すでに「縄文時代」の終焉と全地球的気候変動に関係があると見たわけですが、「国立民俗歴史博物館」(以下「歴博」と称する)の調査、研究により、「弥生時代」の始まりについて、従来考えられていた時代より「五〇〇年」ほど早くなる、(九〇〇〜一〇〇〇BCぐらいか)という研究結果が報告されています。これは技術の進歩により、確度が数段向上した「放射性炭素年代測定法(AMS法)」によるものであり 、「九州」を中心とした西日本の各地の遺物をサンプリングして測定にかけた結果であるようです。(ただし、これはその後各位により検討された結果、やや早まり紀元前八世紀付近にその始まりがあるとされるようになりました。「歴博」はその見解を変えていないものの各種の検討からはやや下る時期に転回点を想定する方が正しいようです)
出された結果についての「信憑性」ははなはだ高いもの、と考えられますが、これにより日本の「歴史」の書換えが行われるのは必定となっています。
この結果に異議を唱える人もいるようです。それはもっぱら従来「土器」による編年の研究を続けてきた人達に多いようですが、「土器編年」(瓦編年も同様ですが)はあくまでも「相対年代」しか明らかにできず、しかもそれは従来「無証明」の前提から始まっていたと言うことを考えると、年代の推定は「留保付き」のものであったと言うことをもう一度よくかみしめる必要があると思われます。
その「無証明」の前提とは「弥生時代」とは「中国」から「細型銅剣」の流入が始まる時期を「弥生前期末」として、「秦」の「始皇帝二十五年」(紀元前二二二年)」から五十年遅れた時期、つまり「紀元前一七〇年ころ」に当てているということであり、またそれより以前の土器が六種類あるので各々三十年という年数継続したものと見て構成していることです。(その結果「弥生早期〜前期初」が紀元前四〇〇〜三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇〜一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一〜五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていたわけです)
しかし、そのような基準が「曖昧」なのは言うまでもないと思われます。基準が曖昧な上に土器同士の年代差(間隔)も恣意的であり、当然「誤差」を多分に含んでいると見るべきです。
従来からも「半島」や「大陸」の青銅器や土器との比較からは今回の「AMS法」とほぼ同時期の時代が想定されていたわけですが、それが主流とならなかったのは伝搬にタイムラグを想定していたからです。しかし、このタイムラグそのものが恣意的であり、検証不可能なものであったものです。これを認めてしまうと(というか認めてしまったが為に)任意の時代設定、つまりいくらでも新しくすることが可能となってしまったわけです。このような方法論により既存の「土器編年」が行われていたものであり、これは当然のこととして打破されるべきものであったものですが、内部からはその動きがなかったために外部、つまり考古学的方法ではない手段により見直しが迫られるということとなったものです。(※)
このような方法論は「科学的」とは言えず、「土器編年」に明確に定点というべきものを設定できない限り、それにかわる方法論(時間軸上に「定点」が表現できるようなもの)が確立したならばそれを基準として再編年すべきものであるのは当然であったでしょう。
たとえば高知県の「居徳遺跡」(紀元前一〇〇〇〜一二〇〇…この時代推定ももっと早まる可能性が出てくるでしょう)ではシカの角をくりぬいて工具の柄にした骨角器の例や犬を食用としていた形跡もあり、これらのことは「縄文文化」と相容れないものだったわけですが、この時代が「弥生」の初めとなれば大きな問題はなくなると考えられます。つまり、この遺跡は渡来人(中国江南地方と思われる)に関わるものであるという可能性が高くなりますが、それは時代背景として「弥生」の始まりとして矛盾はなくなるものと思われます。
この時期これらのように遠く「江南」から直接渡来した人々や「半島」「華北」などの地方からも多量の人々の流入があったと考えられますが、それらの中には犬を食用とするような生活習慣を持った人達もいたものと推定されます。
『史記』にもあるように(「刺客列伝」など)もともと中国では犬(狗)の肉を常用としていたのです。(屠殺業はほぼ「犬」がその対象でした)
