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「蝦夷」の渡唐について


 「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますが、この「諸蕃」とは「化外」にあたる周辺諸国を意味する呼称ですから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたものですが、域外諸国まで集まっているということは「唐王権」から「招集」がかけられていたという可能性を想定することが妥当であることを証するものでしょう。(域内諸国は例年「正朔」つまり暦の頒布を受けるためにこの冬至である十一月一日には集まっていたはずですが、この時は彼ら以外にも絶域の諸国も含め招集されていたものと思われるわけです。)
 遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとみることもできるでしょう。つまりこの「伊勢神宮」の式年遷宮の年数が当初十九年に一度であったということは、単に「伊勢神宮」にとってというだけではなく「倭国王権」にとって重要であったことを意味するものと思われるのです。

 ところで「式年遷宮」の当初の形が「十九年」に一度であったということは、この「暦」における「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。
 「章」は「朔旦冬至」で始まり、次の「章」の始まりである「朔旦冬至」までが一区切りであるわけです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものではないでしょうか。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

@ 持統四年(六九〇)/A 和銅二年(七〇九) 十九年/B 天平元年(七二九) 二十年/C 天平十九年(七四七) 十八年/D 天平神護二年(七六六) 十九年/E 延暦四年(七八五) 十九年/F 弘仁元年(八一〇) 二十五年/G 天長六年(八二九) 十九年/H 嘉祥二年(八四九) 二十年/I 貞観十年(八六八) 十九年/J 仁和二年(八八六) 十八年/K 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「章」と関係しているというのは諸氏によって指摘されていますが、その意味として「十九年」という「章」の期間が一種の「エネルギーサイクル」であり、その一サイクルを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。しかし「章」が中国においては「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までとしていることを踏まえると、「倭国」においてもそれを踏襲しなかったとすると不審であり、最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているというのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているといえます。

 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。
 その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものであったからです。(「甲子朔旦冬至」には二種類有りその年が「甲子」であるという場合と、その冬至の日が「甲子」であるという場合です。六四〇年は後者です。)
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては『旧唐書』『新唐書』とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただしこの時は「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)

 ただし『資治通鑑』によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより意義のあるものとしようという意識が見受けられるものです。

 また後代史書ではありますが、『佛祖統紀』という書の中に収められている「世界名體志」の中の「蝦夷」の部分には「唐」の「太宗」の時に「倭国」が遣使してきてその際「蝦夷人」も来朝したと記されています。

(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖」より)
「…東夷。初周武王封箕子於朝鮮。漢滅之置玄菟郡…蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦夷人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也…」

 この記事に従えば「太宗」の時に「倭国」からの使者に「蝦夷」が同行したというわけであり、これは「六三一年」の「犬上氏」などの遣唐使を指すと理解するのが通例でしょうが、そうとしても『書紀』ではその際には「蝦夷人」は引率しておらず、食い違いがあります。そうであればこの「蝦夷」記事については「高宗」時点のことを『仏祖統紀』の編纂者が誤認したと考えるのが穏当かもしれませんが、そうではないという可能性もあります。なぜなら「伊吉博徳書」に書かれた「蝦夷」記事と『新唐書』記事とが同じ事実を記したものとは思われないからです。

 すでにみたように『新唐書』では「天智」即位と記された後に「明年使者と蝦夷人が偕に朝でる」とされています。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中…」

 この記事によれば「蝦夷」の居住する地域について「海島」と記され、また「ウィリアム・テル」のように瓠を(多分頭に)載せて数十歩離れたところから矢を放って外すことがなかったとされています。この記事を見る限り実際におこなったと見られ、かなり注目されるイベントであったと考えられます。この記事と「伊吉博徳書」に書かれた記事を見比べると実は全く異なる事と理解できます。
 『新唐書』の記事では「蝦夷」は「海島」にいるとされますが、「伊吉博徳書」では三種いるとされる「蝦夷」のうちこれは「熟蝦夷」であるとされ、最も近いところの人達であるように書かれており、食い違っています。

「(斉明)五年(六五九年)秋十月卅日。」「天子問曰。此等蝦夷國有何方。使人謹答。國有東北。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。『今此熟蝦夷。毎歳入貢本國之朝。』天子問曰。其國有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜恠。…」(「斉明紀」「伊吉博徳書」より)

 この「蝦夷」については上の記事の直前に「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」とあり、「陸奥」の蝦夷であることが記されていますが、それがまた「熟蝦夷」でもあるということとなります。しかし『新唐書』では「蝦夷亦居海島中」とあり「倭国」がそうであったように「蝦夷」もまた「海島」に居住しているとされているわけです。そうすると「陸奥」に「海島」があったこととなってしまいますが、それは不審といえるでしょう。(この海島を日本列島のことと理解する考え方もあるようですが、そうであれば「同じ島」という表現がされてしかるべきと思われますが、それは見られません。この文章の「亦」とは「日本」と同様「海中」の島に住んでいる、という意味で書かれていると理解すべきでしょう。)
 たとえばこの「海島」が「佐渡」であるとするような解釈をしない限りは この「海東」が「北海道」を指すという可能性は高いものと思料します。
 『書紀』の神代巻を見ても国生み神話の中に「佐渡」が登場しており、このことから「佐渡」は早くから「倭人」の居住する地域であったか、あるいはここに「蝦夷」がいたとしても相当早期に帰順した地域であると思われ、この「七世紀」と云う時代にまだ「蝦夷」の範疇に入れられていたとは考えられません(そもそも「佐渡」は「陸奥」ではありませんし)。そうであれば他に「島」に住む「蝦夷」という形容の可能性があるものは「北海道」しかないのではないでしょうか。しかし「北海道」であるとすると「陸奥」のさらに向こう側であり、『新唐書』の「蝦夷」は最も遠い場所の種である「都加留」と呼ばれる種族であった可能性が高いと思われることとなり、少なくとも「熟蝦夷」ではないと思われるわけです。(ただしこの時期に「北海道」の「蝦夷」が勢力下に既に入っていたとは考えにくいのも事実です。)

 またこの「伊吉博徳書」や同じ時に派遣された「難波吉士男人」の「書」にも「向大唐大使觸嶋覆。副使親覲天子。奉示蝦夷。於是蝦夷以白鹿皮一。弓三。箭八十。獻于天子。」とあり、「蝦夷」が同行したことは確かであると思われるものの、「弓矢」で「瓠」を射るようなデモンストレーションについての記事が全くありません。これはかなり衆目を集める記事ですからもし行われたなら両者ともそれを記録しなかったはずがないと思われます。
 このように考えると『新唐書』の記事と「伊吉博徳書」とは全く別の時点の記事である可能性が高いと思われ、「蝦夷」が唐へ赴いた時期には前後二つの時期があったこととなるでしょう。ただしいずれも「朔旦冬至」の年であり、これは「唐」から「招集」されたと見るのが相当と思われるものです。


(この項の作成日 2014/08/31、最終更新 2017/09/23)