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「前八世紀」という時代


 紀元前八世紀半ばという時期にローマにおいて気候変動(この場合は「温暖化」)が発生したと考えられる訳ですが、一般に気候変動は「極域振動」と呼ばれる極から赤道にかけての気圧分布パターンの変化がその原因であるケースがほとんどであり(それは「極域」と「赤道域」の温度差に起因するものとされますが)、このときもローマ付近ではそれ以前よりも高温となったと言うことが推察されます。(彫刻やレリーフなどでローマやギリシャの人々が薄手の服装をしているように見えるのはこの当時の気温がかなり上昇していたことを推測させるものです)
 つまりこの「気候変動」が発生したと考えられる年次付近で「ロビガリア」という農事に関する儀式が発生しているわけですが、伝承を解析すると「シリウス」は当時昼間も見えていたと考えられることとなり、人々は当然のように「シリウス」と「気候変動」との関連を疑ったものと思われるわけです。(ただし、紀元前後付近ではすでにその意味も曖昧となっていたものと思われ、現在程度まで減光していたという可能性も考えられるところです。)

 この「紀元前八世紀付近」に全地球的な気候変動があったというのは「ギリシャ」や「ローマ」で人々が移動や植民を多く行った時期がまさにその時期であったことからもいえることです。(※1)
 例えば「ギリシャ」で「ポリス」という小国家群が成立するのもこの時期ですし、それは「山間」など川沿いの地が選ばれそこに集落の連合体のようなものが形成されたとされますが、これが気候変動による集落間の土地や収穫物の奪い合いや各部族間同士の抗争という危機的状況が生み出した防御的制度と言うことも言えるでしょう。それを示すように核となる領域である都市部分は城壁の中に形成されていました。それらの都市の中心はアテネの場合は「アクロポリス」と呼ばれ「神殿」であると同時に「砦」でもあったものです。

 またギリシャではこの時期に「墓」の数が急増することが知られており、さらに廃棄される井戸が多数に上ることも指摘されるなど「干ばつ」とそれによる食糧不足や疫病の流行などの要因がこの時期に集中することが指摘されています。(※2)その中ではそれまで多くは見られなかった「神域」や「神殿」が設けられ、多くの供物が奉納されるようになるとされます。また「雨乞い」のための「壺」を「供物」とする例が「七三五年」以降激増することも知られています。それまでの四倍ほどに急増するわけですが、一〇〇年ほど経つと元へ戻ってしまうことも明らかとなっています。これについて安永信二氏は「すなわち神と人との関係が,前8世紀を境として大きく変わったのである。」と指摘していますが(※3)、「ローマ」における「ロビガリア」と同様「干ばつ」による農作物の不作を「神」に祈ることで回避しようとするものであり、「宗教的」な存在に寄り縋ることを多くの人々が望んだことを示しています。

