すでに述べたように「シリウス」が新星爆発現象を起こしていたと考えられるわけですが、さらに「昼間」「ローマ」では「真夏の暑さ」の原因として「太陽とシリウスが同時に出ているから」として、シリウスに対して「赤犬」を生贄にする儀式が行われていたとされます。確かに「シリウス」はご存じの通り「太陽」と「合」(同一方向に見える)になるのは「夏」であり、その意味では「夏」の昼間は太陽と共に空に出ています。しかしいくらシリウスが全天で最も明るい恒星であると言っても、太陽の近くに出ていて見えるはずがありません。それはあくまでも一緒にでている「はず」であってそれは実際には確認できるものではないのは当然です。しかしそれが「暑さの原因」とされ、「生け贄」まで捧げられるとすると、それが「見えていない」ものに対するものとしてはきわめて異例と言うべきこととなります。これを整合的に理解しようとすると、「シリウス」は昼間でも見えていたという結論にならざるを得ません。(先に見た『イリアス』の解析も同様の結論となります)
つまり、太陽とシリウスが両方とも同時に見えて初めて夏の暑い理由を(あるいは責任を)「シリウス」という存在に帰することができるわけです。
そもそもいくら明るいと言っても星を暑さの理由にはできないでしょう。太陽がなければ見えているはずといってもそれは他の星も全く同様ですから、特にそれがシリウスの場合にだけ展開される論理とはできないはずです。
結局「紀元前」のかなり早い時期に「シリウス」の新星爆発とそれに伴う増光があり、そのため昼間も見えるような事象となったと見られるわけですが、これと関係があるのではないかと考えられるのが、「縄文」と「弥生」の画期となった「気候変動」です。
すでに国立民俗博物館の報告により「縄文」から「弥生」への以降は従来考えられていたよりもかなり遡上する時期であったことが明らかとされています。これは「土器」などに付着した有機質について放射性炭素の崩壊量などの測定から導き出されたものですが、熊本大学の甲元眞之氏を代表とする「考古学資料に基づく「寒冷化」現象把握のための基礎的研究」(「kaken」(科学研究費助成データベース)研究課題番号:17652074 2005年度〜2006年度)によれば、「乾燥化」「寒冷化」に伴う砂丘・砂堤・砂地の形成状況を分析することで寒冷化の時期を特定することができるとされ、結論として「…西日本の沿岸地域での事例では、縄文時代早期と前期、前期と中期の境目、後期の後半の中頃、縄文時代と弥生時代の境目、弥生時代後期終末直前、古墳時代中期前半期にそれぞれ砂丘が形成されていたことが確認される。その中でも重要なのは、縄文時代と弥生時代を画する時期に寒冷乾燥化した現象が認められる。このことは広島県東広島市の黄幡1号遺構で検出された木材の年輪からも裏付けられる。すなわち紀元前750年をピークとする寒冷化現象は、オリエントや西ヨーロッパでも確認され、中国では軍都山の墓地の切り込み層位や、香港周辺地域の「間歇層」と対応し、西周末期の寒冷化に比定できる。北部九州ではこの時期に形成された砂丘の下部からは縄文時代晩期終末の黒川式土器が、砂丘の上層からは弥生時代初頭の夜臼1式土器が検出されることから、弥生時代の始まりは寒冷乾燥化した状況で成立したものであり、その時期はほぼ紀元前8世紀終わり頃と推定される。…」とされ、縄文から弥生への移行は全地球的気候変動がその背景にあったとし、それは(「歴博」が指摘した時代とはやや異なるものの)「紀元前七五〇年前後」という時期であったとされています。
さらに多くの諸氏によりいろいろな切り口から「弥生」への移行時期について研究されていますが、多く議論が七〜九世紀付近にそのターニングポイントを設定する立論となっています。このように多くの論者が全く別の方法でアプローチして算出した値がある程度の範囲に収まるという実態は、全地球的気候変動がこの時期起きていたことを間違いなく示すものと思われますが、その「原因」となるものについては深く考慮された形跡がありません。
ところで、放射性炭素年代法の基本は「大気中のC14の量は年代にかかわらず一定である」というものです。しかし既に明らかなように色々な理由からこの基本原則は現実と適合していません。それらは「大気圏核実験」の影響や「大気」あるいは「海洋」に「リザーバー効果」と称せられる「蓄積効果」があることなどから、地域によって異なる基本原則を適用する必要があることなどが明らかとなっています。この点については「年輪年代」と比較することによる較正が行われており、信頼性を上げる努力が行われています。
すでに国際的に標準とされる較正年代が公表されており、「歴博」はこれを元に弥生時代の始まりを紀元前一〇世紀としたわけですが、リザーバー効果は地域によって異なり、日本のような周囲を海に囲まれた地域はかなりその効果が強いという見方もあります。「歴博」の発表はこの地域差に対する検討がやや欠如していた可能性が指摘されており、この点を考慮すると二〇〇年程度新しくなると言うことが多くの論により指摘されています。(※3)つまり「弥生時代」の開始年代としてはほぼ「紀元前八世紀」というものが措定され、それはすでに述べたように各地に残る「乾燥化を推定させる遺跡」の年代推定と整合的であると考えられているわけです。
