「近江大津宮御宇天皇」と「天智」 ―「崇福寺」と「志我山寺」との関連から―
要旨
今昔物語集などに見られる「天智」とされる人物の「志賀寺」(あるいは「崇福寺」)の創建説話中に「左手無名指」を切断しそれを埋めたという記事があり、その「左手無名指」について考察し、そのようなことが行われる時代として「七世紀半ば」はふさわしくないと見られること。「崇福寺」の創建は「聖武紀」と見られ、「紫香楽宮」につくられたものであり、その創建に「行基」が関与していると考えられること。その「崇福寺」と「大仏」の完成に「婆羅門僧正」として知られる「菩提遷那」が関与していると見られ、彼にちなんで「崇福寺」が創建されたと考えられること。以上を述べるものです。
T.「天智」と「左手無名指」切断
「今昔物語集」など複数の資料に「天智」が「(左手)無名指」を切り落としたという記述があります。
「『今昔物語』巻十一 天智天皇、建志賀寺語第二十九」
「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。
其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じやうろく)ノ弥勒(みろく)ノ像ヲ安置シ奉ル。
供養ノ日ニ成(なり)テ、灯盧殿(とうろでん)ヲ起(た)テ、王自(みづか)ラ右ノ名無シ指(および)ヲ以テ御灯明ヲ挑(かかげ)給テ、其ノ指ヲ本(もと)ヨリ切テ石ノ筥(はこ)ニ入(いれ)テ、灯楼(とうろう)ノ土ノ下ニ埋(うづ)ミ給ヒツ。」
これによれば「指」そのものを灯明とした後、それを「埋納」したという事と理解されます。また、この「今昔物語集」と同様の記述は「元享釈書」や『扶桑略記』などの仏教資料にも見られます。また「鑑真」と共に来倭した「思託」が記したという『延暦僧録』によっても、「無名指を切り落として」それを「灯明」に入れて燃やしたとされています。さらに「九八四年」に「源為憲」が著した「三宝絵」の下巻の「僧宝の十」にも同様の記述を見ることが出来ます。(ただし「今昔物語集」以外ではそれを「左手」としています。)
これら複数の資料に現れる「左手無名指切断」という事象が事実かどうかという点も当然問題となると思われますが、共通して現れるその具体的内容から考えると、少なくても何らかのこれに類するものがあったがために多くの資料に書き記されることとなったと思われ、一概に「荒唐無稽」とは言えないと思われます。
ところで、この伝承の内容は「法華経」の「薬王菩薩本事品」に見える以下の内容を下敷きにしたものではないかと考えられているようです。
(「法華経薬王菩薩本事品第二十三」より)
「…若有發心。欲得阿耨多羅三貌三菩提者。能燃手指。乃至足一指。供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土。山林河池。諸珍寶物。而供養者。…」
ここでは確かに身体を犠牲にすることが「供養」となるとされていますが、しかし、「天智」に関する伝承ではその燃やした指を「埋めた」とされています。これは一見して「不審」であり、仏教的なものというより一種の「生け贄」を捧げる儀式であるように思われると同時に、それが「左手」の「無名指」(第四指)であるということも興味を引きます。
「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。
第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされており、それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。(註1)
それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされますが、それはいわゆる「諱」(いみな)という考え方につながります。
「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書くと言うようにしていたものであり、例えば「百済禰軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。生前は「諱」が明らかになったり、使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が明らかになり使用されるようになります。それは「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようであり、「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからだとされます。ですから、「名前」を知られることを極力避けていたものです。
この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは、「薬」が効くのは「超自然的」な力があるからであり、そのためにはこの指を使う必要があるからと考えられたものです。
「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されています。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかです。
説話の中では「天智」とされる人物は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。
これはやはり、この「第四指」に「神」に「供える」にふさわしい「霊力」があると彼自身が考えていたことを示していると思われます。
しかし、このように「第四指」に霊的な力があると考えることは明らかに仏教の教義に則ったものではないと思われ、「呪術」的要素が強いと考えられます。
仏教の教えにはこのような「血」の儀式様のものは本来なく、「生け贄」的考え方は「神道」あるいは「道教」など当時の日本における「俗」としての古典的要素が強いと考えられます。
確かに「指を燃やす」という行為に「功徳」があるとする経典もあるものの、「切断」して「お供え」とするというような感覚とは少なからず違うと思われます。
しかし、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえます。
(「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段より)
「仰山和尚嗣?山、在懷化。師諱慧寂、俗姓葉、韶州懷化人也。年十五、求出家、父母不許。年至十七、又再求去、父母猶?。其夜有白光二道、從曹溪發來、直貫其舍。父母則知是子出家之志、感而許之。師乃斷左手無名指及小指、置父母前、答謝養育之恩。…」
この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。
「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教(民間信仰)の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったのであり、「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたことが窺えます。
このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であると思われます。
