「倭(国)王」として任命するというようなことがあったとは書かれていません。
しかし、ここでは「帥升」について「倭国王」という表現がされています。これは内実として「光武帝」の末年に「倭」を代表する形で「奴国」が「後漢」の光武帝から「金印紫綬」を受けていることと関連していると思われます。
この「奴国」の奉献はちょうど巨大津波が列島(特に西日本)を襲ったと考えられる年次付近(あるいはその直後か)と思われます。そのこととこの「遣使」の間には関係があるのではないかと推察されます。
ここで使用されている「倭国之極南界」という表現に近似する用例は『後漢書』内にかなりありますが、いずれの場合も「極」は「極める」という意味ではなく「最高」とか「最大」という意味で使用されています。文法的には「之」で接続されているので「極南界」という語句は「名詞句」であると判断できます。その場合「極」は「形容詞」となるでしょう。つまりここでも「最大の」という意味となると考えるよりなく、「倭」つまり「倭人」が居住する地域の範囲では最も南の境に位置する、という意味とならざるを得ないものです。
この「奴国」がそのようなロケーションであったとすると、当時の「倭」の範囲として後の「狗奴国」につながる存在が「近畿」付近を措定できることを考えるとそこを北限として考えることとなりますが、そのように「倭」の広がりを想定した場合「九州島」自体を「極南界」という表現したとして不自然ではないといえるでしょう。
ところで、「高地性集落」の分布からみても「九州」にそれほど数も多くなく、また「比高」の低い集落しか見られないことなど、「二千年前」の地震の際に発生した「津波」の影響が些少であったという可能性があるでしょう。
この時の巨大地震の震源が「南海トラフ」であること、またその西側である「日向灘」付近までプレートが動いたとしても、九州島の北岸まで回り込んでくるほどの津波そのものがなかったか、あっても相当程度エネルギーが減衰していたものと思われることなどから(実際に陸上地域に津波堆積物の痕跡がないと思われます)、他の地域に比べて生産力や人や財産に損失がそれほど多くなかったということが考えられます。そのため国力の低下などが起きたとはいえず、他の国に比べ「優位性」を持っていたという可能性があるでしょう。
そう考えるとこの「後漢」への使者派遣は津波直後であり、他のより東方の国々の「国力」(生産力や人口など)低下に対応して「倭」の中心王朝の地位を固めた時点であったとも考えられるものです。ただしそれはまだ列島を覆うほどの広範囲に亘るものではなかったものであり、それは記事中にも「金印」の字面にも「倭王」という表現がされていないことにも現れているといえるでしょう。あくまでも「倭」という一種の地域名あるいは地方名を冠した表現となっており、その権力がまだ十全ではないことを間接的に示していると思われます。
それはその後の「一〇六年」の「帥升」の「貢献」につながるものであり彼も「九州北部」にその拠点があった「奴国」の王であったという可能性が最も高いと推量されます。
彼はこの段階で『魏志倭人伝』に「邪馬壹国」率いる「倭王権」の実情として書かれているような高度に統一された統治体制の「原型」を構築したものとみられます。
つまり、この「帥升」に至って、諸国連合的な体制から進化したものと思われ、それは「原・狗奴国」との対立という外圧がそうさせる要因となったと考えられます。体制強化という至上命題の中で「国郡県制」というべき統一王権としての政治体制を作り上げたものと見られます。そして、その時点で「奴国」へ授与された「金印」も「帥升」の手中に入ったと見ることができるでしょう。ただし ここで「倭国王」と書かれているのは『後漢書』の表記法によるものと思われ、実態とは異なると思われます。
(この項の作成日 2014/07/08、最終更新 2017/12/02)