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都督府と改新の詔


「都督府」の存在についての整合的理解のための仮説(未採用論文。投稿日付は「二〇一二年三月十四日。)

 以下は「都督」および「都督府」というものが「難波朝廷」から施行された「評制」と関連していると共に「改新の詔」とも関連しているとする「仮説」を述べるものです。

一.「筑紫都督府」記事と「改新の詔」との関連

『書紀』の「天智紀」(六六七年)に「筑紫都督府」記事が出てきます。

「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」

 従来ここに書かれた「都督府」については「岩波」の「体系」の「頭注」などでは「修飾」とされており、「無視」されているのはご存じと思います。これは「大宰府」と同じものを指すというのが定説であるようです。しかし「大宰」と「都督」は「中国」の例では「職位」も「職掌」も異なるものであり、基本的に別人が任命されていたものです。そのようなものを安易に「同一視」する事はできません。
 他方多元史観論者には「南朝」から授与された「称号」の中の「都督」と同じものという捉え方もあるようです。
 しかし、いずれの論もこの「六六七年」という時期に「都督府」が現れる意味を「正確に」位置づけられていないと考えられます。

 他方『書紀』で「改新の詔」が「六四五年」という年次に置かれている理由というものもまた各種考えられているようです。
「改新の詔」についてはそれがその年次に「本当に出されたものの、実施は大幅に遅れた」という論者、「全て八世紀初期編纂者の潤色」であるという論者などおりますが、「実際に出されたものではあるが、その年次はもっと後代であった」という考え方がもっとも合理的であるように思われます。
 しかし、そう考えた場合『書紀』はなぜ「六四五年」という年次に「改新の詔」を設定しているのかを合理的に説明する必要があると思われます。

 この「都督府」と「改新の詔」という一見別々のものは実は「一体のもの」だったのではないかと推察します。それをつなぐものは「評」です。

 「評制」が「難波朝廷」から施行された、というのはもはや定説であり、どの論者も疑いを入れていません。それが「六四九年」のことであったというのもまた「異論」がないようです。この段階で「評制」が施行されたというわけですが、それはまた「評督」が制定・任命された事も意味します。この「評督」という職掌については、その「評」と「督」という用語の使用法から考えて「軍事」的な意味があるものという考えもかなりあるようです。
 本来、「評」は「新羅」や「高句麗」など朝鮮半島諸国にその先行例があるものであり、またそれらはいずれも軍事的要素の強い制度でした。この「評」の淵源は「漢」の時代の「軍事」的制度であったものと考えられますが、倭国中枢部としてはこの時「富国強兵」策を取ろうとしていたと考えられ、この「軍事」面強化という部分に着目し、「評」という制度を「東国」に適用し、大規模に「徴兵」を開始したものと推量されます。つまり、ここで「難波朝廷」が取り入れた「評」という制度は軍事的組織と言っていいものと思われます。
 そして、「古田武彦氏」などの研究により「評督」の上に立つべく存在しているのが「都督」であると考えられているわけです。(注一)そうであるなら「評制」が施行された段階で「都督」(及び「都督府」が)「同時に」設置されたと考えるべきなのではないでしょうか。

 この時「難波副都」を作った意味については「正木裕氏」や「古賀達也氏」の研究により明らかなように「半島」を巡る国際情勢の緊迫化というものが大きな要因と考えられます。(注二)
 つまり、「副都制」というものは「唐」や「新羅」など外国との友好関係が破綻したり、「攻撃」を受けるなどの「最悪」の事態を想定したものであったと考えられるわけですが、そのような「副都構築」を行うための前提条件として、「難波」以東が「安定支配領域」になっている事が必要と考えられたものと思料され、そのため、東国に対する「支配」と「統制」を強化する必要が発生し、それまでの(「利歌彌多仏利」が制定した)「国−県−里(八十戸)」という中の最小単位である「里」を「八十戸」から「五十戸」を一単位とするものに変更し、その上位組織である「県」についても「境界線」の変更を行ない、「評」として再構成したものを「諸国」に施行したものと考えられます。
 このように支配・統制の網を小さくしたことで、よりきめ細かく「国家」の意思が伝達されるようになる他「軍事」に備え「兵士」の資格対象者の把握などが可能になるなどを考慮したものと推定されます。(この事は「戸籍」の改定も含んでいることを示唆するものでもあります)
 このように「評制」施行という事業の背景としては「新羅」を巡り、其の「包囲網」を築こうとする「高句麗」「百済」両国に対して、「唐」と結んでそれに対抗しようとする「新羅」の間の抗争・葛藤が緊張の度合いを上げていたことがあると考えられるものであり、そう考えると「単に」「副都」を「難波」に造っただけでは、「防衛戦略」として足りないことが分かります。
 ここで「改新の詔」をよく見てみます。すると「其二曰」として以下が書かれています。

