「三内丸山」をみて分かるように、「東日本」の縄文文化のレベルがかなり高いことが明確になっているわけですが、それに対し、「九州」を含む西日本は遅れていました。その原因としては東北や北海道ではすでに終息した火山活動が「西日本」では継続していた事が大きいとされます。
「桜島」や「喜界島」などの火山が大噴火し、その影響は直下といえる九州地方に多大な影響を及ぼしたものと考えられます。そのため「九州」の「縄文時代」は集落も大規模なものが見られません。
その後、今から三千年ほど前になると今度は地球規模で「気候変動」が起き、東北日本を中心とした「縄文時代」は終焉を迎えます。海や野で得られる「さち(獲物)」が減少し、人口も減少していきました。これについては後でも述べますが、「紀元前七五〇年前後」という時期が推定されており、それに関連して「シリウス」の増光があったものと思われ、新星爆発に伴う高エネルギー粒子の飛来が大気中のエアロゾルを増加させ日射量の減少になったとみられます。これが寒冷化の原因となったと推定され、この時点以降全地球的な民族移動が起きたものであり、その結果として「列島」では「弥生時代」の到来となったと見られるわけです。
この「東日本」優位の状況が崩れ始めたことを良く表しているのが「亀ヶ岡式土器」の拡散です。
この土器は広く「東日本」全体を覆っていましたが、「縄文後期」になると「西日本」の各地で、そのものやあるいはそれを模倣したような明らかに影響を受けたと見られる土器が見られ始めます。これは現在実際に「人の移動」があったと考えられており、寒冷化などにより東北縄文人が適地を求めて南下あるいは西下してきていたことを示すと思われています。(※)
さらに特に九州ではこの亀ヶ岡式土器の影響を受けたと見られる土器が多く見られるのが縄文終末期であり、それは弥生土器が見られ始める時期と重なっています。(さらに南島にも縄文土器の影響が看取できるとされています)
「稲作」が伝来した時点(これも「全地球的気候変動」の一端の事象と見られますが)、つまり「縄文終末期」には少なくない数の人間が東日本から西日本へ移動していたわけであり、特に九州は北陸からの移動が推定されています。それは「ヒスイ」を通じて両地域に以前から関係が出来ていたことの流れの中で理解できるものです。
彼らの存在と稲作文化の担い手がある程度重なっていると考えられるのは非常に興味深いところです。
彼らは「食料」の確保の「安定」を求めて西下してきていたわけであり、近年の調査でも縄文最末期(約3600−3000年前)の土器から「栽培種」とみられる大豆や小豆の痕跡があることが判明しています。それは「九州各地」の遺跡に及んでおり、ほぼ全九州で検出されているのです。このことから「稲作」という新しい技術と文化をある程度積極的に受容する素地がすでに形成されていたことが推定できるでしょう。その意味でも「栽培作物」が遺跡が確認できる「九州」が「稲作」を受け入れた最初の地であることは疑えないと言えるでしょう。つまり、民族移動の結合点とでも言うべき場所が九州であったということとなりそうです。
「弥生」文化は「江南地方」(揚子江の南側の地域)から稲作が(人も含めて)伝来し、定着することで始まりますが、それをいち早く受容したのは「九州」地域であり、「北部」において「水田農耕」が始まり、これが定着することとなります。上で見たように「栽培」に親しんでいた人々はこの新しい食料確保法である「稲作」を積極的に取り入れたのではないでしょうか。そうであれば「稲作」を中心とした江南文化は一定時期「北部」九州地域に留まりここで花を咲かせたものと考えることが出来ると思われます。
「稲作」文化の伝来と言うことを考えると、列島の中で「伝搬」の経路という地理的な優位性が高いのは、明らかに「九州」です。なぜなら「弥生時代」は「西」からやって来るわけです。地理的にいうと明らかに「西日本」の中でも「近畿」は「九州」に比べ「不利」でしょう。
「近畿」が「弥生時代」の先進地域であるとすると、この「地理的不利」を跳ね返せるだけの別の優位性が必要と考えられます。しかし、「弥生」の前の「縄文」の時も特に近畿に優位な点があったわけでもなく、「文化中心」が近畿にあった形跡が見あたらず、特に「近畿」へ早期に稲作文化を持った人々が移動してきたようには見えません。
論理的に考えた結果は「近畿」が弥生の先進地域であるべき何もないと言えます。それを証明するように「遺跡」から発掘された各種の遺物はいずれも「九州」の年代が他の地域に比べ古いことを示しているわけです。
特に近年実用化された「放射性炭素測定法」という方法を使用して測定した結果、「九州」における「弥生時代」は紀元前九世紀に始まったと考えられるようになり、他の地域に比べ三百年から五百年差あったと考えられるようになっています。
つまり「近畿」は「九州」に比べかなり遅れて「弥生時代」が始まったこととなるわけです。それを示すように「鉄」も「絹」も「弥生時代」には「九州」からしか発見されていないのです。
ところで「纏向遺跡」など「近畿」周辺の土器の出土状況を見てみると、各地の土器が多様に出土しているのが目につきます。従来、ともすればこのことを以て「近畿」に各地の文化が流れ込んで来ていたことの証左と考え、「倭国の中心地に流れ込む周辺諸国の文化」という図式で見ていたわけですが、それは当然重大な錯誤といえるでしょう。
前述したように「弥生時代」は「九州」に始まり、それから長い期間この地にだけ「弥生文化」が花開いていたと考えられています。そのことを示すようにこの地域では長い間「曽畑式土器」と呼ばれるこの地域特有の土器しか出土せず、他の地域の土器は全く見られませんでした。
そもそも「文化の移動・伝搬」というものが、文化の中心地から周辺に向かって流れるものであるのが原則であることを考えるとき、この土器の変遷は「九州筑紫平野」が、当時の文化の先進地であったことを示しているものと思われます。(「亀ヶ岡式土器」の分布と変遷が「縄文時代」の先進地域を示すのと同様の意義があると思われます。)
このように「弥生時代」は少なくとも「九州」でも(「出雲」でも)始められていたと考えるのが合理的であるわけであり、「近畿」が早かったとか、「近畿」と「九州」が同時であったなどということを想定することは決してできるものではないのです。
(※)遠部慎「九州における縄文・弥生移行期の東日本系資料」『考古学ジャーナル』第五四九号二〇〇六年十月号
(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2014/08/16)