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弥生時代と倭王権


 すでにみたように紀元前八世紀付近で縄文時代に別れを告げ、弥生時代という新しい時代位相を迎えたわけですが、『書紀』の神話にもそれが反映していることとなりました。つまり「天孫降臨神話」の主役である「火瓊瓊杵尊」はその名前から、原型として「シリウス」が「赤かった」あるいは昼間も見えるほど「明るかった」時代を反映しているとみられるわけです。そして、それはとりもなおさず、紀元前の早い時期のことのことであったこととなるでしょう。それは紀元前後付近ではシリウスはほぼ現在と変わらない状態となっていたと推察されるからであり、「神話」の発生は弥生時代の始まりとまさに軌を一にするものであったという可能性を示唆するものです。つまりこの「星の世界」を投影した神話が当初形成されたのは古墳時代などではなく、もっと古い時代つまり弥生時代の始まりの時期が相当することとなるでしょう。

 すでに触れたように『論衡』『漢書』に記されたところによると紀元前十二世紀付近で「倭」と「周」との関係が初めて構築されたように見えます。

「周時(紀元前十二世紀)天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草。」( 「論衡」巻八、儒増篇)

「武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、諮株,戎、狄攻周,平王東走,以避其難。至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯,獻白雉一、K雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。後至四年,金城塞外?良橋橋種良願等,獻其魚鹽之地,願?屬漢,遂得西王母石室,因為西海郡。周時戎、狄攻王,至漢?屬,獻其寶地。西王母國在?極之外,而漢屬之。コ孰大?壤孰廣?方今哀牢、?善、諾降附歸コ。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。夏禹?入?國。太伯採藥,斷髮文身。唐、虞國界,?為荒服,越在九夷,?衣關頭,今皆夏服,褒衣履?。巴、蜀、越?、鬱林、日南、遼東,樂浪,周時被髮椎髻,今戴皮弁;周時重譯,今吟《詩》、《書》。」(『論衡』巻十九、恢国篇より)

「玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、?貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門?之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以?豆,都邑頗放效吏及?郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歳時來獻見云。」(『漢書地理志』第八の下より)

 この段階は「殷」の宰相であった「箕氏」が「周王朝」成立後「朝鮮」に封じられその地に「周王朝」に対する敬意を抱く文化を醸成したとされますが、その文化の及ぶ範囲に「倭」もあったという事を示すものと思われ、その後の「倭王権」の従属意識の方向を決定づけたと言って良く、ここに書かれた「犯禁八條」の内容として『倭人伝』に書かれたものと多くが一致するのはそれを示しているといえるでしょう。

 しかしこの時点では「倭」ではまだ「縄文時代」であり、本格的な「クニ」造りが始まっていなかったと見られます。ただし、この時点で「半島」との交流が行われるようになった地域とそうでない地域とでは同じ「縄文」といいながら内実はかなり差があったことが窺えます。
 神話世界をみてみると「天孫降臨」の際には「葦原中つ国」を統治している「王」のような存在である「大国主命」がすでに存在していることが描かれています。明らかに先在王権を意味するものであり、それが「半島」との交流の結果他地域に対して優越する軍事・文化を擁していたことが窺えるわけですが、それが「出雲」という地域として描写されているのは意外ではありません。半島との距離など考えると交流がありうるとして当然だからです。「スサノオ」についての説話の中に「新羅」との関連が示唆されるものがあるのもそれを示します。
 新進であり後発である「江南」からの彼等は「出雲」の権力者との関係をどう構築するかが最大の問題であったでしょう。それらは「国譲り」という神話として描かれることとなったわけであり、結果的に「軍事面」での優位性をアピールすることにより列島における「覇権」を握ったとみられ、それが「神話」に反映していると思われるものです。この時の「出雲」という地域が「縄文」を脱して「弥生」に先行して入っていたと思われるのは「豊葦原瑞穂の国」という言い方に現れており、すでに「稲作」が開始されているように窺えます。それは「朝鮮半島」から伝わったものと思われるわけですが、この時「鉄器」は当然利用されていなかったと見られ、青銅器により稲作に必要な工具が使用されていたと思われます。 当然まだ「青銅器」の時代ですから「鉄器」に比べると利用効率はあまり大きくなかったと考えられますし、「兵器」も「青銅器」によっていたはずですから、後発の「江南」からの渡来者達が「鉄器」を利用した集団であったこととステージが異なっていたという可能性が高いと推量します。

