ホーム:投稿論文:採用分:

「妙心寺鐘」と「筑紫尼寺」について


(以下は『古田史学会報』(一二八号二〇一五年六月十日)に採用・掲載されたもの。)

「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について

 ここでは「妙心寺」の鐘の「来歴」と、それが当初「筑紫尼寺」に設置されていたという可能性について述べるものです。

T.「妙心寺」の鐘の来歴について
 「妙心寺」の鐘がその「妙心寺」に入った経緯については既に古田氏も触れられているように(註一)「買われた」ものであり、偶然であったことが知られています。それ以前のこの鐘の由来については、「九世紀半ば」に「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」により「檀林寺」という禅院が創建された際に(どこからか不明ではあるものの)持ち込まれたものでありその後その「檀林寺」が「廃寺」となって以降その跡地に建てられた「浄金剛院」に設置されることとなったという経緯が知られています。(註二)
 その「橘皇后」が鐘をどこからか持ち込んだ理由というのはその音高が「黄鐘」という古律にかなった音高を発するものであって、「無常」を表すものであったからではないかと考えられます。これについては「徒然草」の中でも「浄金剛院」の鐘は「黄鐘調」であると記されています。
 『徒然草』に「天王寺」の鐘について書かれた段があり、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられていますが、その末尾に「浄金剛院」の鐘についても同様であるというように書かれています。
「…其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。/凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」(『徒然草』第二百二十段)
 つまり『徒然草』によれば「浄金剛院」の鐘が奏でる音高は「黄鐘」であるというわけですが、それはまた「無常」を表すものであったものであるというわけです。これに対して、当時(「鎌倉時代」)の他の寺院の鐘は「平安時代」以降発生した「日本音律」を「基準」として鋳造されたものが多く、音高が変化した結果「無常」を表す「黄鐘」の音高は(当時の京都では)「浄金剛院」の鐘だけであった可能性があります。
 有名な『平家物語』の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったことを示すものです。これについては「黄鐘」という音高は「四季」を表すものであり、その意味で「移り変わり」を表すことから「無常」観につながっているとされます。(註三)上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」としています。
 この事から「浄金剛院」に入る以前「檀林寺」に設置されていた段階においても同様に「黄鐘調」の鐘として知られていたものと思われますが、「橘皇后」はその「無常」を表す音高を欲したゆえにその「鐘」をどこからか調達してきたものと思われます。
 彼女はその「無常」を体現するために死後埋葬されることを望まず、飢えた鳥獣に身を与えるという「風葬」あるいは「鳥葬」とでも言うべき扱いを遺詔したとされます。(実際に行われたようです。)そのような彼女であれば鐘の音(音高)にも「無常」が表現されるべきであったと考えても不思議はありません。それは「仏教寺院」における「梵鐘」の存在意義ともつながるものであり、仏教的には「無常」を表す音高を発することで「衆生」を済度するという目的があったものとみられます。そのため本来はそのような意図に適う鐘を新たに鋳造しようとしたものと思われますが、希望した音高が得られず、やむを得ず「どこか」から「黄鐘調」の音高を発する鐘を探し出してきたものと推測されるわけです。
 「徒然草」の記述でも「西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。」とあり、ここには「西園寺」(これは「西園寺公経」が「北山殿」に造った寺院を指す)の鐘を鋳造しようとしたものの「都」には「黄鐘調」で鋳造する技術がなくなっていたこと、それを「遠国」に求めたことが記されています。同様の事情がすでに「檀林寺」創建の際にも起きていたという可能性が考えられます。(註四)
 一般に「梵鐘」は重量も大きくなり、運搬の難を考えるとその寺院の「近隣」で鋳造するのが通常であったものであるのに対して、「西園寺」の場合のように狙い通りの音高が鋳造できないからといって「遠国」までそれを求めるというのは、「黄鐘調」の音高を発する「梵鐘」がいかに都の近隣にはなかったかと言うことを示すものです。またこの「遠国」というのが「律令制」に言う「遠国」と一致するとはもちろん限りませんが(この「兼好法師」の時代には「律令制」はとうの昔に崩壊していたわけですから)、使用法としてはおよそ変らないものと思われ、明らかに「西海道」はその中に含まれています。仮にそれが同義ではなかったとしても「都」を遠く離れた場所を指すことは間違いなく、「寺院」が多く存在していた過去があり、また「古音律」に則った鐘が使用されていたという条件を満たす地域を探すと「西海道」つまり「筑紫」が該当する可能性が最も高いと思料します。(『徒然草』の中では例えば「東国」に関する記事では「東国」と明確に書かれており、「西園寺」に関する「遠国」という表記は「東国」とは異なることが推察されます。)
 このようなことから「檀林寺」創建においても「遠国」つまり「筑紫」から鐘を調達したものではないかと考えられますが、それはその鐘、つまり「妙心寺鐘」の「銘文」(以下のもの)からこれが「糟屋評」という「筑紫」の中心とも言うべき場所で鋳造されたものと推定されていることからも言えることです。
「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」
 この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「舂米(つきしね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。(註五)ただしこの「舂米連広国」については「発願者」であり、「鋳造者」ではないという意見もあるようですが、「筑紫」には「弥生」以来「銅製品」を鋳造していた遺跡が豊富であり、この七世紀代においても銅鏡などの他、寺院で使用する銅製品などを製造する工房があったものと見られ、この「梵鐘」のような「銅製品」についてもそこで作製されたものと見ることは不自然ではありません。
 「筑紫」周辺の「旧倭国王権」時代の寺院は八世紀に入って「廃寺」とさせられたものが多かったとみられますから、元々この鐘が納められていた寺院にしても同様の運命となっていた可能性があり、そのような寺院から移されたものと見ることができるかもしれません。その寺院については、「檀林寺」が皇后の御願によって建てられたという事情から考えて、当然「梵鐘」についても「由緒正しい」ものでなければならなかったはずであり、「大宰府」近辺の「旧倭国王権」に近かった寺院が措定されるべきでしょう。

