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倭国王朝の終焉


 「日本国」が成立した後も「王朝」の内部に「前王朝」の協力者や内通者が多くいるはずであり、彼らに対する追求が非常に厳しかったものと推定されます。
 それに関して以下の記事がそれに関係するものであるという理解がされています。

二年夏四月 壬寅。遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。
三年秋七月辛未。多■。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。其度感嶋通中國於是始矣。
同年八月己丑。奉南嶋獻物于伊勢大神宮及諸社。
同年十一月辛亥朔。甲寅。文忌寸博士。刑部眞木等自南嶋至。進位各有差。
四年六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸。

 しかし、これらの記事は「前述」したように「七世紀半ば」の「難波朝廷」時代の記事であったと推定されているわけであり、この「八世紀」の事実ではないと考えられます。また、これらはいずれも「薩摩」と「肥」に対するものであり、「大隅」に対するものではないことに注意すべきです。「大隅の勢力(および阿多)は早期に帰順し「倭国」の一部を為していたと見られるからです。
 それに対し、「南九州」(薩摩)の勢力は「七世紀半ば」以降も継続して「倭国中央」に対し抵抗していたと見られ、これに対し「倭国中央」は「孝徳朝」以降も時期に応じて圧力をかけてきていたと見られますが(大隅などの他の「隼人勢力」との関係強化はその一策であり、分断策であったと思われます。)、本格的、大規模な軍事行動を記すものとして、『続日本紀』の和銅六年(七一三年)の「授勲」記事が該当すると思われます。

「和銅六年(七一三年)秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本據有功。若不優異。何以勸獎。今討隼賊將軍并士卒等戰陣有功者一千二百八十餘人。並宜隨勞授勲焉。」

 これは明らかに「隼人(薩摩)征討」が行われ、それに対する「褒賞」としての「授勲」記事と考えられます。しかも、授勲の対象者が一二八〇余人という、大人数です。このことから、この「隼人征討」がかなり大がかりな軍事行動であったと推定されますが、『書紀』にはその征討に関する記事が全くありません。
 なぜ書かれていないかというのは一見不明ですが、実は明確です。「書けなかった」あるいは「書きたくなかった」からです。この戦闘が「九州倭国王朝」の主要な残存勢力とのものであったことを隠蔽しようとしているのではないかと考えられます。この年ないしはその前年に戦いが行われ、その結果「倭国王」を称する「倭国王家」が全面降伏し、「新日本国王朝」の軍門に下ったものと推定されます。しかし、そのことは(当然)明確に書くわけにはいかないわけであり、「倭国王朝」と「新日本国王朝」との間に「断絶」があることが明らかになってしまうので、「授勲」記事だけになっていると考えられるのです。
 
 この後「七二七年」になって、「筑紫諸国の庚午年籍」を手に入れたという記事が『続日本紀』に出てきます。

(続日本紀)「神龜四年(七二七年)秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」

  「庚午年籍」は「天智天皇」が「近江朝廷」から「各地」に造らせた「戸籍」であり、「庚午」の年(「六七〇年」)に造籍指令が出ていたものです。しかし、「筑紫諸国」では「庚午」の年には「戸籍」が造られず、その翌年の「辛未」(六七一年)に「戸籍」が造られたと考えられています。そしてこの造籍は「薩夜麻」の指示と考えられ、「捕囚」から帰還した「薩夜麻」の「倭国王」としての仕事と考えられます。その証拠に「筑紫」「豊」など九州北部だけではなく、「常陸」などでも「辛未」の年に「造籍」されており、このような広範囲に指示できるものは「倭国王」によるものであると考えられるものです。
 ただ、「新・日本国王権」では、この「戸籍」を「天智」の指示によるものと「強弁」し、これを「奪取」する事で「筑紫」に対する支配権の正当化を狙っていたものと考えられます。
 当然のことながら「旧・倭国」関係者はこの「戸籍」を奪われまいとしていたと思われ、薩摩や大隅など「南九州」の地に「秘匿」していたものと考えられます。 
「新・日本国王権」側は「天智天皇」を「皇祖」として考えていたため、「天智」の支配の証拠としての「庚午年籍」(辛未年籍)という意味でも、この戸籍を探し出す必要があったものです。
 これ以降はゲリラ的に活動する「旧・倭国」関係者に対する「残党狩り」という様相を呈していたと考えられ、その目的は「戸籍」探しというものであったと思慮されます。

 そして「七二〇年」になって「帰順」していたはずの「大隅隼人」が「国守」である「陽侯史麻呂」を殺害する事件が起きています。

「養老四年(七二〇年)二月壬子条」
「大宰府奏言。隼人反殺大隅國守陽侯史麻呂。

「同年三月丙辰条」
「以中納言正四位下大伴宿祢旅人。爲征隼人持節大將軍。授刀助從五位下笠朝臣御室。民部少輔從五位下巨勢朝臣眞人爲副將軍。」

 この「反乱」に対し「大伴旅人」を将軍とした遠征軍が出発し、翌「七二一年」帰還しましたが、「斬首したものと捕虜併せて一四〇〇人あまり」と記されています。
 この戦いは「薩摩」の勢力が「大隅」に侵入し、それら「隼人勢力」をまとめ上げた人物がいたものと思われ、彼らにより「国守」に対する明確な敵対行動が起こされたものと見られますが、この戦いでほぼ「薩摩」を中心とした「隼人」は壊滅したと見え、その後「七二三年」当初から帰順していた人々と、この征討軍に参加した南九州の人たちと思われる人たち「六二四人」がその「酋長」三十四人も含め「朝貢」したと書かれています。
 そして「七二七年」になり、ついに「筑紫の庚午の年の戸籍七七〇巻に太政官の印を押した」という事となったと思われ、この記事が「薩摩」の「隼人」制圧記事の直後に書かれていることからも、「薩摩」に逃げた「旧・倭国」関係者(王朝の一族の誰かか)が隠匿していたものと推定されます。この年をもって「倭国王朝」に関する全てが消滅したと考えられるものです。
 そして、最後まで抵抗し捕虜になったこの「薩摩」「肥後」などの国々の人々に対してはその後、彼らがまとまって抵抗運動など起こされるのを心配というより「恐怖」した結果、苛烈な措置を行うこととなったのです。


(この項の作成日 2011/02/06、最終更新 2013/02/21)