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「近江大津宮御宇天皇」と「天智」 ―「崇福寺」と「志我山寺」との関連から―(下)

要旨
 「崇福寺」を創建したという「先帝」について「天智」とは考えられず、「聖武」と見るべきであること。「弥勒信仰」は八世紀以降の「聖武」の時代付近にこそ活発化したと考えられること。そのことからも「崇福寺」は「天智」とはつながらないと考えられること。「志我山寺」は「七世紀代」から存続していると見られ、「崇福寺」とは別の寺院であると考えられること。この寺院は「阿毎多利思北孤」の太子である「利歌彌多仏利」による創建と考えられ、「天智」とは「利歌彌多仏利」を指す名称であると考えられること。以上を述べるものです。

W.「先帝」と「崇福寺」
 「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこではこの「崇福寺」を「先帝」が創建したと言うことが語られています。
『日本後紀卷十一逸文』(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、先帝之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」
『日本後紀卷廿七逸文』(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】乙酉。勅。崇福寺者、先帝所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」
 ここに見られる「先帝」については通常の理解としては「天智天皇」を指すとするわけですが、「先帝」それだけで「天智」を指した例は「続日本紀」には存在しません。「先帝」とは本来その字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば「聖武紀」には「文武」を「先帝」と称する例があり、また「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例が存在していますが、そこでは「国忌」つまり「命日」が書かれていますから、「特定」可能であるわけです。
 上の「日本後紀」の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然双方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容が全くされていないことです。これでは「天智」を指すとは即断できないと思われます。
 たとえば、「懐風藻」を見るとそこには「淡海先帝」とあります。この「桓武」「嵯峨」両帝の時の「先帝」も「天智」を指すとするなら、単に「先帝」ではなく、(「懐風藻」のように)「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されて然るべきではないでしょうか。
 また「崇福寺」の位置を推定可能な資料が存在しています。上の「日本後紀逸文」では「崇福寺」と「梵釈寺」が並べて記されていますし、先に見た「桓武」の時代の記録では「梵釈寺」の別当が「崇福寺」についても兼務し、「検校」を加えるようにと「制」されたとしています。この事からこの両寺院はそれほど遠距離ではないことが推測されますが、この「梵釈寺」はその場所が現「東近江市蒲生」付近にあったものと推定されており、これは「大津」の「崇福寺」とされる寺院のある場所からはかなり遠いものの、「紫香楽宮」からはほど近く、「崇福寺」が「紫香楽宮」至近にあったとするとそれほど不自然ではない記述となると思われます。
 さらに同様のことは「日本後紀(逸文)」の「嵯峨」の行幸記事からも言えそうです。そこでは「滋賀」の「韓埼」へ行幸するとして、まず「崇福寺」へ行き、それを過ぎた後「梵釈寺」へと向かい、そこから「湖」(琵琶湖)へ出ています。
『日本後紀卷廿四』「弘仁六年(八一五)四月癸亥【廿二】」「幸近江國滋賀韓埼。便過崇福寺。大僧都永忠。護命法師等。率衆僧奉迎於門外。皇帝降輿。升堂禮佛。更過梵釋寺。停輿賦詩。皇太弟及群臣奉和者衆。大僧都永忠手自煎茶奉御。施御被。即御船泛湖。國司奏風俗歌舞。五位已上并掾以下賜衣被。史生以下郡司以上賜綿有差。」