U.「檀林寺」と「筑紫尼寺」
 ところでこの「檀林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように「尼寺」であったと思われます。
「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五条」「…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」(『文徳実録』より)
 ここでは「檀林寺」を創建した際に「比丘尼」を「持律者」として遣わし、また住まわせたとされていますから、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(これに関しては「唐」から「義空」という僧を招請し「壇林寺」に住まわせたとする記録もありますが、「元享釈書」などでは当初「義空」の来日時点では「橘皇后」がこの「檀林寺」に住していたように書かれており、創建時は確かに「尼寺」であったとみられます。後にそこへ「義空」が常住することとなったという経緯が考えられます。)
 この「檀林寺」が「尼寺」であるならば「鐘」がもたらされることとなった(筑紫の)元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性を考えるべきと思われます。その意味では『続日本紀』に「筑紫尼寺」という寺院の存在が明記されていることが注目されます。
「大宝元年(七〇一年)八月甲辰条」「太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」(『続日本紀』より)
 この「筑紫尼寺」はその寺封に関する記述からもその創建などが「観世音寺」と同時であるかのように受け取ることができそうですが、この両寺院がほぼ同時期に「筑紫」という同一の地域に建てられたとすると、この両寺院の梵鐘もやはり同時期に鋳造された可能性が高いと思われ、この両寺院の梵鐘に同一の木型が使用されたとみることはそれほど不自然ではないと考えられる事となります。その意味で「妙心寺」に伝わる鐘との共通性が高いものと推量できます。
 ここの「筑紫尼寺」は上に見るように「観世音寺」と並んで書かれています。「観世音寺」は「元明」の「詔」(以下)で明らかなように「天智」の勅願寺です。
「(和銅)二年(七〇九年)二月戊子朔条」「詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」(『続日本紀』巻二より)
 また上の大宝元年の「太政官處分」の文章中の「近江國志我山寺」についても「天智」と深い関係があるとするのが通例ですから、ここに出てくる「筑紫尼寺」についても同様であった可能性が高いと推量できるでしょう。そうであれば「桓武天皇」に始まる「天武系」から「天智系」への皇統の切り替えの中でこの「筑紫尼寺」が注目されたと言うことも考えられます。(註六)その「桓武天皇」は「橘皇后」の夫である「嵯峨天皇」の父であるわけです。
 「由緒」も正しくまたその音高も「黄鐘調」であったと思われるその「筑紫尼寺」の「梵鐘」がその後「橘皇后」の御願により建てられた「壇林寺」に移されたという想定はあながち的外れではないものと考えます。
 ただし、「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行するとの見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(註七)もあるようです。)
 (現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であり、確定したものとは言えないと思われます。)