通常「気候変動」特に「寒冷化」のもっとも大きな要因は地球が外部から受ける輻射熱の減少であると思われ、火山の噴火による大気中のエアロゾルの増加が最も考えやすいものです。しかし、基本的に火山噴火のエアロゾルはかなり大きなサイズのものが多く、成層圏まで到達したとしてもその多くが早々に落下していったものと思われます。つまり火山による影響はよほど大規模で連続的噴火でない限り短期的であり、時代の画期となるほどの大規模で長期的なものの原因とはなりにくいと思われます。さらにこの時期に気候変動については地域によっては「温暖化」となったと思われ、それは「全地球的輻射熱の減少」という推定とはかなり乖離するものといえるでしょう。
そう考えると地域や緯度などで影響が異なっていたという可能性が考えられますが、後に述べるように「極域振動」と呼ばれる気候変動がその要因としてあげられるように思われます。これについては、すでに述べたように背景として「シリウス」の「新星爆発」があったと考えたわけですが、それは古代ローマの儀式からも帰納的に考察することができます。
「古代ローマ」の風習であった「ロビガリア」(Robigalia)では、「作物(小麦)」が天候不順(ここではもっぱら日照りの害)で生育が不順とならないように「ロビゴ」(Robigo)という「神」(「Robigus」という男性神ともいわれています)に「生贄」を捧げるとされています。それが「赤犬」(子犬)であったものです。
この「ロビガリア」の起源は伝説では「紀元前七五〇年付近」の第二代の王である「Numa Pompilius」が定めたとされています。そこでは四月二十五日に「赤犬」を「生贄」にすることで「Robigo」という女神を祭り、「小麦」が「赤カビ」「赤いシミ」が発生するような「病気」やそれを誘発する「天候不順」に遭わないようにするためのものであったとされます。これについては紀元前四十七年の生まれとされる「Ovid」が彼の『Fasti』という詩集の中で触れており、そこでは「司祭」に対して「なぜ四月二十五日に赤犬を生贄にするのか」という問いをしたところ「司祭」は「シリウスは犬星(The Dog star)と呼ばれ太陽と共に上ることと関係している」として、「それと炎暑が同時に起きるから」と答えています。この司祭の表現は伝承の当初から「赤犬」は「シリウス」に対して捧げられていたと考えられ「ロビゴ」とは「シリウス」の農耕神としての側面の名前ではなかったかと考えられることとなります。
そもそも一般に宗教的儀式というものは時代を経てもなおそのまま維持されるのが通常であり、状況が変わって存在意義が失われていても儀式の中身が変わらないというのは日本の神社などにおいても見られることでもあります。つまり司祭の奉じる儀式はその起源から大きくは変えられていないものと思われますから、「シリウス」の存在自体が「ロビゴ」の起源と深くかかわっていることが推定できるでしょう。
そもそも一般に「祭る」という行為は、その祭られる対象が邪悪であったり、不幸を呼ぶものである場合などに、その力を封じ込めるために行うのが原初的なものと思われ、その意味で「ロビゴ」とは「気候不順」という「災厄」を招くものであったことが推測できます。そのことは「ロビガリア」の祭儀の中で司祭が述べる祭文の中にも表れています。そこでは「Cruel Robigo」と呼びかけられており(※1)、「Cruel」つまり「残酷な」という形容が「ロビゴ」に対して行われているわけであり、そこに「ロビゴ」という神の本質が現れているといってもいいでしょう。つまり「シリウス」が気候不順を招いた張本人であると考えられていたこととなるわけです。
更にこの「ロビガリア」が始められた付近で「暦」が整備されたといわれています。これ以前「暦」は「1月」から「10月」まではあるもののその後の一年の終わりの時期までの期間には特に月は定められていなかったとされます。残りの60日程度は「何もしない期間」であったからとされているわけですが、「第二代王」「Numa Pompilius」がこの期間についても「月」を決めたものであり、それが現在「1月」と「2月」となっているとされます。
「2月」が30日に満たないのはいわば「帳尻合わせ」がこの月で行われたからであり、当時は「年」の最終月であったことを示します。
彼が「年」の最終まで「月」を定め「暦」を整備したのも「ロビガリア」を始めたのと動機としては同じであったものと見られ、変化した気候に対応する必要があったからであり、「暦」に従うことで初めて「収穫」が望めることになった事情があったと考えられるものです。
紀元前八世紀付近に「シリウス」に関する何らかのイベントがあった可能性が考えられるのは、その「シリウス」という名称が多くの星と違いアラビア起源ではなくギリシャ起源であることからもいえます。それは即座にギリシャの「暗黒時代」と呼ばれる「無記録時代」を過ぎて「ポリス」が形成され始める「紀元前八世紀付近」が相当すると思われること、それに関して古代ギリシャの天文学者である「ヘシオドス」がその記述の中でシリウスをそれまでの「ドッグスター」などから変えて「シリウス」と呼び始めるのが紀元前八世紀以降であることなどからです。