 この記事の行程からは「崇福寺」と「梵釈寺」とが「直線」上にあるように受け取られるものであり、「便過」「更過」という表現からはその先に「最終地点」として「滋賀韓埼」が存在する印象を持ってしまいますが、これを旧「大津京」を経由したとすると、「滋賀韓埼」は最初に通過する場所であり、整合しないと思われます。
 また、「大津京」に向かったとすると、「崇福寺」と推定されている「寺院跡」は「大津京」の更に先の山中に存在しますから、「梵釈寺」へはいわば「反対方向」であり、行程として不自然ではないかと推察されます。これは旧「紫香楽宮」を経由して「梵釈寺」に行きそのまま「湖」(琵琶湖)へ出たものと考えるとわかりやすいと思えます。その場合「崇福寺」が「紫香楽京」付近にあったとすると非常に自然な道のりであることとなります。(この「梵釈寺」の所在については現在一般に「崇福寺」の遺跡と至近にある場所(北尾根)が想定されていますが、その推定もまたかなり「恣意的」であり、「崇福寺」が「志我山寺」であるという無批判の前提から出た推論であって、それを今批判しているわけです。)
 ただし、仮に「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」を「先帝」と「無形容」で呼称していることとなりますが、それは時代も近いことですし、「無形容」であっても誤解されないという理解を彼等がしていたことになりますが、それは別段不審とは言えないと思われます。その場合逆に「紫香楽宮」が「近江」にあったからといって「近江先帝」としてしまうと、「天智」のことと「誤解」されてしまうということになりかねず、それを考慮して「無形容」なのではないかと推察されます。
 上に見るように実際に「崇福寺」の初出は「聖武紀」であり、「天智」の時代ではありません。「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのは「天智」だけではなく、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われます。

X.「天智」と「弥勒信仰」 
 一般には「天智」と「弥勒信仰」をつなげて考える論がかなり多いようです。例えば「藤氏家伝」には「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」というような文言が書かれ、そこでは「天智」の「詔」として「死後」「弥勒」から「妙説」を聴く、というようなことが語られています。
 また、「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあります。
 ここに書かれた「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、これは「弥勒菩薩像」と「天智」が関連している証左であるとされています。つまり「中宮天皇」とは「天智」を指すという訳です。しかし、この「像」と「台座銘」には数々の疑問が提示されており、未だ確定的な答えが出ていない現状であり、この「天皇」も「天智」であると決定した訳ではありません。
 既に述べたように「天智」と「崇福寺」を結びつけるエピソードが各資料にあるわけですが、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは重要です。
 「弥勒信仰」の隆盛した時代の理解としては「七世紀初め」には既に国内で盛んであったというものもありますが、ただしそれらが依拠している資料はほとんど後代のものであり、準同時代資料ともいうべき『書紀』「続日本紀」に「弥勒信仰」が姿を表さないことの意味を正確に把握する必要があるでしょう。実際には「弥勒信仰」は「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと見るべきであり、「遣隋使」や「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものではないかと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えるのが自然ではないでしょうか。
