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「銅鐸」と「津波痕跡」


 以前の記事で「弥生中期」あるいは「弥生後期」というような表現がありましたが、これについて(今更のようですが)検討してみます。

 「弥生時代」の実年代については以前は「弥生早期〜前期初」が紀元前四〇〇〜三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇〜一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一〜五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていましたが、「歴博」の「弥生時代」の始まりを五百年早めるという説の登場以来、大方の理解は「弥生早期と前期」を「紀元前七五〇年頃から紀元前四〇〇年付近、弥生中期をそれ以降紀元前後付近まで、それ以降二五〇年付近までを後期」と見るようになったと理解しています。それは「高知大学」の津波痕跡の調査からもいえるものであり、この地震が発生したと思われる約二〇〇〇年前である「紀元前後」に「弥生中期」と「後期」を分ける分岐点があると考えられることを示しており、それは即座に「近畿」で高地性集落が多く見られる時期に相当することとなり、また銅鐸が一斉に廃棄されるタイミングでもあったと見たわけです。ところがその理解を覆すものが淡路島から発見された「松帆銅鐸」と言われるものです。
 この銅鐸の「内部」の土中から「有機物」(樹皮など植物片)が出土し、その炭素年代測定の結果「紀元前四世紀中頃〜前二世紀中頃」までの間にそれが土中に埋められたと推定できることとなりました。そのことはこれら「松帆銅鐸」そのものも同様の時期に埋められたと考えるべきことを示します。このことから銅鐸の埋められた時期として従来理解していた上記年代には疑いが生じることとなったものであり、実はもっと以前のことであったということになる可能性が高くなったものです。
 これに関して「通りすがりの素人」様は二〇〇〇年前という津波時期の推定に実際にはかなりの幅(誤差範囲)があることから、大津波の時期をもっと遡上して考え紀元前一五〇年付近と考えれば「松帆銅鐸」の埋納時期と重なるとされましたが、その推定と誤差の範囲でも重ならないサンプルがあることから、この提案は無理なのではないかと考えました。
 しかし「ただす池」(高知県須崎市)には二〇〇〇年前とは別に「前二五〇年」付近の津波堆積イベントも記録されており、このことは「二〇〇〇年前」の津波の時期の推定を遡上させるよりも、別の津波があったと見る方が合理的であることを示しているように思われます。これを基に更に検討した結果以下の推論が可能ではないかということとなりました。

 今回高知大学の津波痕跡の探索対象の池のうち痕跡が確認されたものとして「大分県佐伯市米水津の龍神池」「徳島県阿南市の蒲生田大池」「高知県須崎市のただす池」「高知県土佐市の蟹が池」「高知県南国市の石土池」「徳島県海部郡の田井ノ浜の池」「高知県高知市の住吉池」の計六箇所があり、このうち九州東岸の「龍神池」だけが紀元前二五〇年付近の津波痕跡が認められていないように見えます。他のより東方の池ではこの時にも津波痕跡が確認されているようであり、この時の地震の震源域として南海(紀伊半島沖)が想定できそうです。この場合であれば津波が来たとしても九州東部では陸域にある池まで及ぶことはなかったと見られます。しかしより震源域に近い「淡路島」においてはかなりの被害があったと見る事ができそうですから「松帆銅鐸」の土中廃棄と関連を考えることができるのではないでしょうか。そして更にそこから二〇〇年ほど経過後いわゆる「南海トラフ」の同時多発地震が起き、より広い範囲に被害があったと見ることも可能と思います。

 前二五〇年付近の最初の地震による津波が紀淡海峡から侵入し、瀬戸内周辺に被害を及ぼしたと見られ、この時点でこの地域を中心として「高地性集落」が形成されたと見られ、また「淡路島」と同様古い銅鐸の埋納が行われたという可能性があるでしょう。
 また「紀伊半島」においてもこの時点で「高地性集落」が形成されると共にかなりの銅鐸が「埋納」されたと見られます。(ただし一部はまだ低地に残留したものではなかったかと思われます)そしてそこから二〇〇年ほど経過してより規模の大きい地震があり、それに伴う大津波により各地に壊滅的被害があったと見られ(この時点で既に高地に移動していた勢力は生き残ったものとみられる)、この時点では「龍神池」にも津波の流入があったものであり、被害が九州北部にも及んだという可能性があります。このため各地でより多くの高地性集落が形成されたと見られ、多くの地域で「古い銅鐸」の土中廃棄が行われたと見ています。

 この一連の流れの中で最初の津波により被害が生じた瀬戸内の人々の「出雲」の祭祀(これが「銅鐸」を祭器とするもの)に対する「権威」が低下した結果「銅鐸」の土中廃棄が行われたものと思われますが、そこに「筑紫」の勢力が機に乗じて王権の移動を迫ったことで、この時点で「出雲」王権は完全に失墜したものであり、この時「銅剣」「銅矛」などの兵器も同時に埋納され、いわゆる武装解除が行われたと見ています。
 「淡路島」の「松帆銅鐸」も出雲の銅鐸と同笵関係が確認されており、「出雲」の影響下にあったことは確実と思われ、その意味で「出雲」の王権(神)を「祭祀」し重要視していたものがこの時点で行われなくなったことを示すと思われます。その理由としてはすでに見たようにこの災害を「鬼神の祟り」と見て、「出雲王権」の祭祀がこの「鬼神の祟り」に対して有効ではなかったと見なされたためであり、他の祭祀に取り替えられることの中で「出雲王権」そのものがその権威を失墜させることとなったものです。そしてその後の大津波により全国で被害があった時点以降被害がそれら他地域に比べ軽微であったと思われる「筑紫」の勢力が一気にその影響範囲を拡大したものであり、ここに広い地域を統治する「王権」が誕生したものです。推測すると「筑紫王権」は「銅鐸」祭祀によらない自らの王権とその津波被害の些少であったことをリンクして主張したと見られ、それを多くの人々が受け入れたものではなかったでしょうか。
 そしてその後の大津波により全国で被害があった時点以降被害がそれら他地域に比べ軽微であったとと思われる「筑紫」の勢力は一気にその影響範囲を拡大したものであり、ここに広い地域を統治する「王権」が誕生し、それまでの王権から権威が移動したことを中国に報告し、それを認めて貰うため遣使したと思われ、それが『後漢書』にいう「漢委奴国王」の金印を授与された王権と思います。(私見ではこれはその後『倭人伝』にも出てくる「倭の奴国王」であったと思っています。)
 これ以降近畿中心に「見る銅鐸」が盛行し「出雲」とも「筑紫」とも重ならない別の勢力により地域的権力者が発生したものと思います。こちらは『倭人伝』にいう「狗奴国」ではないかと考えます。


(この項の作成日 2019/01/27、最終更新 2020/02/09)