「初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。(以下略)」

 この「詔」で設置が謳われている、「關塞」とは「関所」の意であり、この「詔」が初見です。また、「斥候」はその「關塞」の外部で「畿内」侵入を意図する軍事的勢力を早期に検知し、抑制すると共に、本隊に伝達するのがその任務です。これと同時に「防人」を配置していますが、彼らは共同して「關塞」の外部に「拠点」を設け、共に「畿内」侵入を企図する勢力に対して防衛を行う事がその任務と考えられ、この「詔」(「其二曰」)で示された事柄は「畿内」防衛のための必要な軍事的配置、いわば「首都防衛体制」とでも言うべき構成について述べたものと考えられるものです。
 通常「防人」は「筑紫」防衛のために東国より集められた人々を指すと考えられていますが、本来は「畿内」防衛のために配置されていると考えられるものです。
 つまり、ここに書かれたような事が実際に「首都」である「筑紫」に対して行われたものと推定され、ここに「改新の詔」が置かれている理由の一つは、「実際に」この年次付近で「詔」が出されたからではないかと考えるものです。(注三)
 このような「評制」施行という重大な国政の方針変更に関わる制度改正を行うのに、「詔」が出されなかったとしたら「不審」であり、あり得ないと言っても差し支えないと思われます。そうであれば、この年次付近(六四九年よりは前と考えられます)に「改新の詔」の「原詔」とでも言うべきものが出されたと考えるべきであり、その中に「畿内」や「防人」「関塞」などに関することも含まれていたものと考えられますが、それと共に「都督」に関する事もその「詔」の中にあったと考えるべきものと思われます。ただし、その場合は「筑紫」が「首都」という中で出されたものと考えられ、「畿内」の範囲についても「太宰府」を中心とした表現であったと推測されるものです。

 「都督」というものが中国におけるその起源や名称から考えてもその「国」や「州」の軍事的責任者を言うものであり、「首都防衛体制」の「一環」として「都督」が制定されたと考えるべきものと思われますが、それは首都が「筑紫」という最前線とでも言うべき場所にあったからこそ、この時期「副都」を別に(より内陸に)制定・構築する必要があったものであり、「筑紫」に「都督」を置くことになった理由についても全く同様であったものと思料されます。
 そのような「最前線」とも言うべき場所にある「首都」「筑紫」に対する「防衛線」の構築という重要な事業が「詔」を伴って為され、その中で「都督」が任命され、「都督府」が設置されたと考えるのは大変「自然」でありかつ「妥当」なものであると考えられるものです。
 つまりこの「都督」はこの時点で「評督」などと同時に制定された職掌と考えられ、それは「評督」(評制)の頂点に立つものであったと考えられるものです。

 元々「倭の五王」のころ、「南朝」が健在であったときには「南朝」からの授号の中にもあるように、「倭王」は兼都督(大将軍)であったのですし「密かに開府」(倭王「武」の上表文による表現)しているのですから、倭国内に「都督府」があったことは自明ですが、「隋」が成立し「南朝」が滅ぼされた後は「倭国王」自らを「天子」の位置に置いたわけですから、その時点で「都督」ではなくなったと考えられます。
 ここに書かれた「熊津都督府」についても「百済国王」が「南朝」から貰った称号である「都督(府)」ではなく「唐」が設置したものです。そもそも「隋」成立時に「百済」など半島各国は「隋」により「柵封」されており、与えられた称号の中には「都督」がありません。たとえば「百済」の場合は「上開府帯方郡公百済王」(「隋書百済伝」による)という称号を「隋」皇帝から授与されています。この事からも「百済国王」が自ら「都督」を名乗ることはないと考えられるものです。
 この「熊津都督府」は「唐軍」の根城となっていたところであり、唐側の史書(『旧唐書』など)にも「唐」による「都督府」設置が書かれており、明らかに「唐」が設置したものと見られるものです。つまり、ここで出てくる「筑紫都督府」は「南朝」から授けられた称号としての「都督」ではないし、また「唐」が設置した「熊津都督府」と同じ性格のものでもないと考えられるものです。
 あくまでも「倭国王」の元の「都督」であり「都督府」であるという事であって、任命者は「倭国王」であり、任命された人物は配下の中で「軍事」に長けた有力な氏族の誰かであったと考えられるものです。 