 その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。この時代以降に「弥勒信仰」が始まったと考えるべきでしょうけれど、またその帰国の「直後」から「弥勒信仰」が拡大発展したという訳ではないと思われます。なぜなら、「道昭」は帰国後「周遊」に出たとされ、各地に伝道して回ったらしく、王権の元に還った事情については「文武紀」に「和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。」(文武四年(七〇〇年)三月己未条)とされ、「飛鳥寺」への帰還は「六七五年前後」が推定されますが、この時点では「天智」も「鎌子」もすでに「死去」しています。つまり「道昭」から「弥勒信仰」が「天智」など「王権」に伝来し浸透したという可能性はほぼなかったものではないかと考えられるわけです。
 また、「三経義疏」の一つである「維摩経義疏」の中では「弥勒」に対して「批判的」言辞が確認でき、これが「七世紀初め」の成立とも考えられ、「聖徳太子」の書とされていることなどから、当時の「倭国王権」のなかでは「弥勒」は信仰されていなかったという可能性が高いことを示すと考えられます。
 この「維摩経義疏」には(菩薩品第四)「弥勒」について以下のような文章があります。
「今禰勒に凡そ四の執あり,一に己に勝行ありと存し,二に受記を存し,三に菩提の果を存し,四に滅度の涅槃を存す.前の二は是れ因の執,後の二は是れ果の執なり,今諸天の機,応に無相の空行を聞かんとす.而るに今此の四の存を以て為に説くが故に,則ち説と機と差(タガ)へり」
 さらに以下のような記述も確認できます。
「一には云はく,菩提は即ち是れ佛の無上智なり.言ふこゝろは,真諦の中には禰勒の空と衆生の空と一相無二にして得と不得となきが故に『若禰勒得菩提一切衆生亦得』と云ふ.二には云はく,今菩提と言ふは即ち是れ真諦なり.禰勒と衆生と,皆即ち真諦なり.故に『一切衆生亦得』と云ふなり」
 このような「維摩経義疏」の文言は、「弥勒」に対する「距離感」を示し、これを書いたという伝承がある「聖徳太子」は「弥勒」に対し「傾倒している」とはとても言えないことを示すものです。それを示すように「法隆寺」には「弥勒菩薩像」がありません。「中宮寺」や「広隆寺」には「弥勒菩薩像」があっても、「肝腎」の「法隆寺」にはないのです。
 「法隆寺」は既に拙論により考察したように(註2)元は「元興寺」であったものであり、また「倭国」で初めての「勅願寺」であったと考えられますから、この「寺院」に「弥勒菩薩像」がないと言うことは、当時の「倭国王権」の信仰には「弥勒」がいなかった事を示すものです。
 つまり、「聖徳太子」にその存在が投影されている「阿毎多利思北孤」やその太子「利歌彌多仏利」達は「弥勒信仰」の中にはいなかった事と思われるのです。
「弥勒」は「北朝」に顕著な信仰ですが、「南朝」を「隋」が滅ぼして中国を統一した後、「南朝」から「阿弥陀信仰」が流入したと見られ、「六世紀末」からの「隋代」の期間は「弥勒信仰」は下火となっていたと見られます。「倭国」はちょうどその期間に「隋」と国交を持ったと見られているわけですから、その「隋」から「阿弥陀信仰」が流入したと見ると「法華経」への系統が深いのも理解できるところです。
 また、上に見たように「藤氏家伝」では「鎌足」が「弥勒信仰」をしていたように伝えられていますが、『扶桑略記』などの資料ではその「弥勒」と「弥勒信仰」に批判的である「維摩経」を「呉僧」「福亮」から「講説」を受けたとされそのために私財を投じたとされています。
(『扶桑略記』より)
「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」
(同様の記事は「元享釈書」『日本帝皇年代記』などにも確認できます。)
 この「講説」に際して「維摩経疏」が使用されたという可能性がありますが、その中で「弥勒」に対して批判的言辞があるということは、この「講説」の際にも「福亮法師」から「弥勒批判」が行われたとも考えられます。
 さらに「鎌子」の子供とされる「藤原不比等」も「続日本紀」など複数の史料で「維摩経会」を父から受け継いで行なっていたとされています。
(「続日本紀 孝謙天皇紀」より)
「天平寳字元年(七五六年)閏八月壬戌条」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞…今有山階寺維摩會者。是内大臣之所起也。願主垂化。三十年間。無人紹興。此會中廢。乃至藤原朝廷。胤子太政大臣。傷構堂之將墜。歎爲山之未成。更發弘誓。追繼先行。則以毎年冬十月十日。始闢勝筵。至於内大臣忌辰。終爲講了。…」
 このように「不比等」は「維摩経」に傾倒し、「維摩會」を続けていたものであり、それは彼の父親である「鎌子」からの継承とも考えられます。