「羊頭狗肉」という言葉もあるように「店頭」には羊の肉と同時に犬の肉も売られていたものです。犬の肉は羊に比べ高級食材というわけではありませんでしたが、庶民の重要なタンパク源であったと考えられます。『本草書』では、犬について「五労七傷」を治癒させる効能がある、という記述があるくらいです。
しかし、「縄文時代」の日本は狩猟採集生活であったので、犬は大切な作業パートナーであり、また家族の一部でもありました。「縄文時代」の遺跡からは丁寧に埋葬された犬の骨が出てくるぐらいです。
早くに農耕生活に入った大陸の人々は(狩猟時代が短かったため)犬がパートナーである生活様式に早期に終止符を打ち、代わりに犬を食料とする習慣にその後変化したものと考えられますが、日本ではそれが遅れたためその後「稲作」が定着しても犬を食料とする習慣は定着しなかったのでしょう。逆にいうと「稲作」が日本国内に伝播する速度はそれほど速くなかった、ということがいえると思われます。(犬を食用とする習慣は朝鮮半島には定着し、現代に至っています)
『書紀』(六七五年次の項)でも「馬・牛・犬・鶏を食うべからず」という記載があり、大多数ではないものの、一部の人たちの間にはその習慣があったと考えられます。(この禁止令はその後江戸時代まで続き、明治になってやっと解かれたのです)
馬も牛も五〜六世紀に大陸(あるいは半島)から入り、その後「馬耕」・「牛耕」等が始まったと考えられますが、「食用家畜」にはなっていなかったと思料されます。鶏も「弥生後期」から飼われていますが、「時を告げる」動物であり、神聖な存在と考えられていました。そのため「食用」とする習慣はそもそも根付いていなかったものです。
ここに猪が触れられていないことについては後述しますが、縄文以降少なくとも「律令」の時代においてさえも猪は食用とされていたと見られ、その「猪狩り」には犬が必須ですから、その意味でも犬が日本人の大切なパートナーとして存在し続けていたと見られます。
「弥生時代」が以前の想定よりずっと早く始まっていた、ということは、逆に言うと従来もっと遅い始まりを想定していたものですが、その理由としては、上に見たように「土器編年」においてひとつのタイプの「土器」が「三十年」続くと「仮定」してそれを基準にして計算していたからです。
「縄文時代」の場合は社会の進歩発展のテンポが遅かったと考えられたので、ひとつのタイプの「土器」は「百年」続いたと仮定していたものを「弥生時代」は「三十年」に短縮して考えていたのです。しかし、「放射性炭素年代法」による測定により「弥生」においてもやはりおおよそ「百年」という単位で社会が変化していたことがはっきりしたと考えられます。そう考えると、上で見た「基準年」とされている「紀元前一七〇年」から約百年後に「弥生後期」が設定されるべきこととなるわけであり、「歴博」による編年にかなり近くなります。
このように「土器編年」には「恣意性」が入り込む余地があり、「絶対年代」測定の必要性が(一部の人には)従前より認識されていました。それが「科学的な年代測定法」の進歩により実現しつつあるわけです。
従来はその「絶対年代」の「代用」として『書紀』の記事があったのですが、さすがに現代はそのような「非科学的」で「逆立ちした」方法は論拠として成立しなくなりつつあるようです。(「それは『書紀』に書かれた記事の年代に対する盲目的承認であり、学問以前のものといわざるを得ないものだからです。)
もちろん「科学的方法」というものも、「誤差」ないしは「測定原理」に関する問題がまだ横たわってはいることは事実です。放射性炭素による測定では大気中の放射性炭素の値が一定ではないこと及び地域にも差があるらしいことがすでに指摘されており、それを踏まえた上の「較正年代」の確立が急がれているようです。(国際的な較正年代はすでにあるものの、それを列島の遺物にそのまま適用して良いのかが問われています。)
このような状況であることは確かであるとしても、早晩それらがクリアされた段階以降の研究のスタンスとしては、「土器編年」あるいはその後の「瓦編年」などはあくまでも「相対年代」測定法であり、科学的絶対年代測定法の「補助」として機能するべき存在であるということとなると思われますし、そのことを関係各位が「肝に銘ずる」べきこととなると思われます。決してその「逆」ではないのです。
(※)大貫静夫「最近の弥生時代年代論について」(『Anthropological Science』113号二〇〇五年)が非常に参考になります。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/12/17)