「不改常典」とは(一) −「十七条憲法」との関連について
「文武朝廷」以降の八世紀の「日本国」朝廷では「即位」の儀の際に「詔」を出し、その中で「天智天皇」が定めた「不改常典」というものが重要な位置を占めていることを表明しています。
たとえば「元明即位」の際の詔には、「前天皇」である「持統」から「文武」へ「禅譲」した際に、「持統」の権威の根拠として「天智」が定めた「『不改常典』」を「継承」(「受賜」「行賜」)してきたことを挙げていることがあります。それを自分も継承すると云っているわけです。
以下「元明」の即位の際の詔を示します。(なお以下の読み下しは「岩波新日本古典文学体系続日本紀」」によります)
「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇と詔旨(おほみことらま)と勅(の)りたまふ命(おほみこと)、親王諸王諸臣百官人等天下公民衆(もろもろ)聞きたまへと宣る。…是は關けまくも威岐(かしこき)『近江大津宮御宇大倭根子天皇の天地と共に長く日月と共に遠く「不改常典」(かわるましじきつねののり)止立て賜ひ敷き賜はる「法」(のり)を』、受け賜はり坐まして行ひ賜ふ事と衆(もろもろ)被け賜りて、恐み仕へ奉りつらくと詔りたまふ命(おほみこと)を衆聞きたまへと宣る。…此の食國の天下(あめのした)の政事(まつりごと)は平けく長くあらむとなも念(おもほ)し坐す。『又天地と共に長く遠く「不改常典」(かわるましじきつねののり)』と立て賜はる食國の法(のり)も、傾く事無く動く事なく渡り去(ゆ)かむとなも念ほしめさくと詔りたまふ命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣る。…」
また「元正」が「聖武」に「譲位」する際にも同様の記述があります。(これは「元明」の言葉として表されていると考えられ、上の例と同意義のものと考えられます)
「聖武」の即位の際の「元正」の詔
『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)二月甲午四。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。現神大八洲所知倭根子天皇詔旨と勅る大命を親王諸王諸臣百官人等天下公民衆(もろもろ)聞しめせと宣る。…依此而是平城(なら)の大宮に現御神と坐して大八嶋國しろしめして靈龜元年に此の天つ日嗣高御座の業(わざ)食國の天下之政を朕に授け賜ひ讓り賜ひて教へ賜ひ詔り賜ひつらく。挂けまくも畏こき『淡海大津宮御宇倭根子天皇の万の世に「不改常典」(かわるましじきつねののり)と立て賜ひ敷き賜へる隨法(のりのまにまに)』後(のち)遂には我が子に佐太加尓(さだかに)牟倶佐加尓(むくさかに)無過事(あやまつことなく)授け賜ひと負せ賜ひ詔り賜ひしによりて今授け賜むと所念(おもほ)し坐す間(あいだ)に…」
さらに「桓武天皇」の即位の詔勅にも、「不改常典」という用語は使用されていないものの、「近江大津乃宮尓御宇之天皇」が「初め賜い」「定め賜える」「法」と云う形で出てくるなど、多数の「使用例」があります。
「不改常典」については既に多くの研究があり、また多くの説が出されています。(注一)それらを詳述する事はしませんが、代表的な考え方として「皇位継承法」である、というもの及び「国家統治」に関するものである、という大きく分けて二つあるとされています。
例えば、これらの用例が全て「即位」に関するものであることから、「不改常典」とは「皇位継承」に関わるものとされ、「皇位継承法」のようなものではないかというのが一番「有力」な説でした。
しかし、上の「詔」の文章の中では、「元明」によると「食國法」であるとされ、また「元正」の言葉では「天日嗣高御座之業食國天下之政」に関わるとされています。「食國法」や「天日嗣高御座之業」、「食國天下之政」などは皆同じ内容を指す事は明らかであり、たとえば「天日嗣高御座之業」とは『天皇位に即いたものとしての「行なうべき」、「守るべき」「国家統治」のありかた』ということを意味すると考えられますから、これは「統治する側」から見た「統治」における「基本法」のようなものを示すものではないかと考えられます。(そのような種類の反論も既に行なわれています)
また、上の文章中の他の部分でも、この「不改常典」は、「不改」つまり「変えてはいけない」ものであり、「常典」つまり「いつも変わらないルール」として、「近江大津宮御宇天皇」が、「立て給い、敷き給える『法』」とされています。
つまりそれは「法」なのであり、ただ、その「法」は「天地共長日月共遠不改常典」あるいは「万世尓不改常典」というように「永遠に」「変えてはいけないもの」とされているわけです。これは当然「法」一般を指すのではなく、特にここでいう「法」に限った表現と言えるものです。