 「鎌子」は「維摩経」の講説をわざわざ「私財」を投じて受けているわけであり、しかもそれはただ一回だけではなく、「十二年」もの長きに亘ったとされ、「道昭」が帰国して「弥勒信仰」が新たに起こったとされる時期をその中に含んでいます。そのことを考えると、その中で批判的な書かれ方をしている「弥勒」を「鎌子」が信仰すると言うことははなはだ考えにくいこととなるでしょう。
 ただし、「鎌子」の長子である「定恵(定慧)」からの「伝来」というのは考えられなくはありません。彼の帰国は「六六五年」(「唐使」である「劉徳高」等の来倭に便乗したもの)とされますが、彼は「玄奘」の元で「仏典」の漢訳作業を行なっていた「神泰法師」に師事したとされ、間接的に「弥勒信仰」が伝えられたという可能性もあり、帰国してから「天智」に「弥勒信仰」を伝授したという事も想定できなくはありません。
 彼は帰国後「暗殺された」という説もあるものの『日本帝皇年代記』には「甲寅七 多武峯開山定慧法師入滅、大織冠鎌足之長子也」という記事もあり、この「甲寅七」というのが「七一四年」を意味すると考えられますから、かなり長期間健在であったとも考えられます。(「元亨釈書」にも同様の記事があります)しかし、そうであれば父である「鎌子」が「維摩経」の講説を受け続けたという記録とは矛盾すると考えられます。
 つまり、帰国した「定恵」と一番接近した日々を送ったはずの「鎌子」が「終生」「維摩経」を信仰し続けたと考えられるわけであり、彼の信仰に息子の「定恵」が全く関与していないと言うこととなりますから、「定恵」から「鎌子」や「天智」に「弥勒信仰」が伝授されたとは言えないと思われることとなります。
 これらのことは「鎌足」やその盟友とも考えられる「天智」の「弥勒信仰」というものが本当にあったのか疑わしいこととならざるを得ないものです。
 これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係していると思われます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。(註3)それが「三国時代」の「半島」に伝わり、特に新羅で盛んになった「弥勒」信仰と合体して「半伽思惟」している「弥勒」というものが現れてきたものです。しかし、この「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから直接「倭国」へ伝来したかはかなり疑わしいと思われます。それは「倭国」の仏教が基本的に「百済」経由であったこと、「六世紀代」の「百済」では「弥勒信仰」がまだ起きていなかったと見られますし、「六世紀末」以降では仏教その他文化面は「隋」など大陸から直接取り入れることとなったと考えられ、「遣隋使」などが派遣されるなど「隋」やその後の「唐」との関係が深くなったものと見られますから、「弥勒」についても同様であったと見られます。
 特に「唐」に派遣された學問僧達の帰国以降かなり時間が経ってから「経義」として理解され、受け入れられていくという過程を経た可能性が強いと思われます。つまり、それ以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけであり、それは「弥勒信仰」が受容されたのではなく「太子信仰」が受け入れられたことを示すと考えられるのです。
 「野中寺」の「弥勒菩薩像」については、その造形上の問題についての研究から「弥勒菩薩」とは考えにくいとされていますが(註4)、その台座銘文についても「追刻」であることが疑われています(註5)。しかもそこでは上に見るように「四月八日」つまり「釈迦」の命日に併せて「像」が「奉納」されている訳ですが、それが「釈迦像」あるいは「太子像」ではなく「弥勒像」であるとすると相当程度不審ではないでしょうか。そう考えると「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀」ではなかったと思われ、「七世紀後半」を過ぎて「八世紀」に入ってからの時期が想定されるものであり、それが「隆盛」したのは「弥勒」を明確に信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
