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倭王権の交代(出雲から筑紫へ)


 そもそも「紀元前八世紀」に入って「一大気候変動」が起き、それに伴い「周」王朝が衰退するなどした結果列島でも「寒冷化」が起き「弥生時代」が始まるわけですが、この時の時代位相の変化は(気候変動が食料調達の困難さを伴うものである事から)必然的に人の移動を伴うものであったものであり、その流れは列島内では北方から南方へというものであり、また大陸から列島へというものであったものです。そのようなケースの中には大陸から周王室の血筋を引く人物が列島にやってきたということも考えられます。
 そのようなケースがあったとすると、彼は列島の人々から「天孫」と考えられても不思議はなかったでしょう。そしてそれはその後「倭」からの使者が「大夫」を称する淵源となったとも考えられることとなります。

 「弥生時代」の「倭」では「周」に対する畏敬の念はかなり深かったものと思われますが、その一因としては「弥生」文化の主要な担い手が大陸(特に江南方面か)からの流民であり、かれら自身が「周」王室に対して一定の敬意を持っていたからと思われます。それは「呉」の成立の事情と関係していると思われます。
 『史記』によれば「周王朝」の王子が「呉」の建国者とされており、「呉」の人々の「周」に対する畏敬の念は当時の倭人と共通していたという可能性が考えられます。倭人も『後漢書』等によれば「呉の太白の末裔」を自称していたとされ、そのような人々が「弥生」の倭王権(原初的なものとは思われますが)の主人公であったとすると、周王室に関係した人物について「王」として新たに戴くことに大きな抵抗があったとは思われません。

 平安時代までの宮中講義で、天皇家の「姓」が問題となり「姫」氏であるとされているらしいことが判明していますが、それが「周王室」の姓であるのは明らかとなっています。そのことは「周」王朝と日本国の源流であるところの倭王権が「同祖」であることを示しますが、それがどの時点に分岐点があるのかというと従来明確とは言えなかったと思われますが、すでに行った分析により「弥生時代」の始まりの時期こそがまさにそのタイミングであったらしいことが強く推定されることとなったわけです。(この時代に「西周」が崩壊したとされていますから、その意味でも整合しているわけです。)
 この時点で「初代王」としての「瓊瓊杵尊」が降臨、つまり中国から渡来し、「倭」という東夷において「周」に対する敬意の元で中国文明に対して従属するという意識を持った王権が形成されていったものと思われるわけです。

 ところで、この時点で彼らがどこを拠点として活動していたかというのは「弥生時代」がどこで始まったかという最近の研究が示しています。それは北部九州であり、この場所は他の地域がまだ「縄文時代」あるいは「縄文的生活」を送っていたその時点で「弥生時代」に入っていたわけであり、時代の位相の断層がそこに存在していたものと思われるわけです。そこにその後存在していた「奴国」「伊都国」において「爵」の存在を措定する必要がある官職名が存在していたことでもうかがい知れます。(後述)
 その後中国で春秋戦国時代の後「秦」により中国が「始皇帝」の元統一されたわけですが、この時点付近で再度「東夷」へ流入した人たちがいたと思われます。それは「徐福」伝承がその実態を伝えるものなのかもしれません。この時点で流入した人たちは「周」の後裔の人々が中心を占める「九州北部」を避けそれより東方へとその拠点となる地域を選定したものと思われ、その時点で「北部九州」以外にも「弥生時代」が訪れることとなったものと推測されます。それを証するように「徐福」の伝承が伝わる地域はかなり広範囲にわたっており、その多くが九州以外の地です。そこでは徐福が伝えたという薬草や銅鐸も彼が伝えたという可能性も指摘されています。たとえば「徐福」の家譜とされる「草坪・徐氏宗譜」には「祈祷」「薬草」に詳しい「方士」(方術という道教の知識を持った僧)が宗祖であるとされています。

 日本神話を見ると「国譲り」が描かれており、それは「出雲」から「筑紫」へという権力移動を示していると思われるわけですが、それは上にみた「周王朝」の関係者が大挙して列島に移り住むようになった時期以降であることは確かですが、同時かどうかはやや疑問です。やはり「筑紫」の周辺地域において統治実績を上げた上でその後周辺に影響力を及ぼしていったと見るべきであり、やや時間差があって当然といえます。いずれにしても弥生以前あるいは弥生初期においては西日本全体の支配の中心が「出雲」にあったことは確かであると思われます。
 そこでは「出雲」と「諏訪」の関係の他、「出雲王権」の出自が「半島」に起源をもつものであること、彼らは「武器」というより「医薬」の力で信頼と尊敬を集めていたことなどがうかがえるものです。周に対する貢献として「鬯草(暢草)」の献上などが挙げられているのは、後の時代においても「出雲」という地域が「医薬」の中心として機能していたことと深く関係していると見るのが自然です。それはこの「鬯草(暢草)」が「服す」という語が使用されていいる点からみても「薬草」として献上されたらしいことが推察でき、そのようなものが「出雲」の特産である各種の薬草などと関係があると見るのは当然だからです。

その「出雲王権」がどれほど永らえたかは「銅鐸」を調べるとわかります。「銅鐸」が出雲の王権にとって重要な祭祀の道具であったことは疑えません。
 「銅鐸」の分布などを見ると「弥生中期」までは明らかに「出雲」との関係が各地で検出できます。しかしその状況は紀元前後に列島を襲った大地震と大津波によって様相が大きく変わったものであり、この時点で出雲と各地域の間に関係がなくなったあるいは相当程度希薄になったとみられるわけです。
 これを踏まえると「天孫降臨」は確かに「弥生時代」の始まりである気候変動による民族移動の結果であるとみられるものの、「出雲」の王権が列島を支配していた時期は相当長く続いていたものであり、天変地異によりその支配地域が壊滅したことで、「銅鐸」も別のタイプに替わられるなど宗教的祭主としての立場も空疎となったものです。この間隙をついて「筑紫」の権力者が「鉄器」を用いて威嚇したことにより列島の支配者が交代することとなったとみられますが、その主役は「奴国」あるいは「伊都国」という「邪馬壹国」に先行する「北部九州」の国ではなかったかと思われるわけです。


(この項の作成日 2016/06/14、最終更新 2017/12/01)