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「三野国」の特殊性


 「美濃国」(御野国ないしは三野国)については、「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」の改革時点でも「戸籍」の変更が見られず、「古制」を保持し続けたものと考えられ、「西晋」時代から続く「西涼式戸籍」が「遣隋使」以降も続けられたと見られます。このことは「倭国中央」の支配が強く及んでいないことを示し、独自性を保っていたもののようでであり、またこの地域が「東山道」の入口に当たることから、「東山道」自体の整備・進捗がかなり遅れたと考えられることとつながっていると思われます。
 また、この「美濃国」という地域は「木簡」からの解析で、他の地域に比べ強い特色があることが分かっています。それは「干支」による年次の記入例が格段に多いこと及び「三野国」という「国名」の記載例が多いことです。
 つまり「干支」+「国名」+「評名」というスタイルで書き出すことが「形式」として定まっていたことを示し、これは後の「郡制」下(大宝令下)の「木簡」の特徴でもあり、そのような様式が一般化されていない時点で「三野国」では先取りするように決められていたと思われるのです。
 以下「奈文研」木簡データベースの中からピックアップした「三野国」に関する木簡群です。

@癸未年「683」十一月三野大野 評 阿漏里阿漏人白米五斗? 059 荷札集成-91(飛20-27 藤原宮跡大極殿院北方
A戊戌年「698」三野国厚見 評 里秦人荒人五斗 032 藤原宮3-1163(荷札集 藤原宮跡東面大垣地区
B丙申年「696」七月三野国山方 評 大桑里安藍一石 031 荷札集成-101(飛20-28 藤原宮跡内裏・内裏東官衙地区
C丁丑年「677」十二月三野国刀支 評 次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵 032 飛鳥藤原京1-721(荷札 飛鳥池遺跡北地区
D丁丑年「677」十二月次米三野国加尓 評 久々利五十戸人物部古麻里? 031 飛鳥藤原京1-193(荷札 飛鳥池遺跡北地区
E戊子年「688」四月三野国加毛 評 度里石部加奈見六斗 011 荷札集成-103(木研25- 飛鳥京跡苑池遺構
F三野国安八麻 評   032 荷札集成-90(木研25-4 飛鳥京跡苑池遺構
G乙丑年「665」十二月三野国ム下 評 大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡
H乙酉年「685」九月三野国不→ 評 新野見里人止支ツ俵六斗? 011 荷札集成-88(飛20-30 石神遺跡
I甲申年「684」三野大野 評 堤野里工人鳥六斗 032 荷札集成-95(木研26-2 石神遺跡
J年十一月三野国不波 評 日佐里勝部支佐手舂白米斗? 011 荷札集成-89(木研26-2 石神遺跡
K三野国厚見 評 草田五十戸田部支田赤米五 039 荷札集成-97(飛20-30 石神遺跡
L年三野国大野 評 五十戸六斗 019 荷札集成-96(木研27-3 石神遺跡
M己卯年「679」十一月三野国加尓 評   031 荷札集成-106(木研27- 石神遺跡
N庚辰年「680」三野大野 評 大田五十戸?部稲耳六斗「〈〉」(裏面「〈 033 荷札集成-92(木研27-3 石神遺跡