 彼は「菩薩戒」を受け、「勝満」と言う法号を「行基」から授けられ、また「大仏」建造という事業を興したことでも判るように「過度」ともいえるほど仏教に帰依していましたから、彼であれば「崇福寺」に「弥勒菩薩」を安置したとしても不思議ではないと思われ、各種史料にあるような行動は実際には「聖武」が行なった事跡と言うことも考えられます。それが「天智」に結びつけられて理解され、伝承されているのは、それらの元となった「原資料」に「あめのみかど」という名称が書かれてあったからという可能性が考えられます。
 この「あめのみかど」とは「万葉」や「古今」などに歌が収められている人物ですが、それを「古今集」やそれ以降の解釈書などで「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄氏」の研究により「聖武」を意味するものと証明されたものです。(註6)
 山田氏によれば「聖武」の呼称として使用されていた「あめのみかど」と「天智」を示す「あめのみこと」が混乱して理解された結果、本来「聖武」についてのものであったはずが、「天智」についてのものと誤解されていたというものです。
 このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられ、この「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないかと推察されます。

Y.「志我山寺」について
 ところで「崇福寺」と「志我山寺」は通常は同一寺院であるとされています。このうち「崇福寺」は前述したように「聖武」の時代が初出ですが、「志我山寺」について「文武紀」に出された「太政官処分」の中に現れるものが初出とされており、そもそも時代が合いません。
(『続日本紀』)「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」
 この文章については色々問題があるとされ、例えば「志我山寺」の場合「体系」の「注」によれば、起点としての「庚子年」を「七〇〇年」とし、そこから「三十年間」は寺封を継続する意としています。しかしこの文章のどこを取ってみても、「完了」としての意しかありません。
 つまり「体系」によれば「「三十年経過したら停止する」というように「仮定法」であるとするわけですが、文脈から言って、「三十年間有効」を述べているわけではなく、この「符」の主眼は後半の「並停止之。皆准封施物。」という部分にあり、これは「完了形」で理解すべき文章です。これは明らかに「寺封の停止」についての処分であり、決して「有効期間」を述べたものではありません。
 もし「有効期間」を述べるのであれば『文武紀』の「山田寺」のように(「文武三年(六九九年)六月戊戌条」「施山田寺封三百戸。限卅年也。」)「限」という文字を入れることにより、その意を表すことができるのですからそうすれば良いだけであったはずです。この類は頻出しており、なぜ同様の表現としなかったのか疑問とするよりありません。
 このように確認される「疑問点」については「洞田氏」の論によって「大化」と「大寶」の書き換えとする理解が発表されていますが(註7)、それとは別の問題として「志我山寺」について「観世音寺」とは異なる扱いをされているという点が注目されます。
 つまりこの「志我山寺」についてはその創建から「三十年」経過していると言うことであり「観世音寺」及び「筑紫尼寺」はまだ五年しか経過していないというのですから、全く置かれた状況が異なっている事が解ります。一般には「観世音寺」も「志我山寺」も同じ「天智」の「発願」によるとされていますが、「志我山寺」だけが建設が中断することなく進捗したかのように見られることとなり、また「寺封」も受け続けていたことにもなります。
 その「志我山寺」(史料によっては「崇福寺」)については、各種史料(『扶桑略記』『元享釈書』など)に「多宝塔」が出土したという伝承があるとされます。この「多宝塔」については「古代インド」の「阿育(アショカ)王」が埋めたという説話中のものと解釈されているわけですが、同様に「阿育王」の「多宝塔」に関するものとして「唐代」の記録『法苑珠林』に記事があります。
 そこでは「倭国」から派遣された「官人」として「会丞」という人物がいるとされ、彼に「倭国」の「仏法」のことを問いただすと以下のように答えたとされます。
(『法苑珠林』道世撰より)
「…彼國文字不説無所承據。然驗其靈迹則有所歸。故彼土人開發土地。往往得古塔靈盤。佛諸儀相數放神光。種種奇瑞詳此嘉應。故知先有也…」