たとえば「ホメロス」はいわゆる「神話時代」しか描写しておらず、その中では「シリウス」について「秋の星」(Autumnnstar)あるいは「オリオンの犬」(Orion's dog)とだけ記しており、「シリウス」という名称を使用していませんが、「ヘシオドス」は彼の生きた時代より一〇〇年前である「紀元前八世紀」のことを記した時点以降「Serios」(シリウス)と呼称するようになります。その「Serios」とは「光り輝く」という意味であり、その時点以降この名前を使用するようになるという事実は、この時点での「増光」を示唆するものと思われるのです。
「バビロン」発掘で得られた楔形文字が書かれた「粘土板」の中に「カレンダー」があり、その研究が欧米では進んでいるようです。それによればカレンダーを作るためのデータベースといえる「日記」(ダイヤリー)が確認されており、その最古の記録が「紀元前六五二年」とされていますが、そもそもカレンダーの作成のための観測が始められ、記録がとられるようになったのは「Nabuna sir」(ナブナシル)王の治世初年である「紀元前七四三年」であることが推定されており、この年次以降データの蓄積が開始されたものとみられています。そしてこのカレンダーは新バビロニア帝国の祖「Nabopolassar(ナボポラッサル)紀元」として開始されたものと思われています。
この「紀元」は「紀元前七四七年」を起点としているとされ、彼の時代から遡って起点が設定されており、バビロンの地に君臨し各代の王について数えられたとされます。しかも、そのデータの中身としては月の運行と惑星に関するデータとともに「シリウス」に関する観測が存在しており、当時「シリウス」が注目される事情があったことが強く推定できます。
そもそもバビロンではこのは紀元前八世紀以前には純粋な太陰暦が行われていたものであり、1年の日数などには頓着していなかった風情があるとされます。
「1太陽年」は365日ほどであるのに対して月の運行から算出した「1太陰年」は354日ほどですから、11日ほど違うこととなり3年もたてば1か月ずれることとなります。このままでは季節と「月(Month)」とが乖離するはずであり、それでは「不便」であるはずですが、もし「常夏」というような基本的に温暖な気候が年中続いていたとすると、その乖離に注意を深く払わなかったとしても不思議ではないこととなるでしょう。(現在も「純粋太陰暦」の地域があり、それは「エチオピア」など赤道に近く、季節変化の少ない地域です。)
しかし、気候が寒冷化すると季節変化が明確になり、その場合適切な時期を選ばなければ収穫は望めないこととなります。そのような気候の変化と太陽年を基準としたカレンダーの作成は軌を一にするものと思われますが(その意味で「カレンダー」は「農事暦」の性格が当初からあったもと思われます)、それまでの「太陰暦」と「太陽暦」との整合を図る必要が出てきた結果「ローマ」ではそれまで十ヶ月と「その他の日数」という程度にしか把握されていなかった「1年」という期間を、正確に把握するために月数を「十二ヶ月」とし、さらに太陽年に合わせるために最終月であった「Febuary」の日数で調整したため28日しかないという状態になったものです。(その後「年始」がずれたため現在2月となっていますが)
さらにそのままでは「月」の「端数」が出てしまうためこれを調整するために「19年」という中国で言う「章」の期間が設定されたものです。この19年という期間の間に7回閏月を挿入することにより、太陰暦の日数と太陽暦の日数を一致させることが可能となるわけですが、研究によればその「19年」の起点は「シリウス」が太陽と同時に上る「ヘリアカルライジング」の瞬間であったことが明らかとなっています。つまり「シリウス」の動きを起点として「1年」が計算され、その1年と従来の太陰暦を合致させるように計算が行われるようになったとされているのです。つまり紀元前八世紀付近において「暦」とシリウスの関係が変化したあるいは新たな関係が構築されたといえるわけです。これは上に見たように「気候変動」により「農業」に危機が訪れたこと、それを克服するために「農業祭祀」が定められ、それを過たず実施するために「暦」が必要であったことを示すものといえるでしょう。
(※1)「Cruel Robigo, do not injure the young wheat; let its tender tip quiver on the surface of the ground. I beg you to allow the crop, nurtured under heaven’s propitious stars, to grow until it is ripe for harvest. Yours is no gentle power. The wheat which you have marked, the sorrowful farmer counts as already lost ? 」“A prayer to Robigo” written by Ovid, the poet.」
(※1)増田公明「宇宙線による微粒子形成」名古屋大学太陽地球環境研究所(J. Plasma Fusion Res. Vol.90, No.2 (2014))
(この項の作成日 2016/03/13、最終更新 2019/04/21)