また「元明」の詔に出てくる二回の「不改常典」を別のものとする説も出ています。(注二)しかし文脈から考えても、どちらも「同じ」事を別の表現をしているだけであり、初めのものは「持統」が継承してきた、という文脈で現れ、後のものはそれを自分が継承するという中で出てきたものですから、同じ内容を指すと考えるのが自然です。
これらの例から帰納して、「不改常典」とは「国の統治の根本精神」を云い、「永遠に変えてはいけない基本法」のようなものであるとされていると読み取ることができます。これを単純な「皇位継承法」とするわけにはいかないのは明らかではないでしょうか。
これに関して「古田氏」は「不改常典」について、「皇位継承法」とは認めがたいとして、その著書(「よみがえる卑弥呼」所収「日本国の創建」)で以下のように言及されています。
「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」
このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。
ひとつは「統治の根本」を記すものであること、ふたつめにはそれが、『書紀』内に「特筆大書」されているものであること、もうひとつが「天智朝」のものであることとされています。
確かに「古田氏」が言われるように「不改常典」というものは「万人周知」のものでなければならないわけであり、「宣命」を聞いた「誰もが」それが意味するところを即座に了解できるものでなければならないわけです。そうでなければ「大義名分」を保有していることが証明できないばかりか、「権威の根源」が不明となり、「即位」の有効性にも関わるものとなってしまいます。
またこれが「律令」に類するものではないことも理解できます。「律令」は「統治者」ではなく「統治される側」が行うべき、守るべき条項を列挙したものであり、性格が全く異なると考えられるからです。
この意味では「旧来説」(皇位継承法とみなすものや「近江令」とする説)のほとんどが条件を満たしていないこととなります。
しかし「古田氏」自身は「天智朝」に出された「冠位法度之事」であるという見解に到達されたようです。しかし、「冠位法度」は確かに「国家」を統治するに必要なものではありますが、「国家統治」の「根本」と言うものとは少なからず性格が異なっていると考えられます。なぜならそれらは「変改」しうるものだからです。その時代に応じて「改定」され得るものであっては、「永遠に変えてはいけない基本法」とは言えないと思われます。
現に「天智朝」で出された「冠位」や「法度」のほとんどは(あるいは全部)、「八世紀」以降までそれが生き続けたと言う事実はありません。例えば「冠位」は「七世紀の初め」の「聖徳太子」の時代に定められたとされるものを初めとして、何回か改定されています。「八世紀」には「八世紀」の新しい「冠位法度」が存在していたわけであり、時代の進展に応じて変化し、改められるのがそれらの宿命でもあります。そのように変化流転する中でも「永遠に変わらない」ものが「不改常典」なのであり、これが単なる「制度」や「令」の類ではないことは明らかであると思われます。
こうしてみると一見「天智朝」にその様なものを見いだすのは不可能だとさえ思われます。そのような観点で『書紀』内を検索してみると、「不改常典」と思しきものを探し出すことが出来ます。つまり「国家の統治に関する根本法規」であり、『書紀』内に書かれていて、誰でもが想起しうるものというと(実は)ただひとつしかないと思われます。それは「十七条憲法」です。
「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、上で見たように「最高法規」として存在していたと共に、「統治」する側の立場の人間に対して「心得」を示したものであり、「統治の根本」を記したものでした。これはまさに「食国法」というべきものです。
またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変改等」してはいけないものでした。
つまり、「不改常典」に対して使用されている「天地共長日月共遠不改常典止立賜敷賜覇留法」という言い方は、「憲法」という用語がそもそも持っている「神聖性」「不可侵性」に「直線的に」つながっているものであり、これらのことから「十七条憲法」は「不改常典」という用語が使用されるにまさに「ふさわしい」ものと考えられます。
また、このような「統治する立場の者」としての「行動原理」を「守り」「受け継ぎ」「進める」事を「即位」の際に「誓う」とすると、それは当然ともいうべきものであるとも思われます。
この「不改常典」と「十七条憲法」の「類似」と言うことに関しては「大山誠一氏」がその論の中で言及されており(注三)、そこでは以下のような表現がされています。
