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高地性集落と津波


 「弥生時代」の遺跡として確認されるものに「高地性集落」というものがあります。これは主に弥生時代に確認されるもので「弥生中期の終わりごろ」(紀元前後付近)に「中部瀬戸内」と「大阪湾岸」、「弥生後期」(紀元二〇〇年頃)に「近畿」とその周辺に顕著に見られるものであり、通常稲作の生産性向上による村落のコミュニティ内部の権力闘争など矛盾が発生した結果、軍事的色彩を帯びる形で高地性集落が形成されたとされます。しかし、確認される範囲ではその高地性集落からは「武器」らしい「武器」は発見されておらず、逆に平地の集落と同様の遺物が確認されるなど、これが純粋に「軍事的」なものであるかどうかさえはっきりはしていません。
 ただし何らかの理由により「沖積平野」に留まっていることができなくなったがために、丘陵地帯に移動したものであり、それは集団でしかもある程度広範囲の地域でほぼ同時期に起きたものであることが重要です。
 
 たとえば、紀伊半島の海岸線に近い各所で「銅鐸」が多数発見されています。その時代的変化を見てみると当初「沖積平野」で確認されていたものが後には海岸線から数km入った内陸の丘陵地帯に連なるように集落ができ、そこから型が異なる銅鐸が多数発見されています。
 そもそも銅鐸の出土分布の中心は「畿内」とされています。(但し「古墳」から出ないと言うこともあり、「古墳」の分布とは「ずれて」います。)
 この「銅鐸分布」の範囲の中に前述した「高地性集落」の分布域が包含されており、実際に「高地性集落」の立地と「銅鐸」の埋納地はよく似たロケーションであることが指摘されています。(「高地性集落」の近辺の山陰など)更に銅鐸は全て「土中」から発見されており、「埋納」あるいは「廃棄」というような事情が考えられますが、その埋められた時期としてはほぼ高地性集落の発生時期とタイミングが一緒なのです。
 また、この「銅鐸」について、「平野部」で発見されるものと「高地性集落」近辺で発見されるものとは型が異なっているのが確認されています。つまり「平野部」で確認されるものよりも「新しい」と思われるものが「高地性集落」において確認されると同時に、そのような「新形式銅鐸」の分布範囲がそれ以前よりかなり狭くなるということも確認されています。
 具体的には「高地性集落」の近辺では「扁平鈕式」「突線鈕式」という形式の銅鐸が多く見られるのに対して、平地(平野部)では「菱鐶鈕式」あるいは「外縁付鈕式」が見られます。また銅鐸の表面の紋様の様式論で言うと「高地性集落」の出現と共に「扁平鈕式」「突線鈕式」共、表面を六カ所に区画する「袈裟襷文」という文様が現れるようになります。これはその祖型がそれ以前には全く認められないことでも異色とされ、それ以前と「断絶」があることが推定されています。(これについては外部からの流入ということがその要因として考えられているようです。)
 このように「集落」が移動し、さらに「祭祀」に関わるものが「変化」するということが起きるためには「外的」な要因が必要であり、それはよほど強力な政治的、軍事的要因であるか、そうでなければ「自然災害」を考える必要があるでしょう。そう考えると、「大地震」とそれに伴う「津波」の影響が考えられるのではないでしょうか。(※1)

