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「数字日付」と「干支日付」


2016年5月8日送付分(2016年8月6日現在未掲載)

「数字日付」と「干支日付」 ―『書紀」成立の前段階について―

「要旨」
 『日本書紀』や『続日本紀』に見られる「年次移動」についてそれが「干支」を温存するという視点で行われていると見られること。しかし当時の王権から頒布された暦には「干支」が書かれていなかったと見られ、それに基づき宮廷内記録などが書かれたと見られること。「数字日付」を「干支日付」に書き換えた最初の記録は『書紀』ではなくそれ以前に別の史料があったと思われること。そこに書かれた「干支日付」が結果的に温存される形でその後「潤色」が行われたと見られること。以上について考察します。

T.年次移動と干支日付
 『続日本紀』の「貨幣鋳造」の年次についての解釈という点で画期的な論が添田薫氏により提出されています(註1)。それによれば『続日本紀』編纂の際に「貨幣」鋳造の功績を「新日本王権」のものとするため、年次を移動したというものであり、具体的には「同じ日付干支」を持つ日付へと移動したとされています。
 それによると『筆者の考えでは、『続日本紀』の編纂者は過去に発生した一連の出来事を、それと同じ日付干支の配列を持つ『続日本紀』内の収録年次にひとつひとつ貼り付けていったのであろう。』とされています。『続日本紀』に「年次移動」があるという点についてはその通りと思われ、その点を指摘した論が少ない中では大変貴重と思われます。また、同様の主張は正木裕氏の「三四年遡上」論(註2)にも現われ、それによれば「年次移動」の際の移動先の日付は元々の「干支」を温存する形で選択されたとされます。これらの主張に共通していることは「潤色」される前の「元々の記録」には「日付」に「干支」が併記された形で残っていたということを前提としていますが、それは一見すると疑問が出そうな所です。それは『書紀』の範囲である「七世紀代」には「干支」が併記されない形の「暦」が使用されていたのではないかという疑いがあるからです。それを端的に示すのが「文武」の即位日付です。「文武」の即位は『書紀』と『続日本紀』では日付干支が異なります。
「(六九七年)八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(『持統紀』より)
「(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。」(『文武紀』より)
 このように『書紀』では「八月乙丑朔」ですが『続日本紀』では「八月甲子」と書かれています。この差は使用した暦の違いとされ、『書紀』は「元嘉暦」、『続日本紀』は「儀鳳暦」によったためとされますが、そもそも「禅譲」が行われ即位した日付が、この段階の宮廷記録では「八月一日」とだけ記録または記憶されていたために発生している事象と思われ、「日付」に「干支」を伴った記録ではなかったこととなるでしょう。その記録に『書紀』や『続日本紀』編纂時点で「干支」を「当てはめた」ということとなるものと思われますが、そのような解釈が不自然ではないのは『斉明紀』に出てくる『伊吉博徳書』でも「日付」に「干支」が使用されておらず、単に数字だけが使用されていることでも窺えます。
「…伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…」(『斉明紀』より)
 しかもその「暦」は閏月とその前月の「大小」を間違えています。上を見ると「潤十月」に「卅(三十)日」があるように書かれていますが、実際にはこの「潤十月」は「小の月」であり、二十九日までしかありませんでした。
 「伊吉博徳」が個人で暦を造っていたとは思われませんから、これは「統治者」から頒布された暦が「間違っている」ということとなるでしょう。そしてそのような間違いのあるものが「唐」から頒布されるはずがなく、これは「倭国」の王権内部で独自に作成された暦であり、そのため誤差あるいは誤解があったとみられることとなります。
 この当時「唐」では「戊寅元暦」を使用していましたが、倭国は「六四八年」になって「唐」との国交回復を果たしています。(『旧唐書』による)それ以降「唐」の暦を使用したものと思われ(相手先の暦に従わなければ外交活動に支障が出る可能性が高いですから)、倭国でも「戊寅元暦」を使用していたはずですが、理解不足から誤った暦が使用されていたものではないでしょうか。それを示すのは「閏月」表記に「潤」という字が使用されていることです。中国側の史書において「潤」という字が「閏月」の表記に使用されたことは「皆無」であり、それは即座に「倭国側」の独自の使用法であることを物語っています。この「潤」表記は「閏月」を表すものとしては『続日本紀』には全く現れず、それは「潤」の使用時期として「儀鳳暦」に先立つ段階であることを明白に示すものです。そしてその時点の暦では日付表記に「干支」は使用されていなかったということとなるでしょう。
 そう考えてみてみると、「金石文」(墓碑など)や「木簡」などで「七世紀段階」では「日付」に「干支」が(数字と共に)併用されている例がほぼ皆無であることに気がつきます。