またそれは「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。
この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なった後、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。
このような仏教の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」が色濃く残っていた事が想像されます。それは仏教に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは「隋書倭国伝」の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
この記事は「開皇二十年」(「六〇〇年」)という年次のものとして書かれているものの中にあるもので、派遣された「遣隋使」に対して「皇帝」(文帝)からの下問があった際の報告をまとめたものが原資料であったと思料され、それ以前の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女」の「祈祷」や「占い」をする人達に頼って生活していたことを示すものであり、そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
そう考えると、ここでいう「天智皇帝」が私たちが知っている「天智天皇」を指すものかという点が問われる必要があると思われます。
U.「崇福寺」と「聖武」
「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承について前項で述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。
(「日本帝皇年代記(上)」より)
「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)
ここでは『日本帝皇年代記』の記事を挙げましたが、この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。
つまり、他の「史料」(前項で例としてあげた『扶桑略記』「元享釈書」等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが「続日本紀」における「崇福寺」の初出時期です。
「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。
『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」
『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各?二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」
このように「紫香楽村」に「離宮」を作る記事があったその後「崇福寺」という寺院名が出現するわけであり、これらのことは偶然ではないと思われます。
また、この「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。
『同』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」
ここで「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、それ以前の「詔」で「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できます。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられるものです。
V.「菩提遷那」と「崇福寺」
このように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。
彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としては「大仏」つまり「盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院というのが長安(西京)の「崇福寺」なのです。
後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。
(「東大寺要録」「大和尚伝」より)
「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。
それに対しこの「崇福寺」が「七世紀半ば」の創建であるとすると、その「寺名」は別の由緒を考えるべきですが、そう考えると、「南朝」の首都「建康」にあった「崇福寺」という寺院がその命名の所以という可能性も考えられます。この「南朝」の「崇福寺」は「南朝劉宋」の時代(五世紀前半)に創建され、以後「北宋年間」までの五〇〇年にわたる長期間存続し続けていた伝統あるものですが、しかしその寺院自体に何らかの歴史的意義があるというものではないと思われ、それにちなんで「天智」が創建したは考えにくいといえるでしょう。
それに比べ「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」ならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
(「大正新脩大藏經/史傳部二/二○六一 宋高僧傳三十卷/卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/周西京廣福寺日照傳」より)
「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大コ三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」
これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも「天智紀」の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
「小結」
T.「崇福寺」の創建に関連して「天智」が「左手無名指」を切り落とすという行為を行ったとされることに関して、それが「古典的精神世界」の出来事と考えられ、「七世紀半ば」という時代にはそぐわないと考えられること。
U.「崇福寺」という寺名は「聖武紀」に初出するものであり、「行基」の業績として創建されたと見られること。
V.「崇福寺」の創建は「大仏」建立と共に「菩提遷那」の影響が考えられ、「紫香楽宮」創建後のものと推測されること。
以上から「崇福寺」について「聖武紀」に創建された寺院であり、それには「行基」と「菩提遷那」の両名が深く関わっていると思われることを考察しました。
次稿では「天智」と「弥勒」の関係及び「志我山寺」について考察します。
(註)
1.ラースロー・マジャール(Laszlo A. Magyar)『DIGITUS MEDICINALIS - THE ETYMOLOGY OF THE NAME』Actes du Congr. Intern. d'Hist. de Med. XXXII., Antwerpen, 1990. 175-179.