「弥生時代」に区分される遺物として「銅鐸」があります。この「銅鐸」は多く「宅地造成」など土地開発中に出土するものとして知られています。遺跡発掘中に出土した例がほとんどありません。
また、「古墳」からは決して出土しません。そのことから教科書などでも「古墳」以前の時期である「弥生時代」の遺物とされているわけです。またその出土分布の中心は「一般論」としては「畿内」とされています。
この「銅鐸」はその形状から「音を出すもの」であり、またそれによる「祭祀」を行っていたことを推定させるものでもあります。
(実際に吊り下げられた「舌状部」の当たる「内側」の特定の部分が変摩耗している例が確認されており、長期間にわたり「音を出していた」事が推察できます)
また後に「寺社」となった場所やその近辺からの出土例が多いことも特徴であり、そのような場所が「祭祀」が継続的、連続的に行われてきていたことを示すものであって、その「祭祀」の変遷を反映しているようでもあります。(実際に「銅鐸」を「梵鐘」に鋳つぶしたという例もかなりの数あるようです)
当時「銅鐸」は「神聖」なものであり「祭祀」の中心的位置にいたものと思われます。それを象徴するように「銅鐸」は「古墳」つまり「墓」とは全く別の場所に埋められたものであり、「穢れ」を嫌うものであったと推量されるものです。
古代においては「死」や「死者」は「穢れ」ているとされ、「忌避」すべきものと考えられていたと思われます。「寺院」はその後江戸時代になると「葬式仏教」となり、その敷地内に「墓」が作られるようになりますが、「神社」は今でも「死者」を遠ざけけています。これは「祭祀」の場所は神聖なものであるという観念があるためであり、「銅鐸」も当時「神聖」なものとして扱われていたものと考えられます。
この「銅鐸」が「埋納」されている状態で発見されているということに対しては、それが「廃棄」なのか「通常祭祀」の一部なのかということが問題とされているわけですが、それが必ず「埋められた」状態で発見されているということや、発見された「銅鐸」に「新古」混じっているものが多数あること、「入れ子」として重ねられているものもあることなど、さらに山陰など容易に人が近づけない場所に埋められている例が多い事などを考えると、これらの「埋納」例は「通常祭祀」の範囲を超えていることは明らかと思われ、その多くが「廃棄」されたものと思われるものです。
また、「銅鐸」が「祭壇」にあったことを彷彿とさせるような遺跡は全く発見されていないことからは、これら「銅鐸」が「祭祀」の中心的位置から除去され、他の「祭器」に取って代わられてしまい、「祭祀」の内容が大幅にしかも広範囲かつほぼ同時に「切り替わった」事を示すものですが、それは強制力を伴ったものと思われ、いわば「切り替えさせられた」ものと思われるわけです。そのことはこれら「埋納」された「銅鐸」は「廃棄」されたものと考えられるわけですが、それを証するように「破砕」されたものも散見されます。これはその「銅鐸」の「神聖性」を毀損して、それが持つ「呪術的能力」を無力化するためであったと思われます。
このように強力な「強制力」が存在していたとすると、この「銅鐸」が文字通り「青銅製品」であることを考えた場合、その「強制力」は「青銅器」以上の「霊力」を持ったものであることが示唆されるものであり、「鉄製」の武器を伴ったものであることが推察されます。(「出雲」で「銅鐸」が大量に出土した「加茂岩倉」遺跡では、至近の「荒神谷遺跡」に大量の「銅剣」が同じように埋められていたことが明らかとなっていますが、これも「廃棄」であり、一種の「武装解除」が行われた徴証ではなかったかと推測されます)