 そもそも古代における「祭祀」はその対象が「天然自然」であり、人知ではどうにもならないもの、天変地異や気候変化、あるいは疾病特に流行性の病気(「疫病」と称されるもの)に対するものがその役割であったと思われ、「銅鐸」はそのような「祭祀」の際に使用される用具であったと考えます。
 「祭祀」においてはこれを鳴らしながら呪術(祈祷)を行う、あるいはそれに合わせ踊り狂うなどがあったのではないでしょうか。この時点の「銅鐸」は中に「舌」(ぜつ)があり、叩いたり、揺らしたりすると中で壁面と接触して音が出る(これは西洋鐘と同じ型式)というようなものであったものです。
 しかし「祭祀」の用具であるところの「銅鐸」の型式や大きさが自然に変化するということはありえません。祭具はあくまで「祭祀」に伴うものであり、それが変化するには「祭祀」そのものが変化する必要があります。
 「祭祀」の型式などは基本的には「安定系」と言えるものであり、外の状況等が変化しない限り変化しないものといえます。「後期銅鐸」はその大きさも形状もまた「音」が出るという際本的な部分が大きく変化しています。
 「後期銅鐸」は大きすぎて吊り下げることはできなかったと思われますし、「舌」がなかった様子が受け取られますから、使用法として地面に据えて使用することが推定されると共に「音」を出すという機能そのものがなかった(求められていなかった)可能性があります。これほどの大きな変化があったからには「祭祀」そのもののが大きく変化したと考えざるを得ず、それは「祭祀」の対象であった「天然自然」との交渉の結果であったと思われるわけです。つまり「地震」や「津波」などにより住民の命が失われたり生活環境などが大きく損傷を受けたりするような現実を前にして、人々は「新たな神」あるいは「新たな祭祀」を生み出す必要があったということが考えられるわけです。
 そしてそれが「津波」による被害から生み出されたものではなかったかと考えるのは、「高地性集落」の生成の契機が「津波」からの待避行動の一環と見られるからです。

 今回の「東日本大震災」においてもそうでしたが、大規模な津波の場合海岸線から数km内陸まで津波が到達することがあり、それは例えば北海道の釧路湿原など各地の「陸上地域」に津波堆積物があることが確認されていることからも推定できます。このような被害を経験すると、人々は「不安」と「物理的」な理由とから海岸線に居住を継続することはできなくなる場合があるものと思われ、安全と思われる線まで後退した形で「集落」を再形成することとなったと考えられます。
 これは後年の例ですが、浜名湖の近隣地域である静岡県湖西市の「長屋元屋敷遺跡」では、「宝永」年間の地震により、以前から存在していた東海道の白須賀宿の集落が甚大な被害を受け、村ごと北側の台地上に移転したことが史料に残されています。また「三重県鳥羽市国崎」においても「明応東海地震」(一四九八年)で平野部の「大津集落」が壊滅した後、生き残った人々が集落全体として丘の上の「国崎」へ移転し、そのままおよそ五〇〇年間平野部に戻らなかった例が知られています。また、その他にも「土佐」国(元高知県)に残る各種の資料には数多くの「集落」や「寺院」などが「宝永」の地震後高台や山の中腹などに移転したことが記されており、これはまさに東北地方で現在進行している状況でもあります。同様のことが「弥生時代」に起きたのではないかと考える訳です。

 「弥生」という時代そのものが、「沖積平野」が現在ほど発達していなかった時期であったことを考えると、海岸線は現在よりかなり内陸に入り込んでいたという可能性が考えられ、津波による浸水域は現在の海岸線から相当深く到達していたであろうと推察されますから、平野部に居住していた人々はかなり高地への移動が余儀なくされたということが考えられます。
 またそのような災害に襲われた場合、多くの人的被害も出したことと思われ、そのような中で「銅鐸」の製造に関する技術者も多くその命を失われることとなった可能性があり、「銅鐸」の「型」が変化する理由もそのような背景で考える必要があるのではないかと思われます。
 「銅鐸」の場合、「祭祀」に使用されるという「神聖性」から、「土器」などと違いその製造に関わっていた人たちはかなり限定的であったと見られ、そのような状況で大規模な自然災害が発生したとすると、その技術継承に支障が出たという可能性はあると思われます。
 その後地盤の隆起と河川からの流入堆積物で「浸水域」が減少していったものと考えられ、徐に平野部分で人々の活動が記録されるようになり、また「銅鐸」の異なる型が確認されるようになるのはそれを示すものと思われます。

 近年の調査(※)によっても「南海地震」あるいは「東海地震」と連動する「東南海地震」の発生は約150−200年おき程度とされていますが、そのうち約二千年前のものが「最大」とされ、「江戸時代」の「宝永年間」に発生したもの(推定マグニチュード8.0)を超える規模であったらしいことが推定されています。
 それによれば高知県土佐市の「蟹が池」の約二千年前の津波によると思われる津波堆積物の厚さは「宝永地震」による津波の3倍を超えるほどのものであり、この「宝永地震」の際の津波の高さとして約25m程度はあったであろうと推定されていることを考えると、この二千年前の地震の際の津波の推定高さは80m程度はあったこととなります。(単純化した議論ではありますが)
 また徳島県阿南市の「蒲生田大池」に関しては、史料として確認される範囲では「宝永」「安政」「昭和」の地震の際には津波は流入していないとされているのに対して、ピストンコア調査の結果では過去三千五百年間で唯一、約二千年前の地震の際に津波が流入しているらしいことが確認されています。これらのことから、この時の地震は「宝永」の規模を超えるものであったことが推定されます。
 そのような巨大な津波が押し寄せたとすると、海岸線やその内陸の平野部分に居住していた周辺住民の生活に変化を来さないはずがなく、このときの地震の影響によって「弥生後期」に「近畿」とその周辺に見られる「高地性集落」が形成されたのではないかと考えられることとなります。

