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「前八世紀」の気候変動と「鉄器」


 「前八世紀」付近で発生した「都市国家」は各地域の実情によってその後の変遷に差が生じたわけであり、ギリシアやローマでは「都市国家」という形態のまま強化・発展したものですが、そもそもこのような「都市国家」が同時に多くの地域に発生する明確で合理的原因があったとみられるわけです。
 これが当時発生した気候変動がもたらす地域間の勢力争いであったとみられるわけですが、このような気候変動はギリシャ・ローマに限らないのは当然です。シリウスの増光に端を発したと思われる気候変動はいわゆる「極域振動」(特に北半球に現象として顕著に表れる「北極振動」)と思われ、北半球の各地にその影響が強く及んだものと見られます。

 いわゆる「都市国家」は各地域に(ローマ、ギリシアだけではなく)ほぼ同時に発生するわけであり、それはメソポタミア、インド、エジプトあるいは中国など広範囲にわたります。たとえば中国における「都市国家」の形態としてはその中央部に高台を設けそこには宗廟など中枢部を置きこれをまた城壁が囲むというものとなっていたものであり、その点なども「ギリシア・ローマ」に通じるものがあると思われます。
 そもそも中国では「春秋時代」までの「国」とはすべて「都市国家」であったとされるほどであり、「戦国時代」以降「領域国家」となったとされます。その「領域」の内至高のものを指すものとして「天下」という用語とそれを表す概念が形成されたものであり、そのことも中国において「強い権力」「強い権力者」というものが「王の王」を指し、複数の「都市国家」を統一的に支配することのできる勢力を有するようになったことが、その支配地域を指す用語としての「天下」というものの発生をみたと思われ、地域間の勢力争いが活発化した反動とその結果としてのものであったことが推定されます。その端緒となったものが「気候変動」であり、それに伴う人の移動であったと思われます。
 
 またその他の地域を概観すると、各地に同時期に共通の現象が起きていたもののようです。たとえば「イスラエル」はこの時期に「アッシリア」に滅ぼされますが、これも「アッシリア」の領域から外部への強力な侵攻圧力が発生したことを示し、その結果「イスラエル」から多数の人々が連れ去られましたが、明らかに奴隷として農業などに駆り出され生産力増強の一助とされたものでしょう。
 さらにヨーロッパの古代民族である「ケルト人」の居住する地域においてもこの時期になると防護柵や城壁を巡らせた村落が発生します。この時代以降紀元前六世紀付近まではケルト人の当時の主な居住地域であるドナウ川流域からフランスにかけての地域で、気温も低下し湿潤となって農作物が不作となったとみられます。
 それ以前からこれらの地域では金銀細工などが盛んであり、それを求めて商業活動も盛んであったわけですが、気温の低下に伴い商業的活動も低下し、それとともに金銀細工加工も低調となって、すでに作られた金銀細工も一か所に集められ、隠された風情が見られます。これらが「敵」つまり集団的暴力行為や窃盗などの被害から守るためのものであることはこの時期多くの集落が防護のためと思われる柵などを巡らし始めることからもわかります。
 またフランスやスイスの湖岸の村落は紀元前八五〇年を境に消失していきます。それらの多くは火災にあったものですが、それは他からの侵入の結果ではないかと考えられているようです。また標高の高い場所に洞窟を住居としたものが現れるなど、「社会不安」があったことがうかがえるようです。しかもいろいろな証拠からこの地域ではこの時期から紀元前六世紀付近まで低温多湿な気候となったことが確認されています。しかしさらに他の寒冷化した低温化が進行した地域から見ればまだしも「温暖な地域」と見なされた可能性もあり、それらの地域からの人々の侵入するところとなり、略奪されるような事態も増加したものと思われるわけです。(ただし、ケルトの宗教や暦についてはよくわかっておらず、そこに「シリウス」の存在が現れているかにどうかは何ともいえませんが)

 また地中海貿易の盟主であった「カルタゴ」の建国もこの時期であり、この地域で確認できる最も古い遺跡は「紀元前八世紀」のものです。この「建国」の理由も同様であり、亡命してきた者達(主にフェニキア人)が集まって建国したとされ、彼等も他から移動してきた人々であり、また彼等自身元いた地域から移動者(侵入者)に追い立てられた人々であったことを示します。彼等はここに「城壁」で囲まれた都市国家を造り上げたものであり、主に海運と漁業で生活の基本としていたが、それは「気候変動」の影響を受けにくいものを食糧確保の方法としたためと思われるわけです。