 ここで「土地を開発」つまり、田畑を耕したり道路、池などを作ろうとして地面を掘ると「古塔の霊盤」というのが出土するとされ、それが「阿育王」が全世界に建てた「多宝塔」であろうという事となっているのです。これはすでに見た「今昔物語集」など「志我山寺」の創建伝承と共通する内容です。
 「法苑珠林」によればこの「会丞」という人物は「大業の始め」に来たとされていますから、いわゆる「遣隋使」の一人であった可能性が高いと思料されます。また、ここに書かれたことは彼の見聞したこととされているわけですから、彼が「倭国」で生活している段階で見聞したこととなり、ほぼ「六世紀末」から「七世紀初め」の「倭国」の実情を示すとも考えられます。
 そう考えると同じように「多宝塔」らしきものが出土したとされる「志我山寺」の創建と、その際に「無名指」を切断したという伝承の成立の時代も「会丞」の倭国時代にかなり近いのではないかと考える事もできるのではないでしょうか。それは、そのような行為により「父母」に感謝する祭祀が行なわれたとすると、「六七〇年代」としては「伝統的すぎる」と考えられる事と整合するといえます。
 つまり、「志我山寺」はいわゆる「天智」の時代のかなり「以前」に創建されたものという事が想定されるわけです。
 このような推定は、「心礎」から発見された「無文銀銭」に「銀小片」が付着していたことからもいえるものであり、このタイプの「無文銀銭」は「私見」(註8)によれば「初唐」に制定された「開通元宝」(開元通寶とも)の重量である「一両の四分の一」にその基準重量を合致させたバージョンであると推測でき、このことからこの「無文銀銭」の時代が「隋代」までは遡上しないと考えられることとなりますが、そのことと推定される「志我山寺」の創建年次とは矛盾しないと言うべきでしょう。
 つまり「志我山寺」は「七世紀第一四半期」付近に「利歌彌多仏利」により建てられたものであり、その際「左手無名指」を切り落としたのも「利歌彌多仏利」ではなかったかと思われ、「近江大津宮御宇天皇」とは「利歌彌多仏利」を指すこととなると考えられる訳です。
 
「小結」
W.「崇福寺」の創建は「先帝」によるとされるがそれは「天智」を表すとは考えられないこと。
X.「弥勒信仰」は「七世紀代」の「倭国王権」には「受容」されていなかったと考えられること。「弥勒信仰」の本格化は「聖武」の時代に濃厚であると考えられること。
Y.「志我山寺」は「崇福寺」とは異なる寺院であり、「志我山寺」はいわゆる「天智」の時代のかなり「以前」から既に建てられていた事が想定されること。

 以上前稿と合わせ、各資料に出てくる「近江大津宮御宇天皇」とはその時代から推定して「利歌彌多仏利」を指すものであり、彼が創建した寺院が「志我山寺」と称されるものであって、「崇福寺」とは別寺院であるということを考察しました。

(註)
2.拙論「元興寺と法隆寺(一・二)」『古田史学会報』一一五号・一一六号二〇一三年
3.宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
4.礪波恵昭「野中寺弥勒菩薩半跏像の再検討」『日本美術史学会報告』二〇〇六年三月。これによればこの「像」は「弥勒」というより「菩薩半跏像」であるとされ、その製作時期として「七世紀末」が有力とされる。
5.東野治之「野中寺弥勒像台座銘の再検討」『国語と国文学』七十七号二〇〇〇年。これによれば、この「台座名」は「大正時代」の追刻とされる。
6.山田孝雄「あめのみかど考」『藝林』 (一九五一年) 。
7.洞田一典「『続紀』から掘り出された大化元年」『古田史学会報』三十四号一九九九年。
8.拙論「「無文銀銭」 ―その成立と変遷―」『古田史学会報』一一〇号二〇一二年。

他参考文献等
伊野部重一郎「弥勒信仰について」高知大学学術研究報告第二巻第二号一九五四年
大橋一章「中宮寺の創立について」及び「法起寺の発願と造営」
麻木脩平「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず―東野治之氏の反論に応える―」「佛教藝術」二六四号二〇〇二年。この中では「旧」の旧字体である「舊」は「七世紀当時」は「旧」とは略さないという主張をされています。
秦政明「野中寺弥勒菩薩像の台座銘と半跏思惟像について」市民の古代第十四集一九九二年。ここでは追刻としながらもその年次として「台座銘」の「丙寅年」に依拠して「六六六年」のものとしています