 これを見ても、「日付」のない木簡の方が少ないぐらいであり、見事に様式が整っているのが分かります。
 更に、「五十戸制」から「里制」への切替えについても他の地域に先行していると考えられます。
 また「年」の横に「括弧」付きで「西暦」を示しましたが、これは現在の常識としての年次であり、正確なものかは不明です。
 この「三野国木簡」からは「六八〇年」の日付のものまで「五十戸」表記が確認できますが、「六八三年」のものでは「里」表記に変わっています。それ以降は全て「里」表記であり、その切替時期は「六八一年ないし六八二年」と考えられますが、他の国の木簡では「六八七年」段階でまだ「五十戸制」のところもあり(例えば「データベース番号0000141」の「丁亥年(六八七)若狭小丹評木津部五十戸秦人小金二斗」と書かれた「飛鳥池遺跡南地区出土木簡」の例など) 、かなり遅い変化と考えられますが、「三野国」では「いち早く」里制に切り替えられたものと見られ、「制度」への順応が早いことを示しますが、それは「令制国」と同じ程度の「三野国」が既に成立していたことと関係していると考えられます。
 上のデータベースから確認できる「三野国」下の「評」の数は「大野」「厚見」「山方」「刀支」「加毛」「不破」「加尓」「ム下」「安八麻」と「九つ」確認できます。しかもその年次を見ると「六六五年」まで遡ることが出来、この時点において「三野国」は「評」を九つ以上含む広大な領域を有していたものであり、後の「令制国」と何ら変わらない広さであったと考えられます。
 このような「国」が成立していたとすると、その下に「階層的行政制度」が確立していたことが推定でき、そうであれば「木簡」の様式などの統一が国の中に画一的に浸透していたと考えても不思議ではありません。
 このことは「三野国」については「倭国中央」の制度改革が強く及んでいたことを示すものですが、それでは一見それ以前に「戸籍改定」に応じなかったことと「齟齬」すると思われます。しかし、「評制」などと同様適用される制度等に地域差があったのではないかと考えられることから、「戸籍制度」についてもそもそも変更指示がこなかったのではないでしょうか。

 また、これら木簡に書かれた「干支」については「一巡」(六十年)遡上して考えてみる必要があると思われ、「六三〇年」以後「五十戸」が「里」となったと見ることもできるでしょう。それは「庚寅年」の「日本国王権」の誕生に関わる制度改正であると見られるからです。
 この時代は「利歌彌多仏利」以降であり、「木簡」から判明する「三野国」の実情は、「国宰」として「倭国中央」から「重要人物」が派遣され、彼により強い実行力で「国」の隅々まで「制度」の趣旨が行き渡ることとなったことを示すものと考えられます。この場合考えられるのは「倭国王家」の誰かではないかと思われ、そのような人物が派遣されていた最大の理由はここが軍事的に重要な位置にあったからであると思われます。

 「壬申の乱」の際には「高市皇子」等「大海人軍」はいち早く「美濃(三野)」に陣取って、そこから全軍を指揮していました。そもそもこの時「大海人」の側近の「朴井連雄君」は「私用」で「美濃」へ行ったとされ、更に「近江朝廷」から人員徴発の指示が出ていることを知らされると「大海人」は「美濃国司」に軍を発するように指示を出しています。また、特に「安八磨郡湯沐令多臣品治」を呼び出し、「機密」を話して、軍を出すように指示をしています。つまり、「美濃」は当初から「大海人側」で行動していたこととなるでしょう。また「美濃王」という人物が「大海人」の呼び出しに応じて直ぐに随従しています。ここでは「美濃国司」とは別に「美濃王」がいることとなります。彼は「美濃国」の「主」であるような「地場勢力」であると考えられますが、彼も「国司」や「湯沐令」というような中央から派遣されていると考えられる「官人」と共に即座に「大海人」の指示に従っているものであり、「美濃」に関しては「官民」共に「大海人」の支援勢力となっていたことを示すものであると思われます。
 このような体制が突然できるはずはなく、その前代つまり「六世紀末」付近で強力な統治下に置くための政策が行なわれたと見られ、「美濃王」という人物が「倭国王権」にかなり近いことが判ります。
 この「美濃王」が「栗隈王」の子供の「三野王」(美奴王)と同一人物ならば、彼は「押坂彦人大兄皇子」の孫ですから、まさに「王権」中枢と直結した存在であることとなります。
 