このような「埋納」(実際には廃棄)は紀元前後付近に起きた「大地震」とそれに伴う「大津波」の際にも行われたとみられますが、この場合はそれら自然現象に対する「呪術」が「無力」であったことの裏返しであり、より「効果のある」と思われた別の形式と大きさの「銅鐸」に取って代わられることとなった際の副次的な現象であったとみられ、それとは本質的に異なる次元の問題と思われるわけです。
これらの「廃棄」と「埋納」は「中心権力」の移動・交代の表れであると思われ、最も考えられるのは「出雲」勢力から「筑紫」勢力への交代あるいは奪取ではなかったでしょうか。
国譲り神話で示されているように「出雲」勢力はどこかの時点で「筑紫」勢力へと権力を奪取されたものであり、その際にそれを象徴的に表す行為が行われたものと見られ、それが「銅鐸」の毀損と廃棄ではなかったかと思われるものです。
そもそも「銅鐸」の変遷を見るとその初期から中期付近まではその形式の発信源は明らかに「出雲」にあったと見られ、それを採用する領域が「中国地方」から「近畿」「四国」などに広がっていたものであり、その時代が「鉄器」の伝搬と共に「筑紫」の勢力と入れ替わる形で終わりを迎えたものではなかったかと思われます。この入れ替わりのタイミングは他方「弥生中期」に発生する「高地性集落」との関係も考えられます。
この「高地性集落」は「弥生後期」の始まりという時代区分の契機となった大規模地震と大津波によって作られることとなったものと思われ、これにより「祭祀」者としての「出雲王権」の「権威」低下が起き、それを衝いた形で「筑紫」の勢力が「鉄器」を背景して権力の委譲を迫ったと見ています。
上に見たように「弥生後期」以来「銅鐸」出土の中心は「畿内」及び「東海」にあったわけですが、「弥生終末期」から「古墳初期」になって「消滅」(廃棄)した(させられた)ものです。しかし「卑弥呼」の時代が「三世紀」であってさらにいうと「弥生終末期」であり、またその中心領域が「九州」を中心とした西日本であることを考えると、「銅鐸」は明らかに「卑弥呼」の統治範囲にはないこととなりますから、『魏志倭人伝』に「卑弥呼」に服さずとされた「狗奴国」の領域で使用されたものであり、彼等の「祭祀」に用いる「神聖」な用具であったと考えられることとなるでしょう。
『魏志倭人伝』の記事の分析から「卑弥呼」が「女王」として率いる統治領域の範囲はほぼ「明石海峡付近」までではないかと考えられ、それより「東」の地域に「狗奴国」があったのではないかと見られることとなります。この推定される「狗奴国」の支配領域と「後期銅鐸」の分布範囲は重なっており、「狗奴国」の祭祀に「銅鐸」が使用されたのではないかと考えられることとなるでしょう。当然この「銅鐸」は「筑紫王権」ともそれ以前の「出雲王権」とも関係が薄いものと思われ、「近畿」から「東海」にかけて紀元前後に発生した新勢力ではなかったかと思われ、彼らは「大地震」と「大津波」発生以降勢力を伸ばしたものであり、「見せる銅鐸」として知られている大型の銅鐸を「神聖な祭器」とする集団であったと思われ、「卑弥呼」率いる「筑紫王権」とは異なる「祭祀」を行っていたものと見られるものです。
この「銅鐸」の原材料は「半島」原産のものと考えられ、その「半島」と「近畿」が関係が深かった時期に伝来したものと考えられますが、それは当然「出雲」から配布されたものであり、実際には「半島」と「出雲」の関係が深かったことを示すものといえるでしょう。
ちなみに「銅鏡」(三角縁神獣鏡)とはその原材料が異なるものであり、「銅鐸」を鋳つぶして「銅鏡」を製作したものではないことが明らかになっています。(双方の鉛の同位対比が異なっており、再溶融でそれが変化しないことが明らかとなっています)つまり「三角縁神獣鏡」は「近畿」の領域に外部から持ち込まれたものであり、可能性としては「九州」がその発信源であることが推察されます。
(この項の作成日 2014/06/15、最終更新 2019/01/12)