 この「改新の詔」に出てくる「畿内」とは、本来中国の例では「王城(帝都)から五百里以内の地」を指し、この範囲を「天子の直轄地」としていたものです。そして、この「改新の詔」の「里」は「短里」であると考えるのが筋道です。なぜなら、倭国では「周代」以来「短里」を「距離表示」に使用してきたと考えられるからです。
 「古田氏」を初め諸氏の研究により「三国志魏志倭人伝」の中では(というより三国志全体にわたり)「短里」が使用されているのが確認されていますが、また「風土記」など国内に使用例があることも確認されています。(注四)
 この「短里」では「一里」=約七十五メートルであると考えられ、これで計算すると「五百里」とは「約三十八キロメートル」となります。これを九州に当てはめ、「太宰府」を中心に考えて「円」を描くと、ほぼ現在の「福岡県」の範囲が入り、これに「佐賀県」「大分県」の一部も入るぐらいの広さになります。
 この領域を「畿内」と制定し、この領域とその外郭領域に対して「關塞。斥候。防人」などを配置して防衛線を構築したものと考えられるものです。

 「太宰府」周辺の「防御施設」と考えられる「大野城」などの遺跡の年代測定を行うと『書紀』に言うような「白村江の戦い」の「後」ではなく、その「前」に「修造」が行われていることが確実になっています。また「水城」についても同様に「最終的」な「修造」は「白村江の戦い」の前に行われていると考えられているようです。(注五)
 さらに「神護石(神籠石)」についてもそこから出土する土器などの遺物の解析から「七世紀中葉」と考えられるものが出ており、この「遺跡」もまた「首都防衛」の一環であったと考えられるものです。
 「神護石」(神籠石)遺跡は「北部九州」「山口県」などかなり広範囲に渡って築かれており、全国で「十箇所」ほど確認されているものです。山の山頂から中腹付近にかなり大規模な「土塁」と「石積み」の遺構があるものですが、いつ頃の年代のものか、誰か設置したのかなどで議論になっており、未だ結論が出ていないようです。
 現代の考古学では「神籠石」という名称は使用せず、単に「古代山城」としているようですが、その評価としては「唐」の軍隊に対する防衛の為のものとされ、また、官人や民衆の「緊急避難」のためのものという考えでもあるようです。
 確かに、この「神護石遺構」の分布は明らかに「筑紫」が中心域となっており、「外敵」からの侵入に対し「筑紫」を防衛する体制を構築しているように見えます。
もっとも、この「神護石」による防衛ラインはその「分布」等から見て、「全方位」防衛の為のものと考えられ、特に「博多湾から」というような一方向だけを防衛しているようには見えません。これは「本来は」別の時代の別の事情による防衛のためのものであったと考えられるものですが、ここではそれを「利用」して「畿内」防衛の一助としていると考えられます。(注六)
また「正木氏」による、いわゆる「三十四年遡上」研究により(注七)、多量の「天武紀」「持統紀」の記事が三十四年前から移動させられたものであることが判明していますが、それと関連していると考えられるのが「天武紀」に「武器」を「筑紫」に輸送した記事です。

「(天武)十四年(六八五年)十一月癸卯朔甲辰。儲用鐵一萬斤送於周芳總令所。是日。筑紫大宰請儲用物。?一百匹。絲一百斤。布三百端。庸布四百常。鐵一萬斤。箭竹二千連送下於筑紫。」

 この記事は「三十四年遡上」して「六五一年」記事であると推察されるものであり、ここでこのような「武器」を多量に「筑紫」(及び「周芳」)に輸送しているのは「筑紫都督府」設置という事象を背景に考えるべきものと推察されます。
 更にこの記事に続く以下の記事も、同様に「都督」の指示による「軍事防衛」の為の方策の一つであると考えられるものです。

「(同年同月)丙午,詔四方國曰 大角 小角 鼓 吹 幡旗及弩 ?之類 不應存私家。咸收于郡家。」

 これらは「武器」の個人収蔵を禁止すると共に「国家」の防衛のためにそれらを使用するということを示したものであり、このように「白村江の戦い」の前に、多くの「筑紫防衛」のための施設が整備され、施策が実施されていることとなるわけで、これは「難波副都」建設と時期も意味も同じである事を示すと考えられるものです。
 また、その後段で出てくる以下の記事も同様に「筑紫都督」及び「改新の詔」との関連で考えるべきものであるものと思われます。

「(同年)十二月壬申朔乙亥。遣筑紫防人等飄蕩海中。皆失衣裳。則爲防人衣服。以布四百五十八端給下於筑紫。」

 ここで出てくる「防人」が「改新の詔」に出てくる「辺境防備」の為の要員である「防人」と直接つながっていて、それが「都督」の下に存在していたと考えられるのは当然とも言え、これらの「移動された記事」の復元からも「都督」と「改新の詔」には深い関係があるものと推察されるものです。