 また、この時の地震に先立って今回の「東日本大震災」と同様に関東から東北に被害をもたらした強い地震と津波があったという可能性もあります。それは「関東」において「弥生後期初頭」という時期に「集落数」の激減が報告されていることからの推定です。
 また「土器形式圏」においてもその規模が大きく縮小したことが確認されており(「後期のしぼみ」と称されているようです)、北関東と南関東との地域間交流も途絶えたらしいことが推定されており、東国に「大きな社会変動」があったことを窺わせるものとされていますが、その原因に対しては深い検討が行われていないようです。これが「天変地異」つまり「地震」と「津波」によるものという可能性が高いと考えられる訳です。

 この「高地性集落」の年代については以前は土器編年によって「二〜三世紀」とされ「卑弥呼」の直前の時代と考えられて、『魏志倭人伝』にいう「倭国乱」との関係が想定されていましたが、「放射性炭素年代法」(AMS法)の技術革新などによりその年代が百年以上遡ることとなり、ほぼ「紀元後1世紀の中頃」と考えられるようになりました。これはピストンコア調査の結果とも矛盾しないものです。

 「紀伊半島」(和歌山県)の内部の地域差で「銅鐸」の型の変化を見ると、南部が最も新しいとされますが、それは「高地性集落」の発達が最も著しい地域でもあり、また「津波被害」が特に顕著であった可能性が高い地域でもあります。これについては上で推定したように「津波被害」により「銅鐸」の生産において技術の継承ができず、新型を生産することとなったというシチュエーションが想定できるものです。(もちろん「大災害」を前にして、祭祀そのものが「見直し」をされる状況となったという可能性もあるでしょう。祭祀の対象の神が変わったか、方法が変わったという可能性もあります。「銅鐸」は「神」と「人」とをつなぐ役割であったでしょうから、そのようなことが起きた場合、「銅鐸」を取り替える必要も出てくると思われます。)

 このようなことを推定させるのはこのような高地性集落が「北部九州」には数多く見られないこと、近畿などのように平野部との比高差で100mにもなるようなものが確認できず、30m内外というかなり低いものしか確認できないことがあります。この地域には海溝型と呼ばれる大規模な津波を伴う地震が発生していません。(地殻構造から発生の余地が少ないと思われる)津波が発生しても5-10m程度のものであったと思われ、それほど高地に集落を移動する必要性がなかったということも言えそうです。
 それに対し「近畿」や特に大阪湾周辺には顕著に見られる訳であり、この場所が津波被害の及びやすい低湿地帯であったことを考えると、津波被害にあった後多くの人々や集落が「丘陵地域」に移動したと見るのは不自然ではありません。
 またそのような大被害が発生したとすると、各集落や各地域間で生存競争が激化したことが予想され、戦いが発生する要因ともなったものと思われます。特に「平地」が「津波被害」にあったとすると「稲作」の適地が大幅に減少したわけであり、少なくなった耕地をめぐって争いが発生した可能性は高いと思われます。それが大規模な内乱になったという可能性もあるでしょう。そのため「高地性集落」が「砦」として機能した側面がなかったとは言えません。(槍が刺さった状態で発見された人物の「木棺」が発見されていることもそれを推測させるものです。)


(※1)前田敬彦「紀伊における弥生時代集落と銅鐸」(『古代文化』第四十七巻1995年10月)など
(※2)岡村眞(高知大学)「津波堆積物から読み解く南海トラフ地震の歴史」(2013年11月22日自然災害リスクセミナー)


(この項の作成日 2014/06/24、最終更新 2017/12/31)