U.金石文と干支日付
 例えば「関東三碑」(「山上碑」「金井沢碑」「多胡碑」)のうち「山上碑」と「金井沢碑」でも数字日付であり、「干支」は書かれていません。
「辛巳歳集月三日記…」(「山上碑」)
「…神亀三年丙寅二月廿九日」(「金井沢碑」)
 ただし「多胡碑」では「干支」も日付に使用されていますが、内容から見てこれはかなり後代のものであってしかもこの碑文は大部分が公式文書の丸写しと思われますから「干支」があるのは当然といえます。
「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」 (「多胡碑」)
 しかし「墓碑」「墓誌」などでは「干支」は「七世紀代」から使用されています。
 「七世紀代」の「墓碑」「墓誌」には「那須直韋提」の「石碑」(これは「顕彰碑」と言うべきかもしれませんが)と「戚奈大村」の墓誌、及び「小野毛人」、さらに「船王後」の墓誌があります。それらのうち「那須直韋提」と「戚奈大村」の「碑文」に共通しているのは「干支」が「碑」を建てた日付や埋葬した日付として使用されていることです。
 「那須直韋提」の碑文には「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘…」(ただし「/」は改行を意味する)とあり、ここには「歳次庚子年正月二/壬子」というように「数字日付」の他に「干支」が書かれています。(その「庚子年」とは「七〇〇年」を指すと思われます)
 また「戚奈大村」の墓誌にも「干支」が日付として現われます。
「…卿諱大村檜,前五百野宮/御宇天皇之四世後崗/本聖朝紫冠威奈鏡公之/第三子也…以大寶元年律令初定/更授從五位下仍兼侍從/…四年正月進爵從五位上/慶雲二年命兼太政官左/小辨越後北疆衝接蝦虜/柔懷鎮撫允屬其人同?/十一月十六日命卿除越/後城司四年二月進爵正/五位下卿臨之以コ澤扇/之以仁風化洽刑清令行/禁止所冀享茲景?錫以/長齡豈謂一朝遽成千古/以慶雲四年?在丁未/四月廿四日寢疾終於越/城時年?(四十)六?以其年冬/十一月乙未朔廿一日歸葬於大倭國葛木下/郡山君里犬百井山崗天/…」
 これを見ると「慶雲二年」段階では単に「十一月十六日」とありまた「死去」した日付である「慶雲四年」の「四月廿四日」でも「干支」は書かれていませんが、埋葬されたとする「其年冬十一月乙未朔廿一日乙/卯」には「乙未」「乙卯」とあり、「朔干支」と「当日」の「干支」が共に書かれています。(このような表記法は『書紀』の日付の表記の仕方と類似しているのが注目されます)
 しかし「小野毛人」の墓誌では「干支」は日付としては採用されていないように見えます。
(表)「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位」/(裏)「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」
 ここでは単に「上旬」とだけ記され、日付が確定していません。
 また「船王後」の墓誌では「死去」した日付が「…阿須迦天皇末歳次辛丑十二月三日庚寅殞亡。…」というように「干支」でも表されています。ただし「埋葬」の日付はなく干支が使用されていたかは不明です。
 また「太安万侶」の墓誌においては「干支」が日付として使用されているものの、当時使用されていたと思われる「儀鳳暦」(麟徳暦)の示す干支とは一致していないことが明らかとなっています。
「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒。…」
 この点については洞田一典氏により「太氏」の出自地域である「呉」の暦が使用されていたという可能性が指摘されており(註3)、「死去」あるいは「埋葬」という重要な日付表記には(渡来氏族の場合には)「干支」の使用も含め出身地の「中国式」を採用することが行われていたことが推定出来ます。
 その他「七世紀代」の木簡をみると、「日付」に「干支」が併記されている例が見あたりません。(以下の例など多数)
「乙丑年(これは六六五年か)十二月十日酒□〔人ヵ〕・「他田舎人」古麻呂」(長野県更埴市雨宮 屋代遺跡群)
 また八世紀初頭の郡符木簡でも干支は日付に使用されていませんし、「大宝元年木簡」にも「日付」は数字だけで「干支」は書かれていません。というより木簡データベース(「奈文研」作成のもの)を検索すると「数字日付」に「干支」を併記した例がほとんど見られないのです。
 つまり「墓碑」などを除けば「七世紀代」の「金石文」あるいは「木簡」には「日付」に「干支」が併記された例が見あたらず、その時点の王権の作成した「暦」には「日付」としては「干支」が書かれていなかったことが強く示唆されます。