 さらに中国ではすでにみたようにちょうど「周王朝」が衰亡する時期に当たっています。周辺地域からの侵入が増加し(これも気候変動による食料確保がその下地にあったものでしょう)、エピソードは色々あるものの、これら周辺諸国からの流入という変動要素をまとめきれなくなって「周王朝」は滅び「洛陽」に都を遷して新たに「東周」が始まるわけであり、また「春秋戦国時代」が始まるというわけでもあります。
 また「殷周」代に盛んに作られた「青銅器」のうち「雲南省」の鉱山から採られていたものがこの時代(推定前七七〇年付近)以後全く使用されなくなる現象が起きています。これは「鉛」の同位体比の研究によりますが、これは明らかに「雲南省」の鉱山と「東周」との関係が希薄となったことを示すものであり、それ以前の「西周」の滅亡という事象が影響しているものと思われるわけです。これ以降は広い(あるいは遠方の)地域からの原料や素材を主要なものとするよりは「手近な」場所から運ばれたものに頼るような王権が数多く成立したものであり、それは統一的王権の消滅という事象と対を成すものであり、「春秋」「戦国」という小国分立の時代の様相に適合するものでもあります。このような「王権」の動揺が単に「王権内部の腐敗」というような一種矮小化された理由を唯一のものとすることはできず、すでに見たような全地球的な「外乱」とでも言うべき気候変動によるものであったことは間違いないものと推定されます。
 この時期は青銅器文化において「転換期」とされ、それまで「祭器」「利器」としての使用が盛んにおこなわれていたものが、「祭器」と「日常使用器具」に変化していく過程にあたるとされ、「鉄器」という新たな「利器」の使用開始と並行する現象と思われます。

 またインドでは「ブラーフマナ」(ヴェーダの祭儀書)が成立し「祭式万能」という時代が現われますが、それも「神に頼る」という素朴なこと以外に救いのない時代が発生したことを意味すると思われ、やはり「貧困」と「飢餓」そして「疫病」という困難に直面したことを推定させます。またその「ブラーフマーナ」は「洪水神話」で始まりものであり、「前八世紀」付近で大規模気候変動があったことを強く示唆するものとなっています。(そもそも「洪水伝説」は世界中で確認され、全地球的気候変動が時代の画期となったことを推定させるものとなっています。)

 以上のように紀元前八世紀付近で「シリウス」の増光に端を発した大規模気候変動があったと見られるわけですが、それは即座に「栽培農業」の限界地域にいた人々の移動を招くこととなり、それが他の地域に対する「圧力」として作用した結果あたかもドミノ倒しのように、人々の移動と衝突という先鋭的状況に至ったものであり、その結果「武器」「兵器」の「進化」と「強力化」という状況が作り出されたものです。その代表とも言うべきものが「鉄器」の登場です。
 「鉄器」などいわゆる鉄製品一般はすでにその前代から登場していた地域もありますが、紀元前八世紀という時点で各地域に分散・波及し始めます。各地で「武器」「兵器」として登場し、戦闘の道具としてその効果を発揮し始めることとなります。それらの地域ではそれまでの「青銅器」に取って代わり戦闘の主役となるのです。

 地中海地域以外のヨーロッパが鉄器時代に入るのは,紀元前八世紀の「ハルシュタット文化」の後期からとされています。「ハルシュタット文化」とは紀元前十二世紀頃から中部ヨーロッパ(オーストリア付近)で発展した「岩塩」を主たる商品とする貿易をベースとしたケルト人の文化ですが、紀元前八世紀頃になると鉄製の「刀剣類」が多くみられるようになります。その中で「長剣」を持つ騎士階級的な人物集団が指導的勢力になっていったことがうかがえ、「戦闘力」に優れた階級が重要視される時代となったことが推測されます。そのような「武力」や「兵力」が「外敵」(外部からの侵入勢力)に対する防衛的な側面を持っていたことは確実であり、この時点でかなり外圧を受け始めていたことがあると思われますが、それもまた「気候変動」により移動を余儀なくさせられた集団がいたことを暗に示すものといえます。
 またこの地域では同様に対外勢力との抗争を推定させるものに「城」があり、特に高台の上に城を構えた「高城」の存在も確認されます。また「墓制」としては「車」(騎車か)が副葬される型式の「墳」が確認でき、このような型式は東方からの外来性のものであり、その影響下のものとも言われています。その次代の「ラ・テーヌ遺跡」(前八世紀から前五世紀付近)においても同様に「鉄製武器」が数多く見られ、更に「高城」もやはり多く確認できます。

 このほか,ほぼ同じ紀元前八世紀ごろには中央アジアから黒海にかけて「スキタイ文化」が成立しますが、彼等も鉄製の兵器や武器を使用していました。(さらにそれを襲った「サルマート人」達は鉄製武器を数多く使用していたことが判明しています。)
 南シベリア(エニセイ川上流域のミヌシンスク盆地とアルタイ地方にかけての地域)においても,前八世紀付近から「タガール文化」の時期に鉄器化が始まる事が確認できます。ただしそれはまだ一部であり、本格的な鉄器化はその次代の「タシュトゥイク文化」本格化するとされます。その時期には馬具や武器・兵器にまで鉄器化がおよびます。

 アムール川中下流・河口域では紀元前十世紀ごろから「ポリツェ文化」が存在していましたが、そこには鉄器(斧・刀子・鉄鏃・小札・釣針など)が存在していました。その始まりの時期としては放射性炭素年代法により「紀元前九八〇年」と測定されています。(更に同時に鉄製工具など鉄器化が進行しており、それは外部からもたらされたものであり、そのような文化伝搬やその技術を持った人々の移動がこの時期発生したものであり、それもまた「気候変動」という原因の中に収斂されるものと思われるわけです。)
 このように全地球的な民族移動や侵攻と征服やそれに対抗する都市の誕生、さらに攻撃・守備の素材として「鉄」が造られるようになるなどのことが確認されるわけですが、それらは共通して「食料の確保」という至上命題が各地の人々に突き付けられていたことを推定させるものです。


(この項の作成日 2016/03/13、最終更新 2018/07/17)