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倭王権と環濠集落


 「弥生時代」を代表するといわれる集落の形態が「環濠集落」というものがあります。これは「吉野ヶ里」の遺跡で明確なように「集落」の周囲に「環濠」を巡らし、その中に(多くの場合)住居や倉庫を建てるものであり、その多くにおいて径が100メートル以上あったものです。
 しかし子細にみればこれは実際には「代表」と言われるほど主流ではなく、少数のグループによって行われていたと考えられるようになっています。その源流は半島東南部(後の新羅の領域)にあり、弥生前期には九州北部に流入したとされます。(例えば「板付遺跡」など)
 これら「環濠集落」が少数なのは、推測によれば(半島からの)外来者だけがこの形態を採用していたからであり、それは「半島」における状況を反映したものだった、つまり周辺集落との間に争いなどがあったらしいことが推測されるものです。逆に言えば列島内部においてはそれほど他集落に対して攻撃的ではなかったこことなりそうであり、それは「兵器」や「武器」の発達がそれほどではなかったことなどの状況を反映しており、各集落がやや協調的関係を持っていたためとも考えられます。

 また「瀬戸内東部」においては「弥生中期」までに廃絶するとされますが、その後やや遅れて「近畿」と「関東」で最大化されることとなります。
 またその「環濠」の断面は九州や西日本では「V字」型であり、しかもかなり深くこれは「防御」としての側面が強いことを意味するものですが、近畿地方のものは「U字型」が優勢になります。(しかも「多条」の環濠が確認できます)しかしその後増加する関東地域は再び「V字」型となるなど地域差が認められますが、関東と九州地域に共通の土木技術があったこととなり、関係が深いことが示唆されます。

 この「環濠集落」という存在は、その機能としてギリシャやローマで勃興した都市国家(ポリス)と意味として同質と考えられ、彼らが「高台」に周囲を土やレンガなどで壁を作りそれを巡らして防御施設としていたことと同じとみられるわけです。つまり「周辺」の他集落からの侵入を想定し、それに対応する意味があったとみるべきでしょう。その立地としても(近畿を別として)北部九州や西日本では「台地」上に設けられる場合が多く、これについても「ポリス」の存在意義と同様であり、「防御施設」という側面が明確であるといえるでしょう。その時期としても近接していますから、その意味で「弥生都市」という言い方をする研究者がいるのは正鵠を得ているかもしれません。(※)
 さらにこの「環濠」はその内部に「倉」しかないものや、全く建物の痕跡さえもないものなどのバリエーションも発生します。さらに「環濠」の外部に「土塁」が築かれているケースもあり、この場合は「中から外へという移動」に対し制限が加えられているように見え、戦いで得た「捕虜」を収容したものという理解もできそうです。つまりこの時点で「奴婢」が発生したとみられるものです。
 「箕子朝鮮」は東方に「礼儀」を説いたとされますが、具体的には「犯禁八條」を定め、教え諭したとされます。

「玄菟樂浪武帝時置 皆朝鮮貉句驪蠻夷 殷道衰 箕子去之朝鮮 教其民以禮義田蠶織作 樂浪朝鮮民『犯禁八條』 相殺以當時償殺 相傷以穀償 相盜者男沒入爲其家奴 女子爲婢。…」(『漢書地理志』第八の下より)

 この中では(ちょうど「ハムラビ法典」のように)「死に至らしめた場合は死を以て償う」など復讐法的なことも書かれていますが、さらに「相盜者男沒入為其家奴,女子為婢」とされ、「奴婢」となる場合が書かれています。この時代は日本列島では「縄文」の末期と思われ、この「箕子」の教えが日本列島まで届いていたとするとその意味で「縄文時代」にも「奴婢」がいたこととなりそうですが、「田蠶織作」を教えたということとリンクして書かれていると思われますから、「稲作」もその教えに入っていたとすると「非縄文的」世界の一つとして「奴婢」という存在について書かれていると思われ、やはり「縄文」と「奴婢」とは相容れない性質を持っていたとみるべきこととなるでしょう。
 またこの「奴婢」は「戦争捕虜」としてのものではなかったものであり、犯罪と関連したものですからそれほど多数ではなかったとみられます。しかしその後「弥生時代」に移行すると「環濠」を設ける集団も現れるなど対外的防衛策を講じる必要が発生し、多少なりとも対外戦争的な事案が発生することとなったものであり、そうなると必然的に「捕虜」が発生しますから、彼らが「奴婢」となったと見るのは自然です。その場合彼らはある程度多数となったはずですから、彼等を収容する施設が必要になり、そういう意味の「環濠集落」(土塁が内に対してのもの)も発生したと推察されるものです。

 「関東」では「方形周溝墓」とセットという形態で「環濠集落」が弥生中期において爆発的に増加したものです。それら集落形態も墓制もそのころ利根川以北に居住していた人たち(これはいわゆる「蝦夷」と呼ばれるべき人たちと思われますが)と全く異なるものであり、明らかに「外来」のものとしてこの地に流入したものと見られます。これは主に「出雲」の王権による勢力拡大と軌を一にするものであり、「初期倭王権」の東方政策の結果であると思料されるものです。
 当然自分たちが外来者として侵入したわけですから、当地に以前からいた人々による「反撃」も考えられ、それに備えたものという分析も可能でしょう。


(※)広瀬和雄「弥生時代の首長−政治社会の形成と展開−」(『弥生の環濠都市と巨大神殿』池上曽根遺跡指定20 周年記念事業実行委員会 1996年)、「弥生時代の「神殿」」(『都市と神殿の誕生』新人物往来社)、「弥生都市の成立」(『考古学研究』45号)等の所論


(この項の作成日 2014/07/15、最終更新 2018/01/04)