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稲作の時期とルートについて


 稲(米)の伝来ルートについても、現在「朝鮮半島経由」、「台湾・沖縄経由」、「中国大陸から直接」の3つの説が提出されており、いずれも「日本の稲作は弥生時代(紀元前三〇〇年前)から」とされてきましたが、九州の福岡県板付(いたづけ)(紀元前六〇〇年前)、唐津市菜畑(なばたけ)(紀元前七〇〇年前)の両遺跡からは、完全な水田遺構が出ています。
 これらの遺跡の調査から、稲作技術の渡来した時期は紀元前七〇〇年より以前であることが確実視されていました。しかし、従来はこの時代は縄文時代の範囲に入っており、「縄文時代に稲作があった」という不自然さがあったのです。
 そもそも「弥生時代」の定義から考えても、「稲作の開始」を以って「弥生の開始」とする、という考え方が一般的ですから、これは矛盾しているわけですが、これについてもこれらの遺跡が弥生時代の初期に入ることとなれば、問題がなくなってしまうのです。
 また『魏志倭人伝』に書かれている倭人の風俗(刺青の風習や貫頭衣、持衰など)は「南方的」なものと考えられていますが(中国南部から東南アジアに同様の風俗があります)、弥生文化は、「中国南部(江南の古文化)」との関連が非常に深い、と考えられています。たとえば、高床式の建物や、「鵜飼」の風習や「歌垣」などがそうです。また上顎左右の側切歯を抜く「抜歯」についても、このような風習は朝鮮半島にはなく、中国の東海岸で「春秋時代前期まで」存在するものとされているのです。
 弥生時代の始まりが従来の説より早くなれば、(たとえば弥生前期が紀元前八世紀ごろであるとすれば)これらのことについて「中国からの直接の伝播」としてかえってスムースに説明できるのです。
 また、九州の遺跡に多い甕棺から出土する細形銅矛や細形銅戈(どうか)は殷・周時代の中国最古の青銅器によく似ていることが指摘されています。これも中国の影響が日本に直接及んだ、と言う考え方も可能となります。(これらの銅原料の原産地も、中国の「雲南省」付近とみられています。)
(…ただし、「秦」の将軍が「周」の宝物殿から「宝器類」を簒奪し、それを「燕」に持ち帰ったという記録があり、そこから「日本列島」へ運ばれたという考え方もあります。このあたりはまだ不定ですが、このことが弥生中期の始まりと関係しているという事もいえるのかもしれません)

 ところで、東北日本、特に青森の地に稲作(早生品種)が伝わったのは紀元後一〇〇〜二〇〇年付近と考えられていますが、これが「晩成品種」からの突然変異と考えると、そのような「進化」には「千年程度」の時間スケールが必要という考え方があり、「紀元前八世紀」付近での稲作伝来という考え方であればそれほど矛盾はないといえることも重要です。それは伝搬スピードという点でも近畿への到達と思われる紀元前三世紀付近においてそれ以前と以後でペースがあまりにも違うという点が見事に解消することからも言えます。
 従来の考え方では晩成品種として伝来して僅か二〇〇年ほどで早生品種ができたと見なければならなくなっていたわけであり、それは余りにも不自然であったものですが、しかし伝来時期がもっと遡るものであったとすればそれは解決するわけです。
 そもそも「オオムギ」「ソバ」「コムギ」などの伝搬については中国西域から東北部、沿海州からサハリンへと続くルートが(不確定ながらも)想定されています。その意味では「稲」についても佐々木広堂氏のいうような(※)「大陸」(沿海州など)からの伝来という考え方は成立する余地があるといえるでしょう。
 しかし「北部九州」からであっても「期間」と「環境変化」が整えば「国内」で「進化」したとも理解できる余地があり、未確定といえるかもしれません。ただし「大陸」からであればその「大陸」内部において「進化」していたと見ることもできそうであり、また「人」の移動ルートとしても有力ではあります。
 いずれにせよ列島と大陸とにかかわらず、この「紀元前八世紀」付近で起きた気候変動(東アジアという地域全体として「寒冷化」となったものと思われる)によりこの時点で起きた突然変異が固定化しその後進化拡大したとみるのは自然なことです。

 日本の各地に「弥生時代」が訪れ、「稲作」が進んだのには「鉄器」が重要な役割を担っていると考えられます。「弥生時代」の開始が早くなったことで、逆に「稲作」の国内伝播の速度があまり速くなかったことが明らかになったと考えられます。つまり、「稲作」は早期に伝わったのですが、それに必要な道具に「金属器」が使われるようになるまで広まらなかった、ということと考えられます。「石器」から「金属器(鉄器)」になって始めて「稲作」は本格化して行くのです。
その「鉄器」の出土状況は圧倒的に北部九州で濃密なのです。ここから日本列島各地に伝えられていったと考えられ、北部九州は日本における鉄文化の発祥の地といえるでしょう。たとえば、「弥生時代」の鉄器のうち、「剣」、「太刀」、「鉾」等の考古学的鉄製武器の出土品の数は、九州で「六六三」、畿内で「七十九」、関東で「二十三」 などとなっており、九州での出土が他を圧倒しているのです。
 このように鉄文化が「西高東低」の「弥生中期」では、近畿大和には大型鉄製武器は皆無に等しく、邪馬壹国(邪馬台国)は九州にあった、という説の強力な裏付けにもなっています。

 またこのように「弥生時代」の始まりが早くなったことでいわゆる「徐福」伝説に対する考え方も変わらざるを得ません。彼が来倭したことで「弥生」へと移行したという説が語られていることがありましたが、それは実態とは異なる事となったものです。「秦」の時代(紀元前三世紀)に「中国」から何らかの文化的影響があったことは間違いないとは考えられますが(「細型銅剣」の流入がそれであるとされているわけですが)、それは新時代区分として「弥生」の中期頃の事と考えられるようになったものです。ただし、「近畿」など九州島以外の地域に「弥生」文化が伝搬する契機となったという可能性は考えられるといえるでしょう。

 ところで、縄文から弥生への時代の位相転換はその契機が全地球的な気候変動という事象に発するわけですが、その「原因」は何が考えられるでしょうか。通常は「火山」の爆発などにより日射が遮られることによる「寒冷化」が候補に挙がるわけですが、実は遠く「シリウス」(おおいぬ座アルファ星)が関係していると考えることもできそうです。


(※)佐々木広堂「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北部・ロシア沿海から伝わった 封印された早生品種と和田家文書の真実」(『古田史学論集 第九集 古代に真実を求めて』古田史学の会編 明石書店2006年)


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2019/12/30)