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「三内丸山遺跡」のこと


 青森県には特記すべき遺跡があります。それは「三内丸山」遺跡です。この遺跡は「縄文」から「弥生」まで延々と続く遺跡(群)であり、五千五百−四千年前のものと推定されています。
 この遺跡そのものは江戸時代から知られていたものです。元和九年(一六二三年)に書かれた「永禄日記」に遺物出土が記録されていますが、一九九二年から本格調査が実施されたものです。

 この遺跡は従来の「縄文」という時代に対する観念を根底から覆す要素を多く持っていました。その一つが「物見櫓」かと推定される、「クリ」の木を柱に使った「高層」建築物の基礎の発見です。
 その柱穴は深さが2.2mもあり、底に残っていた栗の根は直径が85cmもあったのです。(「縄文晩期」では石川県の「チカモリ」遺跡や「真脇」遺跡が同様なサイズですが、「山内丸山」は「縄文中期」なので、一段古いと考えられます。)
 しかもこの「クリ」の柱には「めど穴」と考えられる穴が開いているのが確認されました。「めど穴」というのは「運搬」の際にロープなどを掛けるためのもので、「長距離」を運搬するときに使用する、というのが定説となっているもので「奈良時代」などで寺院などを建築する際の「遠距離」運搬の時に使用されたものです。同じものが「山内丸山」の「物見櫓」で見つかった、というのは、この「栗」の柱材がかなり遠方から運ばれたのではないか、ということを推測させるものであるわけです。
 柱材としての「クリ」は余り太いものを手に入れることが難しいようで、かなり山奥に行かないと探し当てられなかったと思われます。その山奥から切り出した「クリ材」を「縄」を掛けて物見櫓の場所まで運搬してきたものであり、推定では数km以上離れた山からのものではなかったかとされています。
 しかもこの柱穴の間隔が「4.2m」だったのです。このサイズの基本単位は35cmと思われ、これは「殷・商」の時代に使用されていた尺(約17.2cm程度か)の2倍に当たるものと考えられます。
 「殷・商」の時代は今から三千五百年ほど前と思われ、三内丸山に重なる時代のことであり、この両者には何らかの関係があったものと推定されます。(この「三内丸山」だけではなく全国的に「縄文中期」と思われる時期の建物などの基準寸法として17.2cm程度が検出されています。)
 このように「大陸」と「列島」との間の「文化」的伝搬にタイムラグが無かったかそれほど長い期間を要しなかったと言うことは、それ以降の「弥生時代」においても同様であり、「青銅器」などの伝搬もやはりタイムラグが無かったと思われることが近年明らかとなっています。つまり現在の私たちが思うほど交通移動の手段がなかったわけではなく、「遠距離」がそれほど「遠距離」とは意識されていなかったという可能性が考えられるでしょう。

 この柱の用途に関しては、それが単なる「櫓」なのかより複雑な「建物」なのかが未だ不明であると共に、実用なのか祭祀なのかもはっきりしていません。しかし、通常掘っ立て柱建築の場合、柱穴の深さや柱の太さと建物の高さには一定の関係があるとされます。
 この「三内丸山」のように柱が太く深い場合、高さもかなり高くなると推測され、15m程度あったのではないかと考えられ、これは「階数」で言うと5階程度に相当すると思われます。そう考えると、通常の建物ではないことが推定できるでしょう。「物見櫓」説が一番近いのかと考えられますし、「灯台」であったという説もなかなか鋭いかもしれません。そのような高い建物が「縄文」という時代に非現実的であるとは考えない方がいいでしょう。それは「出雲大社」の例があるからです。
 「出雲大社」(旧杵築大社)は五十年に一度建て替えられてきていますが、段々と低くなってきているのがわかります。それは「技術」が継承されなかったためであり、以前の建て方では復元できなくなってしまったからです。これが「伊勢神宮」のように「二十年に一度」という間隔であれば技術の継承には支障がないと思われ、古い建築様式がそのまま保存されていると思われますが、その間隔が開けば開くほど当時の技術や建築方法が忘れられてしまい復元できなくなるということが言えるでしょう。「三内丸山」遺跡においても当時の技術はすでに途絶えてしまったため、どのように建てられたものかはすでに不明となっていますが、だからといって高層建物などが不可能であったとは言えないと思われます。

 さらに注目すべきは「クリ」を「栽培」していたのではないかと推定されていることです。
 遺跡から出土した「クリ」の実のDNAを分析したところ、一般の林に生えている「栗」とは違って、「揃っている」のが確認されたのです。単に林に行って、「クリ」を採集してきた場合各々の「クリ」のDNAは「ばらつき」があります。「クリ」にも個性があり、多様性があるのです。しかし、遺跡から発見された「クリ」のDNAは「画一的」でした。このことから、この「クリ」は「栽培」されていたものではないか、と推測されています。
 確かに、「三内丸山」では多量の「クリ」の実が発見されており、通常「クリ」が一カ所に大量に存在する(たとえば自然林において全部が「クリ」などというような)ことはあり得ないため、これだけの「クリ」を集めるのは技術的にかなり困難だと考えられ、「三内丸山」で至近の場所に「人工的」な「クリ林」を造っていたのではないかと推量されているわけです。
 他にも、いわゆる「栽培植物」として知られる「ひょうたん」「豆」などが出土しており、狩猟・採集だけではなかったことが知られるものです。(しかも「ひょうたん」は「アフリカ原産」です。)

 出土した黒曜石の産地分布は北海道産が多いようですが、その中でも多様性があります。「赤井川」「白滝」「十勝」「豊泉」「置戸」など北海道の中でも分散していますし、本州産と見られるものでも秋田県「男鹿」、長野県「霧ヶ峰」(ただし製品として)など複数の場所からの入手が確認されています。
 また岩手の「久慈市」付近が原産地と見られる「琥珀」の原石も出土しています。他にも秋田県「昭和町」付近で採集されたと見られる「天然アスファルト」が付着した「鏃」が出ています。これは矢の軸(木材)との接着に利用したもののようです。

 出土した中には「けつ状耳飾り」と呼称される勾玉をイメージさせるアクセサリーと思われるものがあり、これは「大陸起源」と考えられ、中国東北部と関係があったと考えられています。(中国東北部でも八千年前のものが出てているようです)


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2014/08/16)