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筑紫王権と方形周溝墓


 弥生時代の中期以降の典型的墓制として「方形周溝墓」があります。それは四周を「溝」で区切られた「墓」であり、「墳」を形成している場合もあるとされますが基本的には「平坦」であり、中央に「棺」が埋められているものです。
 その「方形周溝墓」の最多密集地域は「関東」と「東海」であり、それに次いで「近畿」と「筑紫」に多いとされます。しかし一般的には「近畿」が中心であり、「関東」や「東海」はその「近畿」からの伝搬とされますが、その「方形周溝墓」の最古型は「筑紫」にあるのです。たとえば「壮麗」な「副葬品」で知られる「平原」や「須玖岡本」なども「方形周溝墓」です。このことは列島における「方形周溝墓」のオリジナルも「筑紫」にあった可能性を示します。
 また「半島」からはそれに先立つ時代のものとして「方形周溝墓」がかなり多く確認されており、北部九州へ早期に伝搬したことが推定されています。このような「墓制」が変化するには外部からの圧力あるいはかなり多数の人の移動など政治的理由が存在したことが推定されます。
 ところで、その「弥生中期」(紀元前二世紀半ば付近)に「高地性集落」が瀬戸内中心に急激に増加することが知られています。この「第一次高地性集落」の発生と「方形周溝墓」の発生とは関係している事柄ではないでしょうか。

 後でも触れますが、「弥生」の中期から後期にいたる時期に2回大きな地震と津波があったらしいことが九州から四国の内陸にある「池」の底の津波堆積物調査で判明しています。このうち最初の地震(上に述べた前二世紀半ば)のものについてはその震源等がハッキリしませんが、紀伊半島沖あるいは瀬戸内により近い地域にその震源があったと見る事ができそうです。
 またその150年後の紀元前後付近(約約2000年前)に発生した地震は「海溝型地震」と思われ、いわゆる「南海トラフ」にその震源があった可能性が強く、大津波が太平洋岸各地を襲ったと見られ、その被害は甚大であり、平野部分はほぼ壊滅したものと思われます。そのため多くの集落が山の中腹など安全と思われる場所へ移動したものと見られ、前述したように、これが「第二次高地性集落」といわれるものであったと思われます。

 すでに述べたように「筑紫」地域が最初に「縄文」から「弥生」という時代へ移行したものと見られますが、「出雲」地域の権力者は弥生以前の「縄文」の頃から西日本においては中心権力として作用していたと思われ、「筑紫」はその意味で「後発権力」であったこととなるでしょう。
 確かに「弥生時代」への移行は「筑紫」が先行しましたが、それがそのまま権力中心の移動とはならなかったものです。やはり「祭祀」において優位があったことと「伝統」の重みが他の国々や人々に対して「出雲」を畏敬の対象と考え続けたポイントがあったと思われます。
 「弥生中期」の初め(前四世紀頃)には「瀬戸内」から「近畿」にかけての地域においても「稲作」が開始され、国力が豊かになり始めていたものと思われ、ますます「出雲」の優位が確立していたと思われますが、しかし「瀬戸内」を中心とした地域に天変地異が襲ったとすると、「出雲」の権威が相対的に低下する事となったことが考えられ、国内の力関係は「筑紫」に偏る結果となったのではないでしょうか。

 今回の熊本を中心とした地震においても「筑紫」地域では地震被害はそれほどではなかったものですが、この弥生中期の地震とそれに伴う津波においても同様ではなかったかと思料され、そのため「倭」領域は全体として「筑紫王権」の影響下に深く入り込むこととなった可能性が高いと思われます。
 その頃の「筑紫王権」は「奴国」の前身としての国がその中心にいたと思われますが、「周」あるいは「秦」などの中国との関係を深めていたものであり、その結果「強力」な王権が発生していたものです。その彼らの墓制が「方形周溝墓」であったと思われるわけです。
 「筑紫」の勢力はこのとき「中国」から当時最新の武器であった「鉄器」(この場合「鉄剣」)を入手したことにより、それを前面に押し立てて国内への圧力と発言権を高めたものであり、「瀬戸内」を含めた領域で「銅鐸」と共に「銅剣」が埋納される状況が見られるのはいわば「武装解除」が行われたことを示すものと思われます。その結果おおよそ「関東」まで含めて全て「筑紫王権」の影響下に入ったものとみられるのです。
 ただしその影響は実際の政治までには及ばず、各国共通あるいは統一した政策のようなものはなかったと思われますが、墓制を共通化することにより「葬送祭祀」という古代において重要な儀式の際に「筑紫王権」の介在(直接あるいは間接)を可能としていたものです。
 「村八分」という言葉にも現れているように、集落内の「異端者」に対してどんなに差別していたとしても「生死」は別とされるなど古代において「生死」とそれに関する儀礼は特に重要視されたものです。それが「王」を初めとして人々の葬送に際して行われる祭祀が「筑紫」と共通化されていたということの中に当時の実態が示されているものです。またこの「方形周溝墓」は「前方後円墳」の祖型という考え方をされるときもあり、それに従えば「前方後円墳」も「筑紫」の影響下のものであることは明確ということになるでしょう。

 中国における「周」の古制も同様であり、「周」は「力」で制圧しているわけではなく「徳」を慕って諸国はその統治下に入っていたものです。「周」が敷いていた「封建体制」は諸国の王を「候王」とし、その頂点に「天子」としての「王」がいるというものであり、「文王」や「武王」に示される「王」は「天子」の意義を持つものであったのです。
 当時の「倭」(国内諸地域)が「周制」を模倣していたというのは『後漢書』に書かれた「派遣された倭人が自ら大夫と称した」という記事から明らかですが、そのように「倭人」が「周制」を模倣したとすると、国内に「封建体制」の構築を企図したと考えるのは不自然ではありません。「天孫降臨神話」の原初が「弥生時代」の始まりと関係しているとみれば「周」との関係を構築していたのは「筑紫」ではなく他の列島内王権であり、最も蓋然性が高いのは「出雲」の王権であったとみられます。
 「出雲」王権は「半島」からの渡来者たちがその基礎を作ったものであり、「筑紫」の王権に先んじて列島内にその影響力を行使していたと考えられ、彼らにより「封建的」な地域連合が形成されていたのではないかと考えられるものです。
 そして「半島」からではなく「江南」から直接渡来してきた勢力により「北部九州」にその足掛かりともいうべき地域権力が形成され、彼らによって出雲に対し圧力がかけられた結果、筑紫王権が列島を代表する権力者となったという変遷が推定できます。
 このような「王権」の発生等政治力学的変化というものは往々にして「外力」つまり域外からの勢力の侵攻などや天変地異という一種突然変異的要因がその背景にあることが推測され、この場合も同様ではなかったかと考えられるわけです。

 そして、『書紀』による「神武紀」を見てもこの時点での「倭人」達の盟主は筑紫にいたことは明らかですが、またそれは当初「出雲」にあった権力中心が「筑紫」に移った後のことではなかったかと考えられるものです。
 つまり、「神武東侵」そのものの実年代は2000年前の巨大津波以降のことであり、紀元後一〜二世紀付近のことではなかったかと考えられ(その意味で「奴国王」が「金印」を授与されるという事象の中に「神武」の事績が反映されているようにも思えます。


(この項の作成日 2014/07/15、最終更新 2019/02/04)