 さらに、この「筑紫尼寺」については「続日本紀」の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「尼寺」と判断できる寺が「筑紫」周辺にないことがあるとともに(註八)、『扶桑略記』の中に上の『続日本紀』とほぼ同文記事があり、そこでは「筑紫尼寺」という寺院名が「削除」されていることがあり、さらにもし「筑紫」にそのような寺院があったのなら「観世音寺」がそうであったように「大宰府管内」の「尼寺」を統括する立場にあったはずであるのに、それを裏付ける資料がないとされていることなどが挙げられています。(註九)
 しかし『扶桑略記』のことで言えば『続日本紀』に比べはるか「後代史料」であるとともに、『続日本紀』にないような独立史料ならともかくほぼ同内容の記事ならばその信憑性は「先行史料」である『続日本紀』が優先されてしかるべきと思われます。(『扶桑略記』はその時点の「常識」で書き換えられているという可能性が考えられるでしょう。)その意味では「筑紫尼寺」という表記は一概に誤記とはいえないと思われます。
 また確かに「仁明天皇」の代の『続日本後紀』の記録をみると、「観世音寺」(観音寺)が「国分寺」「国分尼寺」をはじめとする「大宰府管内の全ての寺院」を統括していたように書かれています。
「承和十一年(八四四)四月壬戌十条」「大宰府言。管大隅薩摩壹伎等國嶋司言。建國任職。大小是同。除災祈福。彼此不異。如今比國皆有講讀師之職。修正月安居等事。而件國嶋既無講讀之職。還失鎭護之助。加以國分二寺雜物。觸類夥多。既無綱維。令誰検領。望請准諸國之例。置講讀師者。府司商量。所陳有理。望請准管内諸國博士醫師之例。府司於觀音寺。与彼講師共簡試部内僧精進練行智徳有聞堪任講筵終始無變者。將補任之者。勅。講師者。依請補任。讀師者莫更置之。但安居齋會之日。依延暦廿五年三月格。以國分寺僧次第請之。」(『続日本後紀』巻十四より)
 このことからも「筑紫尼寺」という存在に対して疑問が発生するとされているわけですが、この記事が置かれた「八四四年」という年次の直前の「八四二年」には「嵯峨上皇」の「七七御齋」(いわゆる四十九日)が「檀林寺」で行われたという記事があります。
「承和九年(八四二)九月乙未四。修太上天皇七七御齋於檀林寺。」(『続日本後紀』より)
 この時点で「檀林寺」がすべて完成していたということではないとは思われるものの、明らかに主要な機能はすでに備わっていたものと思われます。さらに『続日本後紀』には「八三六年」という段階で「造檀林寺使」という役職の存在が書かれています。
(『続日本後紀』巻五承和三年(八三六)閏五月壬午十四条」「壬午。右京少属秦忌寸安麻呂。『造檀林寺使』主典同姓家繼等賜姓朝原宿祢。」
 これらのことから考えてもし「筑紫尼寺」から「梵鐘」を「檀林寺」へ移したとすると、この時点以前には「筑紫尼寺」がまだ存在していた可能性があることとなりますが、それを示唆するのがこの時点以前には「観世音寺」の統治権が「尼寺」には及んでいなかったと受け取ることのできる記事があることです。
「天長八年(八三一)三月乙巳七条」「乙巳。仏舎利五百粒、令大宰府観音寺講師光豊、安置彼府管内国分寺及諸定額寺。」(『日本後紀』巻卅九逸文(『日本紀略』)より)
 上の記事からは、この「八三一年」という段階では「観音寺」講師の権能は限定的であり、「国分寺」に対しては統括的立場にあるものの「尼寺」については記述されておらず、早い時期から「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督していたものとはいえないことがわかります。(「国分二寺」という言い方がされていないという点で、末尾にある「諸定額寺」の中に「国分尼寺」が含まれていたとは言いにくいと思われます。)
 つまりこの時点付近まで「筑紫尼寺」は存在しており、その「大宰府管内尼寺」に対する支配力もこの時点付近までは継続していたものではないかと考えられる訳です。その後「観世音寺」が「僧寺」「尼寺」の双方を監督する立場に変ったというわけですが、それは「八三六年」に「造檀林寺使」が任命されていることと関係していると思われ、この年次付近で「筑紫尼寺」という存在が「廃寺」となって「筑紫」から消えたと考えると「八四四年」の記事との関連が整合するといえるでしょう。(註十)

