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「荒神谷」の「荒神」とは


 「出雲」で「銅剣」が大量に発見された「荒神谷」という地名は近くに「荒神」の社があったことから命名されたといいます。その「荒神」信仰は神道や仏教というような区分とは異なり、かなり「土着」的信仰であったと思われています。その「荒神社」はほとんど「瀬戸内沿岸」に集中しており、「岡山」を筆頭に「広島」「島根」「兵庫」「愛媛」「香川」「徳島」「山口」などの他「島根」など日本海側にも一部数えられます。その祭神としては「道祖神」の他「奥津彦命」「奥津姫命」「軻遇突智神」といういわゆる「火の神」に類する神が選ばれており、「竈神」として俗間の信仰が深かったものです。また、その他「牛頭天王」との関係も深いとされています。

 これらを見て感じることはそもそもその信仰されている地域として「弥生中期」に発生したと思われる「大地震」「大津波」の被害が特に大きかった地域と重なっているように思われることです。それはまたこの時代に形成されたと思われる「高地性集落」の地域とも重なっていると考えられるものです。
 この事から「推測」として「荒神社」という信仰が発生する要因となったものは「大地震」と「津波」ではなかったでしょうか。それを示唆するのが「牛頭天皇」と関連があるとされていることです。「牛頭天皇」は「素戔嗚尊」が道教的信仰に変化したものであり、「祇園社」の祭神となっていますが、この「祇園社」と「祇園祭」の起源に関係しているとされているのが「貞観地震」と呼ばれている今からおよそ千百年前に起きた東北を襲った大地震とそれによる大津波です。

 これについては『三大実録』や八坂神社の社伝である『祇園社本縁録』などによると「貞観地震」の十二日後に「清和天皇」は「御霊会」を行うこととしたものであり、「逆鉾巡行」の儀式を行っています。それは「素戔嗚尊」に対する鎮魂の儀式であったものです。
 当時「素戔嗚尊」は「高天原」にいるとされ、また「高天原」は関東(東の地の果て)にいるとされていたものです。地震はちょうどその場所で起きたものであり、「素戔嗚尊」の「祟り」がその原因と考えられたもののようです。「荒神社」の祭神として「素戔嗚尊」に関連する「牛頭天皇」が関係しているとされているのも「大地震」等の天変地異がその背後にあるのではないでしょうか。それを示すのが「民間」において「荒神」に対する信仰として「あやつこ」と呼ばれる風習があったことです。これは子供の「お宮参り」の際に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」印や「犬」という字を書くというものです。これは「悪魔よけ」とされていますが、これは「祇園社」から発行される「お守り」に「宇迦之御魂之神」という名前と共に「×印」が書かれている事に通じるものであり、更に「荒神谷」の銅剣に記された「×印」につながっているのではないかと考えます。

 「荒神谷遺跡」からは「三五八本」という多数の「銅剣」が出土しましたが、その大半に「×」印と思われるものが付けられていました。これらの「銅剣」は「武器庫」から出されたままの状態であったと推測したわけですが、「未使用」であったというわけではありません。それは「刃こぼれ」としか見えない傷が多くついていることから判断できます。これは「鋳造」の際に付着する「バリ」であるとする見解もあるようですが、そうではないと思われます。なぜならそのような「バリ」状のものは「刃」の部分にしか確認できないからです。「刃」以外には「バリ」らしいものが見えないようであり、握る部分だけバリをとったと理解するしかありませんが、それは合理的な理解とはいえないと思われます。 そう考えればこれは「刃こぼれ」と判断するべきであり、実際に使用されたと見ることができそうですが、そうであれば「×印」の意味も「荒神」信仰と同様「魔物よけ」であり、「戦い」の中で自分に対する危険を振り払う「呪術」として作用したと見ることができるでしょう。

 これらのことはこの「荒神」あるいは「荒神社」という存在と「魔除け」という一種の信仰がつながっていることを示しますが、それはこの「荒神」という存在が「祟り神」であることの裏返しではないかと思われるのです。
 「シリウス」に対する信仰の所でも触れましたが、本来の信仰は自然に対する「畏怖」に発するものであり、人間にはどうにもならないことが起きたときに、これを「祟り」つまり人間の何かの行いがその結果を招いたとする考え方となった可能性が高いと思われます。これを深く敬い、祭りを欠かさないことで「祟り」から逃れようとすることが原初的な信仰ではなかったかと思われるものであり(「太陽神信仰」もマウンダー極小期のように太陽活動に起因すると思われる気候変動がその契機と思われる)、この「荒神」も同様のものではなかったかと思われます。その「荒神」の集中している地域はすでに見たように明らかに瀬戸内周辺であり、この地域に何らかの「天変地異」が起きたことを推測させます。そして瀬戸内の「本州側」と「四国側」の両岸で同様に猛威をふるったとすると可能性が高いのは「大地震」とそれにともなう「大津波」ではなかったかと思われますが、それを示すのがこの地域で見られる「高地性集落」ではないかと考えます。
 既に述べたように「二〇〇〇年前」の地震と大津波に先立ち紀元前二五〇年付近でもかなりの規模の地震と津波があったと思われる訳であり、この「津波」発生時点で「銅鐸」が破棄されることとなったと見ているわけですが、それは「荒神信仰」と裏返しであったように思われる訳です。
 「銅鐸」という「祭器」が持っていた「神聖性」が「天変地異」の前に崩れ去ったときそれは「廃棄」されたものであり、改めて「祟り神」としての「荒神」が信仰されるようになったものであり、それは「出雲王権」の弱体化を示すものであったと思われるのです。それに対し「筑紫」の勢力はこの時の地震と津波の影響をそれほど受けなかったものではないでしょうか。それは「荒神社」が「筑紫」に見られないという事に現れているように思われます。「肥後」に僅かにあるようですが、そこより北には見られません。
 この時の大地震が「紀伊半島沖」に震源があったとすると九州島の内部ではそれほどの被害ではなかったという可能性が強いでしょう。(「龍神池」にも津波は侵入していないわけです)
 このように「荒神」に対する信仰が起きていたとすると「荒神社」の近くに「銅鐸」「銅剣」が廃棄されていたのは「偶然」ではないこととなるでしょう。

 
(この項の作成日 2019/01/10、最終更新 2019/01/27)