 そして「孝徳紀」には以下のように「新羅」との関係が「緊張」の度を増したことが書かれています。

「白雉二年(六五一年)是? 新羅貢調使知万沙餐等 著唐國服泊于筑紫 朝廷惡恣移俗 訶嘖追還。于時 巨勢大臣奏請之曰 今方不伐新羅 於後必當有悔。其伐之? 不須舉力。自難波津至于筑紫海裏 相接浮盈艫舳 召新羅問其罪者 可易得焉。」

 このように「対新羅」の路線が「強硬」に転じたことは「筑紫」防衛に自信を持ったこともその理由の一つとしてあると考えられ、「防衛体制」の強化がほぼ終了したという事もあったのではないでしょうか。当然その中には「筑紫都督府」の組織整備が完了したと言う事を含んでいるものと推察するものです。


二.「都督」の変遷と「倭国王権」

 ところで「隋」に対して「天子」を称した「阿毎多利思北孤」とその後継と考えられる「利歌彌多仏利」の時点では「都督」は任命されなかったと考えられます。

それは「都督」という存在が「軍事的情勢」と関係があると思われるからです。
 つまり、「都督」任命などの「軍事」を主たる目的とした人事や制度改革というものは、それなりの外部からの「軍事的圧力」がなければ積極的に行う理由がなかったものではないかと考えられるものです。
 「七世紀」の前半という段階ではそのような軍事的制度・職掌の存在価値が少なかったものと考えられ、この時期は「隋」が「唐」に取って代わられ、「唐」は国内の旧勢力の押さえ込みを図っていた時期でもあり、その国内はまだ不安定と言える状態でした。この段階では「唐」として半島などに積極的に進出・介入できるような状態ではなかったと考えられます。また「半島諸国」についても「新羅」を巡る軍事的衝突が多少見られるものの、「倭国」にとって早急に「首都」防衛戦略を構築する必要性というものはなかったものと考えられ、「都督」任命という動きにはなっていなかったと思料されるものです。
 確かに『書紀』によれば七世紀の初めという段階で「新羅遠征軍」というものを派遣しようとしていますが、これはトラブル続出で結局派遣見送りとなっています。しかし、それに伴って「新羅」との関係が極端に悪化して侵攻などの危険性が高くなり「筑紫」防衛の必要性が高まったというようには感じられず、この時点で「都督」を任命し「筑紫」に対する防衛体制を構築する、という必然性はなかったものと推察されるものです。(注八)
 当時の倭国王としては、この時点では「国内統一」という事業が優先したものであり、そのため「国県制」施行やそれに伴う「太宰」「惣領」「国宰」などの行政制度改革と担当者任命などを行い、国内に対する「統治強化」を図っていた時期であると考えられるものです。
 その後「七世紀中葉」になると、情勢が変化し、そのことが「都督」という制度の「復活」につながったという可能性があるものと思料します。

 「七世紀中葉」になると「新羅」を巡る情勢が混沌とし始め、軍事的衝突が繰り返されるようになり、「唐」がそれに絡んでくる動きが見えてきて、緊迫の度合いを増してくるようになります。そのような時期であれば「都督」任命の時期として「似つかわしい」と思われ、この「軍事的圧力」は「難波」に副都を設置する、という動機にもなっていると思われるものであり、その意味では「畿内」の制定、「外部防衛線」の策定などと同様、「都督」というものも同じ動機の元で作られた制度と考えられるところです。
 もちろん「都督」という人員を任命しただけでは、首都防衛は不可能ですから、「都督府」という「軍事」に特化した「組織」を作り、「都督」の指示・命令が末端まで浸透するような分担が構築されたものと考えられますが、それに関連していると考えられるのが『大宝令』に規定された「筑紫大宰府」の組織です。
 そもそも『大宝令』という「八世紀」に入ってから定められた「ルール」の中で「筑紫大宰府」の組織を他の地方の出先機関とは全く違う大がかりなものにする必然性に欠ける、というのはすでに各位により指摘されているところです。(注九)明らかに『大宝令』(と言うより『養老令』)で定められた「大宰府」の組織は、それまでの「筑紫」に関わる全ての組織を集成した形になっているものと考えられます。 
 たとえば、この「大宰府」の組織を見ると「防人佑」「防人令史」「主船司」「医師」「小工」「陰陽師」というような「職位」の人員がいたこととなっていますが、これらは本来「都督府」に配属されていた人員であったのではないでしょうか。
 「都督」自身については「太宰」よりは下位の人員が充てられていたものと考えられ、(中国の例でもそうなっています)「大宰大弐」クラスの人員がその対象とされる人員であったと考えられます。またその補佐として「大宰少弐」クラスの官人が存在したと思われ、以下数名の幹部からなるような組織構成が想定されます。(この組織は後の「兵部省」の原型となったと考えられます)
 さらに「改新の詔」にあるような「斥候」「関塞」や「天智紀」に出てくる「烽」(のろし)などについても「都督」がその統括的責任者として存在していたと考えられるところです。
 また、この「筑紫大宰府」の組織として、「大宰大弐」以下の職掌に複数の員数が確保されていることが目に付きます。
 つまり、「太宰大弐」「大宰少弐」「大監」「小監」「大典」「少典」(及び小工と医師)は各々二名ずつ居るのです。このような人員配置は中央八省にも見られません。
 これについては上記「都督府」用の人員と共に「難波副都」用の人員確保に関連したものであったのではないかと推測されるものです。
 「難波」は「副都」でしたから、「難波宮殿」は言ってみれば「副宮殿」であって「仮宮」ではないわけです。「仮宮」であればそこに留まる期間がある程度長い場合だけ必要な官僚がそこに詰め、本宮殿に「倭国王」が戻った場合は彼らも一緒に戻るという様な勤務状態となると考えられますが、「副宮殿」であった場合は「常時」そこに必要な人員が配置されなければなりません。「唐」の場合などでも「長安」に対し「東都」「洛陽」には常時必要な官僚と政治システムがあり、皇帝の統治に支障が出るようなことがないように配慮されていました。(注十)
 「倭国」の場合も同様に「難波」には必要な人員を常時配置していたものと考えられますが、「筑紫大宰府」の組織で複数確保されている人員はその「難波副都」要員ではなかったかと推測するものです。
 つまり「大弐」「少弐」「大監」「小監」「大典」「少典」は「難波宮殿」にも居たと考えられ、これは「摂津職」以下の官僚に相当するものであったと考えられます。「摂津職」は「大夫」つまり「従五位下」以上であること、というように規定されていましたから「少弐」以上がその有資格者であったものです。
(「大判事」「少判事」「大令史」は居なかったという事になりますが、それは彼らの職掌である「訴訟」「裁判」に関する業務が「難波朝廷」では行っていなかったと言うことを意味していると考えられ、そのようなある意味「重要」な機能は「筑紫」に行かなければ「なかった」ものと思料されます)
 
