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縄文時代についての捉え方


 日本の歴史時代区分の中で「縄文」時代ほど誤解されている時代はないと思われます。通常の理解では、「移動」「採集」「狩猟」の生活であり、農耕生活ではないため、富の発生、集中がなかった、と思われているようです。しかし各地の遺跡の発掘などにより、従来のそのような認識のいかに真実から遠いものであるかが徐々にではありますが、知られるようになってきています。たとえば同じ縄文時代(それも中期)に、黒曜石や硬玉(ヒスイ)またゴホウラの貝などが広い地域を介してやり取りされていたことが明確になっています。
 たとえば狩猟に必要不可欠な道具である「鏃」は、その最高の材料である「黒曜石」が、どの地域にでも産出するというものではないため、(主要な産地は「佐賀県腰岳」、「長野県諏訪峠」、「北海道赤井川村」など限られています)他の地域の人々はこれを手に入れるためには、「工夫」が必要でした。人々は、この貴重な、しかも必要不可欠な道具である「黒曜石」を手に入れるために、あるいは直接訪れ物々交換により入手する、あるいは他の人々を介して入手する、という事になったものと考えられます。その結果「海」を越えて遠く離れた場所からも「黒曜石」の「鏃」が発見される事になりました。たとえば朝鮮半島や沿海州などで発見の報告があります。(X線蛍光分析器などにより黒曜石は産地の特定が可能です。)
 同様に南方の海にしか生息していない貝(ゴホウラやイモガイ…主な生息地は奄美諸島以南のサンゴ礁)でできた腕輪がはるか北方の北海道の遺跡から発見されていることなどがあります。
 また遺跡から出土した遺体には「ゴホウラ」の飾りを腕に多数つけた状態で発見されているものがありました。このような場合は幼少のころに腕に通したまま成長したものと考えられ、成人してからはその腕輪を取ることができない(取るためには壊さなければならない)状態となっています。このままでは「狩猟」など「労働」は不可能と考えられ、この人物がそのような「労働」をする必要がなかったことを意味しており、これはすでに「生産階級」と「非生産階級」とに社会が「分化」していたものと考えられています。このようなこともまた、従来の考え方からすると「非縄文的」でしょう。
 これらのことは、通常考えられていた「縄文」に対する認識について大幅な変更を迫るものであり、史書に書かれた縄文時代の情報についても積極的な捉え方をする必要があるものです。

 一般に「縄文時代」の次は「弥生時代」であるというのは当然の認識ですが、ではその「移行」は列島の各地で一斉に起こったのでしょうか。そのようなことは考えにくいと思われます。その様な事が起きるとしたら二つの原因となるものが考えられるでしょう。一つは「天変地異」です。
 国土の広い範囲を同時に襲う未曾有の「災害」が発生すると、諸国はほぼ等しくその影響を受けるでしょうから、時代の位相がドラスティックに変化することは充分有りうると思われます。但し、これは「縄文」から「弥生」の場合には適用できないと思われます。「縄文」から「弥生」の場合は「稲作文化」が始まったとされており、これは地球的な大規模気候変動がその契機となっていることは事実ですが、このときの「気候変動」は実際の変化としては「漸次」的な事象の発生であり、緩やかなものであったと思われますから「天変地異」という言い方にはなじまないものです。

 他に「一斉移行」の原因として考えられるのは「戦争」であり、そのような広い範囲で戦いを起こすことができる強い権力者の存在です。しかし、そうであれば「縄文時代」の末には既に「統一政権」があったことになりかねません。つまり、もし「弥生時代」が全国一斉に始まったとすると、それは「国家」の政策としてのものと考えざるを得ず、「弥生」の前代にそのようなことが可能な中央集権的国家があったこととならざるを得ませんが、それは明らかにナンセンスな話です。
 そう考えると「縄文」から「弥生」へという時代位相の変化が「全国一斉」のものではなかったというのは明らかです。当然、列島各地は個々ばらばらに「弥生時代」へ移行したと考えざるを得ないこととなるでしょう。
(これについては現代でもそれを承認しない勢力があることに驚かされます。彼らは「近畿」も「九州」も同時に「弥生時代」に移行したと考えているわけです。そのような考え方が非科学的でありナンセンスであるのはいうまでもありません。ただし、その移行への要因としては全ての地域に共通していたことは事実でしょうけれど)
 上に見たように「縄文時代」に統一王権があったという仮定でもしなければ「弥生時代」に同時移行するはずがないといえます。そう考えると、「弥生時代」への移行には地域差があったこととなり、早く始まったところと遅れて始まったところとがあったということとなります。それでは「先進地域」はどこであったのでしょうか。「近畿」で早く始まったのでしょうか。もし、そうならそのための「アドバンテージ」は何かあったのでしょうか。

 「弥生時代」は「稲作」の伝来をもって「弥生時代」の始まりとする、というのが最も一般的な定義です。ところで、「弥生時代」の前の「縄文時代」は地球は温暖化による影響が大きかったと思われます。氷河期が終わり特に北米大陸にあった厚さ数千メートルにもなる氷河が溶け、海膨(海水量が増大すること)が起きるとそれは太平洋を挟んだ列島に影響が及び、その結果として内陸のかなり奥まで海岸線が入り込む形となっていました。これは「縄文海進」と呼ばれています。「東日本」の本格的縄文時代は今から七千年ほど前から始まったとされるこの「縄文海進」の時期にピークを迎えました。(これは実際には増加した海水の重量により海底が沈みこみ、それに陸地が引きずり込まれたために内陸に海が入り込んだものとされます)

 また「暖流」である「黒潮」は現在の北限である房総半島沖をはるかに北上し三陸沖まで流れ込んでいました。そのため現在の東北地方を中心とした「東日本」では水産資源も植物資源も動物類も豊富でした。これらのアドバンテージにより「縄文時代」は「東日本」が中心であり、「巨木」文明が栄えていたのです。
 この時期に大規模な「クリ」栽培(青森三内丸山遺跡)や大規模柱列(石川チカモリ遺跡)、環状列石(青森大湯環状列石)など広範囲で、多数の人間を動員する必要のある構築物などが各所にできました。
 特に「青森三内丸山遺跡」の内容は特記すべきものであり、縄文のほぼ全期間を通じてここに多くの住民が居住し続け、高い文化を創成していたのです。


(この項の作成日 2011/07/25、最終更新 2016/11/10)