 また、このような「国司」と「王」が「並立」しているような統治体制は「国郡県制」を想定させ、「阿毎多利思北孤」の改革により「国内」にそれらの制度が施行された時点付近が想定できるでしょう。
 それを窺わせるのが、「山部王」と「石川王」が帰順してきたという文章です。(「鈴鹿關司遣使奏言。山部王。石川王並來歸之。故置關焉。」)
 これはその直後に「大津皇子」のことであったと訂正されていますが、それは「不審」といえます。なぜなら「報告」は二人だったからです。「人物」の取り違えはあり得ると思われますが、「人数」の取り違えは起きにくいでしょう。また「名前」は「自己申告」と本人の身分を表す何らかの「証明」となるものを所持していたものと考えるべきですから、容易に「取り違え」などは起きにくいと思われます。つまり、「大津皇子」一人であったという訂正報告はある意味「欺瞞」と言うべきであり、『書紀』編纂時点において「書き換え」がされているのではないかと考えられ、「壬申の乱」の年次操作の一環であったのではないかと思料します。
 「石川王」は「栗隈王」「高坂王」などと同様「難波皇子」の子とされていますから、その活動時期は「七世紀初め」を想定すべきと思われます。そうすると、「七世紀半ば過ぎ」という「壬申の乱」時点の存在とは考えられないこととなります。
 またこの「石川王」は『風土記』には「吉備惣領」であったという記事が見え、また『書紀』には「吉備大宰」であったという記事があります。

「備前国風土記」「揖保郡」の条。「広山里旧名握村 土中上 所以名都可者 石竜比売命立於泉里波多為社而射之 到此処 箭尽入地 唯出握許 故号都可村 以後 石川王為総領之時 改為広山里…」

「天武八年(六七九年)己丑条」「吉備大宰石川王病之。薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩云々。贈諸王二位。」

 この『風土記』の記事は「都可村」から「広山里」へ変更になったと書かれており、これは単純な「名称変更」は意味しないと考えられます。これは明らかな「制度変更」であると考えられ、この『風土記』の記事は「五十戸制」以前の「村」であったものが「五十戸制」という「規格化」した「行政制度」へ変更・改定された際の記事である可能性が強いと思われ、それを「村」から「里」へという形で描写していると考えられます。
 『播磨国風土記』には「庚寅年」に「里名」が変更されたという記事が確認され、こちらは明らかに「五十戸」(サト)から「里」(サト)への変更を示すものと考えられます。
 「サト」の表記に「五十戸」が使用されていたものが「里」へ変更されたの時期は、上に見たように「木簡」からは(実際には)「六二一〜二年」付近と考えられ、そう考えると実際の「石川王」の死去年次である「六一九年」以前という段階で「吉備」において「五十戸」から「里」への変更が行われたとは考えにくい事となります。
 つまり、この『風土記』記事は「村」から「里」というより「村」から「五十戸」への制度改定を示すのではないかと考えられ、「石川王」の活躍時期としても「七世紀前半」であることが示唆されるものです。
 また、この「壬申の乱」記事ではまだ「惣領」になっていないようですから、「阿毎多利思北孤」がまだ生きている間のことではないかと考えられ、「六世紀後半」から「七世紀初め」付近のことではなかったかと考えられることとなります。

 これらのことから、「美濃」という「国」は「七世紀初め」には「阿毎多利思北孤」の改革が及んでいたこととなります。
 同じ「壬申の乱」の文章中には「美濃王」とは別に「三野王」が出てきます。このうち「美濃王」は「大海人」と呼応して行動しています。それに対し「三野王」は「近江朝廷」からの「援軍要請」を「父」である「栗隈王」と共に「断固」拒否しています。この両者の態度はほぼ同じと考えられ、基本的には「反近江朝廷」であったと考えられます。
 この両者が同一人物かどうかという点になると、この「壬申の乱」そのものが「時代の異なる」ものをミックスして書かれている可能性があり、「栗隈王」が登場する時点の部分、つまり「近江朝廷」側から見た記事部分と、それ以外の「大海人側」から見た記事とが「別の時点」の話という可能性があると思われます。
 
 「東山道」の完成と「三野国」の状況が対応しているとすると、「阿毎多利思北孤」時点ではまだ「三野国」は支配領域とは言えなかったという可能性もあるでしょう。
 「栗隈王」の子供に「三野王」がいるとすると、彼の命名の理由などから推察して、新しく支配領域となった場所から「夫人」を迎えたという可能性があり、「栗隈王」時点で「三野」が支配領域とされたという可能性があるでしょう。そうであれば、「六一二年」という時点で「乱」が起きた際の時点が「倭国王権」の支配下に入ったその瞬間であったのかも知れません。

 
(この項の作成日 2012/08/17、最終更新 2014/05/13)