「…王権の確立のために不比等が捏造する根拠を遠い過去に求めた法を、我々はもう一つ知っている。不改常典である。今、いきなり、この二つを比較するのは、あまりに唐突かも知れない。しかし、慶雲四年(七〇七)六月、文武がわずか二十五才で亡くなったのち、不比等が、自らの権力を維持するため、文武の母にして草壁未亡人の阿閉皇女の即位を策して提造したのが不改常典である。明らかに、不比等が擁立する王権の確立のためであり、天智が立てたとされたように、法の根拠を天智に求めている。一方、十七条憲法の方も、不比等の関与は明白と思われ、私見によれば、首(聖武)の即位を念頭に置いて王権の確立を構想し、根拠を聖徳太子に求めたものであるが、その聖徳太子に中大兄(天智)の人物像が強く投影されていることは、繰返し強調してきたところである。不比等にとって、父鎌足の面影と重なる中大兄(天智)の存在は特別のものだったのであろう。とすれば、十七条憲法と不改常典が、同じ理念のもとに作成されたと考えることを、もはや躊躇する必要はないであろう。…」
このように述べられ、どちらも「王権確立」に「必須」であったとされています。
ただし、彼の場合「聖徳太子架空説」を唱えており、「八世紀」に入ってから「藤原不比等」により「不改常典」も「十七条憲法」も「捏造」されたという立場で語られていますから「注意」が必要です。
彼の場合「聖徳太子」は「八世紀」の「書紀編纂者」の「捏造」というスタンスであるわけであり、これは「近畿王権」中に適当な人物が該当しなかったことの裏返しであるわけですから、その流れで「十七条憲法」も捏造としているわけです。そして、そう考えた場合「不改常典」と「十七条憲法」はほぼ同時期に「発生」したこととなり、それらに「共通点」を見いだしているのはある意味自然かもしれません。この両者にそのような共通な性格があると考える視点そのものは「無意味」とできないものです。
この「不改常典」と「十七条憲法」に共通な「性格」があると考えると、それが「明示」されるのにふさわしい場は、共にその「王権」の「威厳」を見せつけることができる「場面」であると考えられ、このことは「不改常典」というものが登場するのが「即位」の場であり、「十七条憲法」が出されたのが「冠位制定」が行われ、その「冠」を各人に「賜」する時点であったことからも窺えます。
しかし、「聖徳太子」と「十七条憲法」は決して「架空」ではなく「実在」の人物(或いはその実在の人物から投影されたもの)がおり、「隋書倭国伝」に書かれた「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」が該当する人物であると考えられ、この「憲法」は彼らにより造られたものであったものと見られます。
「聖徳太子」という人物の伝説は「隋書倭国伝」に登場する「阿毎多利思北孤」とその「太子」である「利歌彌多仏利」の両方の「事績」が混然として伝えられているように思われ、ここでは「阿毎多利思北孤」の事績が「聖徳太子」のものとして伝えられていると考えられます。(注五)
そのような彼(彼ら)に対するその後の「倭国王権」の「傾倒」は今考えるよりもはるかに強かったものと考えられます。それが後に「聖徳太子信仰」として形をとって現れることとなる根本の理由なのではないでしょうか。
そう考えた場合、「大山氏」により明確な関連があるとされた「不改常典」も、七世紀初めにおける「実在」であり「阿毎多利思北孤」により現実に造られた「法」であると考えることが出来ると思われます。
しかし上で見るように「不改常典」は必ず「近江大津宮御宇天皇」つまり「天智」に結びつけられて言及されています。この事から「天智」と「十七条憲法」の間には何らかの関係があったことが窺われます。それについて次稿で考察したいと思います。
結語
「不改常典」は「食国法」であり、「国家」統治に関する「公」の立場にいる人間に対する「道徳律」を指すものと考えられることから、「皇位継承法」の類ではないこと。
これはその内容から「十七条憲法」を意味する用語と考えられる事。
以上「仮説」を述べました。
次稿で「天智」と「十七条憲法」について考察したいと思います。
(注)について
一.「皇位継承法説」「近江令説」「皇太子制を定義したものとする説」「大化改新時の諸法とする説」「藤原氏による輔政を定めた法という説」等々各種の議論があります。
二.熊谷公男『即位宣命の論理と「不改常典」法』東北学院大学論集 歴史と文化 (四十五)二〇一〇年 など
三.大山誠一『「聖徳太子」研究の再検討(上)』及び『「聖徳太子」の再検討(下)』弘前大学國史研究 一九九六年(弘前大学学術リポジトリ)
四.この「冠位制」の制定と「憲法」の発布の年次については「隋書倭国伝」との関連で、もっと遡上する可能性がありますが、詳細は別稿とします。
五.古田武彦「古代史をゆるがす−真実への7つの鍵−」原書房 一九九三年