 ところで、以上のように考えた場合「太宰」と「太宰府」、「都督」と「都督府」との関係が問題になるかもしれません。
 「評」が表わす領域については「評制」の前後で何かしら「変化」があったものと考えられますが(境界線の変更などや編出入など)、その「上部組織」である「広域行政領域」としての「国」については、「評制」施行でも「大きな変化」はなかったものと考えられるものであり、そう考えると「国」の責任者とでも言うべき存在であったと考えられる「国宰」は「存続」していたものと思料されます。(注十一)
 もし「国宰」が存続していたとするなら、その頂点にいる「太宰」と「太宰府」も継続して存在していたものと考えられるものであり、このことから考えて、「九州」(筑紫)には「太宰府」と「都督府」が同時に存在していたものと思料されます。
 この二役を別人がそれぞれ担当していたと言うことも当然あり得るでしょうけれど、一人が兼務していたという可能性も充分あります。たとえば『書紀』によれば「天武朝」で「栗隈王」が「大宰帥」と「兵政官長」を兼務している例が出てきます。

(天武)四年(六七五年)三月乙巳朔庚申。諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。

「六七四年二月」に「唐」の「高宗」は「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、「唐」と「新羅」は戦闘状態に入ったと見られますが、翌「六七五年」に「新羅」の王子「忠元」が来倭しています。このタイミングでの「来倭」というもの考えると、これは「援軍」要請ではなかったかと考えられ、少なくとも「唐」側につかないよう「強い要請」を行ったものと思料されます。
それを示すように「王子」がまだ「筑紫」滞在中と思われる翌月(三月)には筑紫太宰「栗隈王」を「兵政官長」にし、「大伴連御行」をその次官である「大輔」に任命しています。そして、ここに書かれた「兵政官長」は実際には「都督」ではなかったかと考えられるものです。
 この時代はまだ「評制」の時代であるわけですから、「都督」も存続していたと考えられます。この「兵政官長」というのは「体系」の「頭注」でも「兵政官は後の兵部省(軍事部門)に相当する官司)」とありますから、「兵政官長」というのはその「長」というわけですので、まさに「都督」とその職務内容が一致するものであり、ここでは「太宰」と「都督」が兼任されているものと推察されます。(この「兵政官長」という表記は「都督」という名称を書かずに済まそうとした、「八世紀」「書紀編纂者」の「偽装」であると考えられるものです)