V.「潤色」と『日本紀』
 以上のことは『続日本紀』と『書紀』の間で「貨幣」関連記事の年次を移動したり、『書紀』の中で「三十四年遡上」という潤色が行われた際に「日付干支」が温存されたという考え方が一見成立しないようにも見えます。たとえば、上に推察したように記録が「数字日付」だけであったという可能性を考えると、わざわざ計算によって「干支」を算出し、同じ「干支」の別の日に貼り付けるという作業を行ったと推定することとなりますが、そのようなことは現実的ではないように思われ、そもそも動機が不審となるでしょう。このように一見不審といえるわけですが、この推定は元々の記録というのが「宮廷内記録」であり、そこからいきなり現行『書紀』あるいは『続日本紀』を作ったと考えると齟齬が発生することを示しています。
 つまり『書紀』や『続日本紀』のように「日付」を「干支」で表わすのは「中国史書」がそうであり、『書紀』などが「参考」にしたと思われる『後漢書』『隋書』などは日付は全て「干支」で表わしていますから、この形式を『書紀』『続日本紀』においても採用したものと思われ、そのために「日付」と共に「干支」が必要となったものですが、それを最初に採用したのは現行『書紀』ではなく、それに先行する「史書」(これを仮に『日本紀』とする(註4))ではなかったかと思われるわけです。
 もし「早い段階」で『書紀』の初期型として別の史料として『日本紀』が書かれていたとすると、その段階で「宮廷内記録」などの既存記録の日付を「干支」へと換算して日付表記として中国史書の体裁に合わせたという可能性があるでしょう。その後『書紀』の編纂が始まり、その際にすでにあった『日本紀』に「年次移動」という潤色を加え現行の『書紀』を成立させたとすると、その際に元となった『日本紀』の「干支」を温存するということは充分あり得ることと思われます。それは「干支日付」となった『日本紀』が「公定」されたものとして周知となっていた可能性が高く、それと齟齬する「日付干支」の違いは避けるべきと考えられたと思われるからです。そしてその事は『日本紀』の成立時期と『書紀』の成立時期にかなり「時間差」があったらしいことが推定できることも意味します。それは「日付」を温存しようとはせず、「干支」を温存しようとするという中にすでに明白といえ、「日付」に対する「記憶」がかなり希薄化していたことを推定させます。そのことから元々の宮廷記録などがすでに失われていたこと、『日本紀』は(当然)まだあったと見られることなどが窺われ、その『日本紀』を利用して『書紀』(それに引き続き『続日本紀』)を編纂したという可能性が強く示唆されるわけです。

「註」
1.添田馨「「和同開珎」再考 ─上古貨幣を支えた社会経済思想」(『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』二〇一二年〜二〇一三年)
2.正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる「三四年遡上り現象」について」(『古田史学会報』七十七号 二〇〇六年)他の一連の研究。
3.洞田一典「「太安万侶墓誌」干支の謎を解く」(『新・古代学 古田武彦とともに』第六集二〇〇二年新泉社)によります。
4.ここで仮に名付けた『日本紀』が例えば『万葉集』中に見られる『日本紀』と同じものかは今のところ「不明」と言うべきですが、可能性としてはあると思われます。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『日本古代の墓誌』(一九七九年)
前沢和之『古代東国の石碑』(山川出版社二〇〇八年)
奈良文化財研究所『木簡データベース』(WEB上のもの)