 ところで「日本列島」の「鉄」の歴史は「砂鉄」による「たたら製鉄」に始まります。これは「弥生時代」に始まるものであり、主に「九州」「中国」地方周辺で「渡来人」などにより行なわれていたものと考えられます。
 その後半島で「鉄」が採掘されるようになり、それを「倭」の諸国も利用するようになります。これはついては『魏志韓伝』の「辰韓」の部分に以下のように書かれています。

「國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」

 ここにあるように「辰韓」からの供給であったようです。ここでは「從取之」と書かれており、これが意味することがやや不明ですが、「欲しいままに取る」という解釈もあるようであり、そうであれば、大量に国内に「鉄」が導入されたこととなると思われます。それを示すように『魏志倭人伝』にも「鉄鏃」について記事があります。

「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或『鐵鏃』或骨鏃。」

 ここでは、「鏃」つまり、矢の先頭につけられる「矢の威力」の急所ともなるべき部分に、「鉄」が使用されていると言っているわけです。古代の戦争において「弓矢」は汎用の武器であり、非常に大量に使用されたものと考えられます。「鉄」製の「鏃」であれば、「盾」や「甲冑」なども「薄いもの」であれば貫通してしまうぐらいの威力があると考えられ、このため「鉄鏃」は大量に国内で製造されることとなったのではないでしょうか。 
 そして、この「鉄」の大量入手が可能となった時点以降「出雲」に対して「国譲り」を迫ることとなったものと思われるわけです。つまり、「鉄器」(鉄製武器)が「大量生産」されることとなったため、「倭」の内部諸国にそれらが「普及」し、それが「内乱」へとつながっていくことを示していると考えられます。
 「記紀神話」における「国譲り神話」はこの「鉄製武器」の「大量生産」という背景を元に考えるべきものと思料されます。

 「筑紫」には「弥生時代」の初期に「降臨」した「江南系」の集団が勢力を持っていましたが、この時点以降「先行王権」である「出雲」に対する圧力を高めていったものと思われます。
 「出雲」では「弥生」時代の半ばより「砂鉄」を原料とした「鍛冶工房」が存在していましたが、そこで生産される「鉄」は「少量」であり、純度の高い「優秀」な「剣」を製作することはできるものの、「大量生産」はできません。このため制作された「鉄剣」などは「王」などの「限られた人たち」だけの独占物であったと考えられます。そして「朝鮮半島」(「辰韓」)より「大量」の「鉄」(鉄鉱石)が「倭」の諸国に流入するようになり「筑紫」を中心とした地域で「鉄製武器」が大量生産され始めると、その「鉄製武器」が「筑紫」の周辺に行き渡るようになり、その結果「武器」が「争い」を呼ぶようになって「内乱」が起きたものと考えられます。

 「記紀」の「国譲り神話」を見てみると(たとえば『古事記』)、派遣された「建御雷神」は「十握劒」を抜いて逆さに地面に突き立てると、その剣先にあぐらをかいて座った、と書かれており、これは一種の「幻術」のようなものと考えられ、「後漢」の当時、「五斗米道」などの「鬼道」の一派が行なっていた「妖術」のようなものと同種のものと考えられます。このような「大量」の鉄製武器を背景にした「威嚇」により「出雲」を中心とした「旧体制」は崩壊し、「筑紫」中心の「拡大倭王権」が形成されていったものと考えられます。
 そして、この段階が「卑弥呼」の王権に先立つ「奴国」「伊都国」などの王権であったと思われます。彼等は基本的には「水軍」としての軍事力であり、「出雲」に対し「海」から圧力を加えることで彼等の行動を制限しようとしていた可能性があります。このような「大量」の「鉄剣」と「幻術」の組み合わせにより各地の勢力を征服していったものと考えられるものです。


(この項の作成日 2016/06/14、最終更新 2017/11/12)