 「栗隈王」は「壬申の乱」の時点で「太宰帥」であったわけであり、それ以降もその地位が継続していたと考えられます。その彼が「兵政官長」(都督)を「兼任」することとなったわけですが、それまで「都督」は不在であったと考えられます。それはこの時期の「倭国」には「軍事的緊張」がなかった(なくなっていた)事を示しているのと思われます。
 この時期は「唐」との間の「軍事的関係」が(「壬申の乱」以降)すでに「清算」されているわけであり、「新羅」との関係も順調であって、このような背景があったため「首都」である「筑紫」を防衛するための軍事力であるとか、その責任者である「都督」について、改めて任命・配置する必要性を感じていなかったものと考えられます。しかし、「新羅」と「唐」の間の緊張が高まってきたことで、それが「倭国」にも関係してくる可能性を考え、改めて「都督」を決めることとなったものと推察され、それが「兵政官長」という名称で『書紀』に登場することとなったと考えるものです。

 また、天智三年(六六四年)に当時「熊津都督府」にいたと思われる「劉仁願」により「郭務?」が派遣された記事があります。
この時の倭国の対応は「唐」皇帝からの「正式な」使者ではないとし、「表」(書状)も皇帝のからのものではない(「国書」ではない)と言う認識を示し、「上奏」(「倭国王」へその書状を伝達すること)することを「拒否」しています。
 これについては「善隣国宝記」に引用する「海外国記」に、関連する事情が書かれており、その中に「鎮西将軍」「日本鎮西筑紫大将軍」という官職名が見えています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務?等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。(中略)
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著「鎮西将軍」。「日本鎮西筑紫大将軍」牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務?等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 ここで言う「鎮西筑紫大将軍」は、その語義から言っても明らかに「筑紫都督」を指すものと考えられます。(「都督」は「大将軍」でもあるわけです)またその直前には「筑紫大宰」という名称も現れますが、まず「大宰」が「将軍牒書一函」の内容を確認しているようです。そして、それが「劉仁願」の私信でありまた「私」の使者であるという判断をしたわけですが、それを口頭で伝えたのが「九月」のことであり、その段階「以降」については「軍事部門」が担当する、という事になったのではないでしょうか。つまり、ここでも「太宰」と「都督」とが同時に存在している事を示すものと考えられます。
 この「将軍牒書一函」についてはその後、「突っぱねる」事となるわけですから、それに対し彼等(「郭務?」や「百済禰軍」)が不穏な行動を起こすという可能性もあるわけであり、それらを返却する際には「将軍名」(都督名)でこれを行っていると考えられ、最終的な時点では対外交渉は「軍事部門」に任せたという事と考えられます。
 「都督府記事」はこの三年後のことであり、ここで言う「鎮西筑紫大将軍」というものと強い関連があるものと考えられます。

 更に「改新の詔」の中にも「都督」に相当する職掌が書かれていると考えられます。それは「畿内国司」とあるのがそれであると考えられます。

(再掲)「(改新の詔)其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。」

 この「其二曰」で示された事柄は上で見たように「畿内」防衛のための必要な軍事的配置、いわば「首都防衛体制」とでも言うべき構成について述べたものと考えられるものです。
 このような重要な「詔」は実は「二回」出されたと考えると実態を整合的に考える事が可能となるものなのではないでしょうか。つまり、「難波朝」でまず出され(これは「評制施行」他を含むもの)、その後「持統朝」でまた別に出されたものと推測されるものです。その「持統朝」に出された「二回目」の「詔」を「一回目」の「難波朝」の部分に書いてあると考えられるものであり、そうすることで「一回目」も「二回目」も共に「消去」している事となるものと考えられます。(詳細は別稿で述べたいと思います)
 つまり、「六四五年」の部分に書かれてある「改新の詔」は本来「持統紀」に出されたものであったと考えられるものです。(「庚寅年」とされる制度改革等が資料に複数見えています)
 もちろん、「孝徳紀」の「改新の詔」の「原詔」と「持統紀」の「改新の詔」と内容が同じであるはずはなく、かなり異なっていたものと思料します。それはたとえば「畿内の範囲」などが典型的な違いですが、そのような異なるものの中に「都督」と「評制」があったと考えられ、「持統紀」には「評制」が「郡制」に移行し、「都督」は廃止されたと考えられ、それが「持統紀」の「改新の詔」の中に明記されてあったものと思料します。
 しかし、「詔」で見るように「關塞。斥候。防人。」などの「軍事」に関する部分は「詔」の通り存在したものと推量され、「京師」や「畿内」を設定した以上、その「京師」や「畿内」の防衛上の「軍事的責任者」を配置していないわけはないと考えられます。そして、それは「畿内国司」がそうであると思われるのです。
 「畿内国司」という部分は従来から理解が複数あり、「畿内」と「国司」に分ける考え方や「畿内国」の「司」と読む場合(「体系」の「頭注」など)などが見られますが、「畿内国司」という一つの役職としてみる見方もあるわけです。しかし、その場合は他の「国司」との違いが問題になり、従来からその点については明確ではありませんでしたが、この場合は「畿内」の軍事面の総責任者であるという点が最大の違いなのではないでしょうか。
 つまり、この役職は「都督」に代わるものであると考えられます。

