戦前の教科書には「縄文時代」という時代区分はありませんでした。『書紀』などの「神代史」がそのまま「歴史」として書かれ、教えられていたのです。戦後になって、「縄文時代」という区分が使用されるようになり、日本人の原像として改めて考えられるようになりましたが、一般にはいまだに「未開」の人たちであり、高い文化を持っていなかったと考えられているように思われます。
その「縄文時代」は、現在「草創期」「早期」「前期」「中期」「後期」「晩期」の大きく6区分されています。以下に示すのは「九州」地域の区分であり、AMS法で測定して暦年代に補正したものです。
「草創期」 … 15,000年前〜12,000年前 (前13,000〜前10,000年)
「早期」 … 12,000年前〜7,000年前(前10,000〜前5,000年)
「前期」 … 7,000年前〜5,500年前(前5,000〜前3,500年)
「中期」 … 5500年前〜4500年前(前3500〜前2500年)
「後期」 … 4500年前〜3300年前(前2500〜前1300年)
「晩期」 … 3300年前〜2800年前(前1300〜前800年)
一般に「縄文時代」は「狩猟社会」であり、「未開」で「未発達」であったと思われがちですが、そのような見方がいかに偏見に満ちたものであるかが、近年の各地の遺跡などの発掘からわかってきています。
彼らは遠方との交流、交易を活発に行い、多くの情報や人が行き来していたと考えられるようになりました。
また、彼らは土木工事をしたり、大型建物を造るなどの活動もしていたことが判明しています。またその大型建物では柱に「貫穴」(床材を受けるための横材を貫通させるための穴)が開いているのが確認された例もあるなど、建築技術的にも後の「弥生時代」と遜色ないものがあったことが確認されています。
さらに大型建物に必要な部材を山から運び出すのに必要な「ロープ」などを掛ける「穴」が確認できる部材もあり、相当の遠距離から運搬することがすでに「縄文時代」に行われていたことが明らかとなっています。
「弥生文化」は明らかに西日本が優勢ですが、それ以前の「縄文時代」は「東日本」が文化的に優勢であり、「九州」を含む西日本は遅れていました。その原因としては東北や北海道ではすでに終演した火山活動が西日本では継続していたものであり、「九州」の「桜島」や「喜界島」など火山の大噴火が続き、その影響は直下といえる「九州地方」に多大な影響を及ぼしたからと考えられます。そのため「九州」の「縄文時代」は集落も大規模なものが見られません。
東日本の本格的縄文時代は今から七千年ほど前から始まったとされる「縄文海進」の時期にピークを迎えました。この「海進現象」は基本的には北米大陸に大量にあった氷河が氷期が終わった時点から融解を始め、それがほぼ溶けきったことに伴う海水量の増大がその主たる要因ですが、低温で通常よりもやや重い海水が大量に太平洋に流れ込んだことにより海洋底が変形し海洋底が深くなった結果、陸域が引きずられて沈降したため海水面が現在より最大10m程度高くなって、海岸線が現在よりも大きく内陸に入り込んだ形となったものです。このように元々の海抜がそれほど高くない地域に海水が侵入した結果、「浅瀬」が広く広がり、人々の生活に非常に適した狩猟環境が形成されたものと見られます。(この東北日本では温暖化も進行していたものであり、それは海流の経路変更による暖流の影響が大きいとされます)
またこの時期には大規模な「クリ」栽培(青森三内丸山遺跡)や大規模柱列(石川チカモリ遺跡)、環状列石(青森大湯環状列石)など広範囲、多数の人間を動員する必要のある構築物などが各所にできました。これらはそのような生活環境の改善がもっとも大きな要因を成していたものと見られ、特に東北日本でそれが顕著に表れたものです。
このように優勢を誇った東日本縄文人に対し、西日本では「九州」を除き縄文後期においても本格的な「縄文文化」は花開きませんでした。しかし、逆にこのことが新しい文化である「稲作」をはじめとする「弥生文化」を抵抗なく受け入れる素地ともなったとも考えられます。
その後、今から四千年ほど前になると逆に「海退」が進行し、海水面が低下していきます。これは低かった海水温が温暖化の中で上昇し始めた結果「軽く」なり、その分海洋底(この場合太平洋)の変形がゆっくり元へ戻って行くにつれ、「陸域」の隆起が始まるという「地殻変動」によるものであったものですが、それは即座に暖流の経路が再び変更になったことを意味するものであり、特に「東北日本」において「気候変動」を発生させるものでした。その結果「東北日本」を中心として繁栄していた「縄文時代」は終焉を迎えはじめます。「海退」により浅瀬が減少し容易に獲得できていた海生生物を栄養源とすることが次第に困難になっていきます。
このように海や野で得られる「さち(獲物)」が減少し、人口も減少していきました。その後三千年ほど前になると「江南地方」(揚子江の南側の地域)から稲作が(人も含めて)伝来しますが、彼等はこの時期起きた「全地球的大規模気候変動」による民族移動の結果として列島にやってくることとなったものです。そして彼等の文化をいち早く受容した「出雲」および「九州北部」において「水田農耕」が始まり、これが定着することとなります。
このようにいち早く「弥生文化」がこれらの地域に定着したのは、そもそもこれらの地方は「縄文文化」の中心とはいえず、いわば「根」が弱かったことがあると言えるでしょう。
すでに縄文時代から人々は、当たり外れの多い獲物(さち)に寄りかかるよりはずっと効率がいいのは「栽培すること」と知っていたと思われ、近年の調査でも縄文最末期(約三千六百−三千年前)の土器から「栽培種」とみられる大豆や小豆の痕跡があることが判明しています。それは「九州」では「長崎」「熊本」「福岡」「鹿児島」などの遺跡に及んでおり、ほぼ全九州で検出されているのです。
こういった下地があったわけであり、そのことから「狩猟生活」から完全に脱却し、「稲作」に振り替えることに対する抵抗もよほど小さかったと思われます。
また稲作を伝えた人々も要は「移民」であり、受け入られなければ去るしかなかったわけですが、もし受け入れがスムースであったならそこに定着し、そこより遠くへ行く必要もないわけですから、「九州島」近隣で稲作を継続していったと考えるのが妥当と思われます。
つまり「縄文晩期」の終焉は九州北部でいち早く始まり、その後の「弥生」への移行も早かったと考えられていますが、東北方面では遅れて、「縄文晩期」が「九州」の「弥生中期」に相当する時代まで続いていましたし、北海道は「続縄文」という時代がその後「奈良・平安時代」頃まで続くことになります。ただし「出雲」においては「稲作」における優位とともに「医薬」という部分で他に対して相当優越する知識と経験があったものと思われ、それが「九州」よりも「近畿」に多くの影響を与えた結果、列島の名手の地位を手に入れていたものと推量します。それを象徴するのが「銅鐸」の分布であると思われるわけです。(後述)
(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2019/12/15)