 また「アルテミス」に対する信仰儀式として「アッティカ」地方の「ブラウロン」で行われていた「アルクティア」という奉納儀式についても、これを通常の理解である「女性」の「少女」から「大人」への通過儀礼という単純な見方を否定し、そこでは女性に特有の出産における「災い」や「死」に対する庇護を願い、国家の安寧を願うものと理解する論も出ていますが、この「アルテミス」という女神に対する祭儀の始まりも「八世紀」の終わり付近であり、明らかに「疫病」や「栄養不足」などの条件が背景としてあったことが指摘されています。(※4)(※5)
 その他この時期ギリシャ各地で「ルネッサンス」の如く多くの神々達を祭る「神域」が発生しており、それが「ギリシャ」の発展と反映を表すものという理解がされていたようですが、これもまた「干ばつ」とそれによる「疫病」などから逃れるために多くの人々が種々の神達に祈りを捧げていた風景が原初としてあるように思われます。
 さらに「オリンピック」もその始原が「ヘラクレス」が「八世紀半ば」に始めたとする伝承があり(これはほぼ無批判に事実ではないとされているようですが、当然それは事実の反映であると思われます)、このような「体力」や「筋力」の増強という「オリンピック」の持つ原初的な意味が「戦い」を前提としているのは明白といえます。武器を持ち、振るい、投げまた走るというような「戦い」のすべての面に「体力」が強くなければならず、また「筋力」が優れていなければならないわけであり、「オリンピック」で競われる全てが「戦い」を前提したものであるのは言うまでもないことでしょう。
 その後100年ほど経つと「競技」としてのスポーツが成立したとみられるわけですが、それは気候変動も一段落し人々の生活に若干落ち着きと余裕が出てきた段階で「戦い」を前提としたものではなくなったということではなかったでしょうか。この時期以降「健康」志向という点から体を鍛え、その成果を競うというようなことになったものと思われるわけです。
 またギリシャ地域から各地域へ「植民」が行われるようになるのも「紀元前八世紀付近」という時期であり、たとえば「シチリア島」への植民もこの時期に行われたものであり、その理由も気候変動による民族移動の中で理解すべきものでしょう。(アテネからの植民は遅れたとされますが)

 さらに同様の理由で「ローマ」でも都市国家が作られていきました。やはり「紀元前八世紀付近」ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まるとされています。(この建国とほぼ同時に「ロビガリア」の儀式が行われるようになるわけです)


(※1)明石茂生「気候変動と文明の崩壊」(『経済研究』成城大学二〇〇五年)。それによれば以下のように記載されている。「…さらに750B.C. を中心とする寒冷化については,突然起こった気候変動と考えられており,大気循環と深層海流の変化などにより地球規模で発生していたと推定されている(Geel and Rensen 1998)。この時期の政治・社会上の変化は,遺跡,記念碑,文献などにより,東地中海一帯に王国の崩壊,都市の略奪・破壊,民族移動があったことがわかっている。考古学上の時代区分でも,青銅器時代後期から鉄器時代初期に移行する時代の節目であった。東地中海では,「海の民」の侵攻によりミケーネ王国,ヒッタイト新王国が崩壊し,アナトリア・レバント沿岸都市は略奪・破壊され,それはエジプト新王国にまで至り,さらに混乱は他の地中海沿岸にまで及んでいた(Issar and Zohar 2004; 165)。「海の民」はエーゲ海・ミケーネ文化圏の住民らしいが,民族移動はそれだけでなく,この時期,アルメニア人,フリギア人のアナトリア侵入,ドーリア人のバルカン半島南下などが並行してみられる。ヨーロッパでは800〜700B.C. 頃に気候が悪化し,スカンジナビア半島からユトランド半島にかけて居住していたゲルマン民族が,低ザクセン地方(ドイツ北西部)に移住を開始し,その結果ケルト民族はライン河東岸から追い出された。ケルト民族はライン河流域からローヌ河沿いに南下し,その後のヨーロッパ各地への拡散を決定づけることになった(鈴木2000: 104-105)。」(この「鈴木2000」とは「鈴木秀夫『気候変化と人間』大明堂(2000年)を指す)
(※2)Camp,Jr.John.McK.“ A Drought in the Late Eighth Century B.C.”(『Hesperia:The Journal of the American School of Classical Studies at Athens 』vol.48(1979)Page397-411)
(※3)安永信二「アルゴリスにおけるポリス成立をめぐって―学界の動向と今後の展望―」(『九州産業大学国際文化学部紀要』第22号二〇〇二年)
(※4)小山田真帆「ブラウロンのアルクティア再考:アルテミスへの奉納行為を手がかりに」(『京都大学西洋古代史研究』第16号二〇一六年十二月十六日)
(※5)「アルテミス」は「狩猟」「野生動物」(特に「熊」)の象徴であるほか「処女性」「出産」など女性と深く関わる面を持つ神であるとされています。


(この項の作成日 2016/03/13、最終更新 2017/11/19)