 この「都督」と「太宰」という二系統組織が置かれた時点で「優先的」なものは「都督」であったと思われます。それは「軍事」というものがいつの時代も全てに優先するという事情もありますが、また「中国」の例でも「都督」の権力は他に優越しており、「刺史」などの上に存在しているものという歴史的事情もあります。
 「天武紀」の記事中に「伊勢王」が「天下を巡行」した、という記事があります。

「天武十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」

 この記事は「三十四年遡上」して、「六四九年」のこととなるものと考えられます。しかも、ここで使用されている「巡行天下」というのは「天子」に関わる用語であり、「臣下」ができることではないと思われます。それは「天下」という単語が「天子」の統治する領域の事だからです。普通の人が諸国を回っても「巡行天下」とは言えないわけです。この用語は、ここで出てくる複数の人名の「先頭の人物」に関わっているものと考えられ、「伊勢王」が「天子」であることの反映と考えられます。
 「伊勢王」が「利歌彌多仏利」から「倭国王」を引き継いだ人物という考えは「正木氏」の研究などでも明らかですが(注十二)、「伊勢王」は「難波」を「副都」に選定し「豪壮」な「難波宮殿」を造り、「難波」に強力な足がかりを設けたと考えられるものです。
 「評制」を施行するにあたりこのように「倭国王」(「伊勢王」)が自ら「東国巡行」し、「難波」の地を見定め、境界線を引き直させるなど、「陣頭指揮」とでも言うべき行動を取っていることからも「都督−評督」と言う系統の方がこの時点では優越していたと考えられるものです。
 
 彼はすでに存在していた「太宰−国宰−県主」というラインだけでは、国家防衛体制を構築することはできないと考え、「都督−評督」ラインを新たに設けたものと考えられます。つまり「評督」は本来「国宰」の下部組織ではなく「都督」に直結する組織であったと考えられるものです。
 「軍事組織」である「都督−評督」と「行政組織」である「太宰−国宰−県主」とは全く性格の異なるものであり、本来は互いに干渉することは少なかったものと考えられるものです。
 そしてこの「難波朝廷」という時代は「伊勢王」と「弟王」の時代と考えられ、彼らの間で「分担」があったのではないかと推察されます。つまり、「都督−評督」系システムの頂点には「伊勢王」が君臨し、「太宰−国宰−県主」系の頂点には「伊勢王」の「弟王」がいたのではないかと推測されるものです。つまり「軍」と「民」という双方を兄弟が分担していた「兄弟統治」を行っていたと考えるわけです。

 『書紀』には「大宰」はかなり出てきますが、「都督」は上記の「都督府」という形でしか出てきませんしそれもただ一度だけです。「都督」は「筑紫」においても「畿内防衛」の「責任者」であったと考えられるわけであり、そう考えると「倭国九州王朝」に「直接つながる」立場の人間がその座にいたものと推量され、そのことにより「八世紀」の『書紀』編纂者達により「伊勢王」を始めとする「都督」関係記事については、「詳細」な描写や記事は「御法度」となったものではないでしょうか。つまり、『書紀』は「都督」や「都督府」については「極力」隠蔽したかったものと思料されるものです。
 逆に言うと「大宰」と「大宰府」については「隠蔽」の程度が薄いと考えられ、そのことは、この「弟王」以降については「近畿王権」の関係者が任命されていた事を示すものではないかと推量するものです。



結語
一.ここでは、「天智紀」に出てくる「都督」及び「都督府」については、「評制施行」などと共に「難波朝廷」から「改新の詔」の「原詔」とでも言うべきものが出され、その中で「評制」の施行と同時に制定・任命されたものである、という仮説を述べました。

二.「都督」は外的軍事圧力と共にその設置・任命が推移したと考えられ、「八世紀」「大宰府」の組織の一部は元々「都督府」であったものと推量されること。「太宰」と「都督」は並立した存在であったこと。

 以上、「都督」と「都督府」に関することについて、「仮説」を述べました。  
 更に資料を収集し、論拠を補強して「仮説」を「真説」に変えるべく研究を進めたいと思います。
 
(注)について
 
(一)古田武彦氏「大化の改新と九州王朝」市民の古代・古田武彦とともに 第六集 「市民の古代」編集委員会 一九八四年参照のこと。ただし、古田氏はこの中では「都督」は「南朝」から授号した中にあったものと直接関連しているものと理解されておられるようです。
  
(二)正木裕氏「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」 古田史学会報八十二号、「『藤原宮』と大化の改新について I 、U、V」古田史学会報八十七号、八十八号、八十九号、及び古賀達也氏「『古賀達也の洛中洛外日記』より転載『大化二年新詔の考察』」「古田史学会報八十九号などの諸論