結語
T.「妙心寺」に伝わる「梵鐘」は以前「浄金剛寺」にあったものであり、『徒然草』によればこれは「黄鐘調」であるとされていること。この「浄金剛院」の「梵鐘」はさらにそれ以前「檀林寺」にあったものであり、それは創健者である「橘皇后」が「無常」を奏でる「鐘」を欲したことが理由であると考えられること。
U.その「檀林寺」が「尼寺」であることから考えて「鐘」の移設元の寺院も「尼寺」であると思われ、該当するのは「筑紫尼寺」ではないかと考えられること。その「鐘」は本来「観世音寺」と同時期に「筑紫尼寺」に対するものとして鋳造されたと推定できること。その鐘を「檀林寺」に移設したと考えられること。
以上を考察しました。

「註」
(一)古田武彦「法隆寺と九州王朝」(『市民の古代・古田武彦とともに』第五集一九八三年「市民の古代」編集委員会)等。
(二)『大日本地名辞書』には「妙心寺」の項に「…庫門の西に古鐘あり、世に黄渉調と号す、寺説に嵯峨の檀林寺浄金剛院伝来の物とぞ、…」とあり、さらに「檀林寺址」の項には「…一條帝の比に及び已に廃し、其鐘地に委す今妙心寺の古鐘或は之を傳ふる者歟、…」とされています。また「浄金剛院」は「檀林寺」の跡地に建てられたとする記事が多く確認できること(『増鏡』など)、さらに「廃寺」となった「檀林寺」で「鐘」が「御堂」(本堂か)の隅に残っていたという趣旨の記事が「赤染衛門」の著作(『赤染衛門集』)に書かれているなどのことから『浄金剛院』の鐘は以前『檀林寺』の鐘であったと推量され、それが『妙心寺』に伝来していると理解できます。
(三)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第二二〇段の解釈」(『音楽学』五十八号二〇一二年十月)によります。
(四)ただしこれは「日本音階」(十二律)の成立の時期と関わると思われ、ちょうどこの「檀林寺」創建時期が「雅楽寮」などでの「楽制」改革が行われ始める時期とされ、「唐」から新しい舞楽等の「楽譜」などを遣唐使がもたらしたのがこの「檀林寺」創建と重なる時期である「承和年間」付近とされますから、この時点ではまだ「京」周辺において「古音律」に基づく「黄鐘調」の鐘を鋳造するのはそれほど困難ではなかったという可能性もあることとなり、その場合「筑紫」から「鐘」を調達しているのは意図的であったという可能性も出てきます。つまり最初から「筑紫」という地域を視野に入れて「鐘」を調達したということも考えられるわけです。
(五)この日付はパソコンで計算すると「元嘉暦」「戊寅元暦」のいずれの場合も整合しており、確かに「六九八年」と推論できます。ただし、「麟徳暦」(儀鳳暦)では「進朔」を条件とすると日付が「12日」となり整合しません。
(六)「桓武」「嵯峨」の時代には「天武」の「国忌」が守られなくなるなど「天智」への傾倒が強くなったことが多くの諸氏の論により明らかとされており、そのような中で「天智」の勅願寺が注目されたと言う可能性が考えられるわけです。
(七)坪井良平『新訂梵鐘と古文化 つりがねのすべて』(ビジネス教育出版社二〇〇七年)によります。
(八)この「筑紫尼寺」については「朝倉宮」跡にあったという「長安寺」の事という解釈もあるようですが、この「長安寺」は「筑前国続風土記」には(「恵蘇八幡宮」の条)「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されており、「僧寺」であったと見られますから適合しないと思われます。
(九)高倉洋彰「『続日本紀』の筑紫尼寺」(『年報大宰府学』第七号二〇一三年三月)によります。
(十)このことは「鐘」だけを移設したというより「伽藍」全体が「移築」されたと考えることも可能かもしれません。もとよりどちらの寺院も何らの遺跡も発見されておらず詳細が不明ですから、このような推定はほとんど「妄想」に近いかもしれませんが、可能性としてはありうると思われます。「移築」してしまうと「礎石」以外何も残らなくなってしまいますから、「諸史料」に「筑紫」周辺に「尼寺」の存在が確認できないというのも道理であることとなります。

他参考文献
『続日本紀』(『新日本古典文学大系』岩波書店 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注)
『新訂増補国史大系 日本後紀、続日本後紀、文徳天皇実録』(吉川弘文館 黒板勝美 編)
『徒然草』(岩波文庫 西尾実・安良岡康作校注)
『筑前国続風土記』(貝原篤信 選定 貝原好古 編録)早稲田大学図書館古典籍総合データベースによります。
吉田東伍『大日本地名辞書』(「冨山房」)国立国会図書館デジタルライブリーによります。
渡辺三男「檀林皇后 ―嵯峨天皇皇后橘嘉智子―」(『駒沢国文』二十五号一九八八年二月)
利行榧美「桓武朝における「国忌」についての一考察」(『奈良史学』二十四号二〇〇六年)