(三)「評制」は本文に示した理由により「東国」を含めた「畿外」の「諸国」に施行したものであり、「筑紫」を中心とした「畿内」には施行されていなかったと考えられます。それは、この地域が「帝都」であり、「都督」が軍事力を掌握しているため「評督」の存在する必要がない或いはその余地がない、という事がその理由であったと思われます。そうであればそこには「評制」という制度そのものがなかったこととなります。では以前と何も変化はなかったのかというとそうではなく「筑紫」の「畿内」には「郡制」が復活していたと考えられます。つまり「利歌彌多仏利」以前の「国−郡−県」制が再度制定されたものと考えられます。それは「畿内」を制定したことと関係があると考えられます。「畿内」の下には「郡」があるという「中国」の古典に依拠した結果「郡」を再度復活させたものではないかと思慮されます。

(四)古田武彦氏「九州王朝の短里」「よみがえる卑弥呼」所収 駸々堂を参照してください。

(五)内倉武久氏「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房を参照してください。

(六)この「神護石」に関しては「大野城」などと同時期のものもあれば、より早期に構築されたものもかなりあると考えられています。それは「大野城」などと「同様」「朝鮮式山城」であろうと推察されてはいるものの、明らかにそれに「先行する」様式であり、築造の時期として実際にはもっと早い時期を想定すべきものと思慮され、この「七世紀中葉」という時期は、それらを「修造」して「再利用」しようとしていた次期であったと見るのが妥当なのではないでしょうか。(実際に「三世紀」程度まで遡ると考えられる遺跡もあり「卑弥呼」の頃に構築されたと考えるべきものも含まれているようです)

(七)「正木裕氏」の「三十四年遡上研究」は非常に「画期的」な研究であり、今後全ての古代史研究において踏まえるべき成果と考えられます。詳細は「日本書紀、白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号、「朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)」古田史学会報七十八号、「日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)」古田史学会報七十九号等をご参照願います。

(八)これら「新羅遠征」記事については「古賀達也氏」「倭国に仏教を伝えたのは誰か〜「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集 明石書店」により、明らかにされた「百済僧観勒」の上表と同じく「一二〇年遡上」すべきものではないかと推察されます。この「新羅遠征軍」の目的は「新羅」から侵攻されている「任那」を救うこととされているようですが、その「任那」は「欽明紀」の段階で「新羅」にすでに「滅ぼされて」しまっており、この「敏達紀」から「推古紀」という時点ではすでに存在しないものです。これら「任那関連記事」は明らかに「欽明紀」の記事と「矛盾」しており、また「齟齬」しています。これらの記事はその多くがずっと以前の記事を移動して書いてあるものと推察するものです。

(九)田村圓澄「東アジア世界との接点−筑紫」及び倉住靖彦「大宰府の成立」以上田村圓澄編「古代を考える 大宰府」所収 吉川弘文館等の諸論によります。

(十)簫錦華氏「唐代前期の洛州−軍事的要衝から政治的中心へ」京都大学学術情報リポジトリ二〇〇一−〇三−二十三によります。これによれば「東都洛陽」には「畿内制」が布かれていたとされ、その「洛州」の官僚人事についても要職と認識された模様であり、その後の「武則天」時代には「科挙」出身者が洛州次官に任命され、この職を経た後昇進するなどが慣例化していったとされ「重要視」されていたことが窺えます。

(十一)私見では「国宰」は「七世紀初頭」の行政制度改革の際に作られた「広域行政制度」としての「国」の責任者的立場として新設された職掌であり、それまでの「国造」の「上位」に位置するものであったと考えています。

(十二)正木裕「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」古田史学会報八十六号等ご参照願います。


他参考資料
上記「注」の他以下を参考としました。(敬称略)

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系新装版『日本書紀』(文庫版)」 岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀」(全現代語訳)講談社学術文庫
石原道博編・訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)」 岩波文庫
井上秀雄他訳注「東アジア民族史一 正史東夷伝」(東洋文庫)平凡社
金富軾著 井上秀雄訳注「三国史記」(東洋文庫)平凡社
古田武彦「大化の改新と九州王朝」市民の古代・古田武彦とともに 第六集 「市民の古代」編集委員会 一九八四年
正木裕「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」 古田史学会報八十二号
正木裕「藤原宮」と大化の改新について I 、U、V」古田史学会報八十七号、八十八号、八十九号
正木裕「常色の宗教改革」 古田史学会報八十五号
古賀達也「大化二年新詔の考察」 古田史学会報八十九号
古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代試論・九州王朝史の復原」「新・古代学」 古田武彦とともに 第五集 新泉社 二〇〇一年