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高市皇子について


 『書紀』の「壬申の乱」の関連の記事の中に「天武」(大海人)の言葉として以下のものがあります。

「今朕無與計事者。唯有幼少孺子耳。奈之何。」

 つまり、「天武」(大海人)は自分には「幼少」「孺子」の子供しかいないと言っているわけです。
 ここで使用されている「孺子」は「前漢」の末期に「王莽」が「二才」の「孺子」である「嬰」を立てたという『漢書』の記載などの使用例や、我が国の使用例からも「三歳以下」の幼児をいうと考えられます。
 また、『養老令』では「十六歳以上」は「正丁」とされ、「十六未満」を「少年」「少女」というとされています。
このことから「幼少」とは「三歳から十六歳」までの子をいうと考えられます。また、それは「推古天皇」の以下の記事からも推測できるものです。

(『推古紀』の冒頭記事)
「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后」

 つまり、「幼」いときは「額田部皇女」といったが、「十八歳」になったとき「皇后」となったというのです。つまり「十八歳」は「幼少」ではないことを意味しますし、「幼少」ではなくなったために「結婚」する事が可能となったものでしょう。
 この事から「幼少」という場合は『養老令』にいう「十六歳」という年齢がやはりその境界線と考えられるものです。
 つまり、ここで「天武」は「自分には十六歳以下の子供しかいない」と言っていることとなりますが、この当時「高市皇子」という人物は「十九歳」であったと考えられ、ここには「矛盾」があるようです。(他の例で「十九歳」を「幼少」とした例が見いだせません)この「天武」の言葉に嘘がなければ、この「高市皇子」という人物は「天武」の子供の中には入っていなかったことが推察できます。 
 また、ここでその「高市皇子」という人物が「天武」の言葉に応えて、以下のように言うわけです。

「…近江群臣雖多、何敢逆天皇霊哉、天皇雖独、即臣高市、頼神祇之霊、請天皇之命、引率諸将而征討、有距乎…」

 この言葉を聞いた「天武」は大いに喜び、「軍事」に関する権限(すでにみたように後の「軍防令」に定められている「軍監」という立場と思われる)を彼に与えたわけですが、彼が「十六歳以下」であればそのような事が可能であったとは思われません。
 つまり、この時の「高市皇子」という人物は「天武」の子供ではないか、あるいは子供であっても「十六歳以下」ではないと考えられるものです。
 それを示すように「六八六年」に「天武」が死去した際に、皇后である「持統」は「称制」により「即位」していますが、この場合の「称制」は、「本来」の意義通りのことであったと思料され、「天武」の子供が「未成年」であったたために、「皇太后」(持統)が「代理」により即位し、「成年」に達するまでの期間を「つなぎ」として「即位」した事を示すと考えられます。(「持統」という「漢風諡号」自体が「つなぎ」という意味なのです)
 つまり、「六九〇年」に「即位」が行なわれているのは「未成年」であった「天武」の「皇子」が「成人」を迎えたことから行なわれたものと思料されるものであり、「六九〇年段階」で「天武」の「皇子」が二十歳に達したということを示すと思われます。仮にそうであったとすると「六七〇年」生まれとなり、「六七二年」当時はまだ「二歳程度」となって、「天武」の「唯有幼少孺子耳。」という言葉に適合します。

 ところで、既に述べたように「宮内庁書陵部」に蔵されているという『帝皇系譜』(「副題」が『本朝皇統紹運録』というもの)の「文武天皇」の所には以下のように書かれているとされます。

「白鳳十二癸未降誕/大化三二立太子十五/同八一即位今月受禅/五年三廾為大宝元/慶雲四六十五崩卅五/葬于持統同陵安占山稜」(「早稲田大学所蔵本」をネット上の画像データで確認したもの。)

 ここに書かれた意味は「『白鳳』十二年癸未の年に誕生し、『大化』三年二月に十五歳で立太子して、同じく大化三年八年の一日に即位し前天皇から受禅したものであり、大化五年三月二十日に大宝と「建元」したもので、その後『慶雲』四年六月十五日に崩じ、その時の年齢は三十五歳であったもので、「持統」と同じ「安占山稜」に葬られたというものです。
 『書紀』でも『続日本紀』でも「文武」の「即位」は「六九七年」であり、「慶雲四年」(七〇七年)に死去しています。死去した年齢は「紹運録」では「三十五歳」となっており、このことから「生年」は「六七二年」となります。この年次が「白鳳十二癸未」とされるわけですが、「白鳳十二」を「白鳳十二年」とすると、その元年は「六六〇年」となり、これは『二中歴』と整合します。
 しかし「癸未」という干支は「六八三年」ですからこれは「六七二年」を元年とする「白鳳年号」に一致しており、矛盾が発生します。
 死去した年齢を『続日本紀』のように「二十五歳」とすると、「立太子」年齢の「十五歳」時は「六九七年」となり、この年が「大化三年」とされているわけですから、「大化元年」は「六九五年」となり、この年次は先に述べた『二中歴』の「大化」の元年と一致します。
 つまり死去年令は二十五歳でも三十五歳でも「史料」とはどこかで齟齬することとなるわけです。
 
 また、上の文章には「白鳳」という年号も出てきます。これも「大化」同様「九州年号」と考えられます。ただし、「白鳳年号」は「天智元年(称制元年)」(六六一年)を「元年」とする資料と、「天武元年」(六七二年)を「元年」とする資料と二系統確認されており、やや混乱があるようです。
 「白鳳十二年」を「天智即位」元年の「白鳳」と解すると「六七二年」となり、また「天武元年」を「白鳳元年」と考えた場合は「六八三年」となります。上の「紹運録」の例では「死去」年齢から考えると、「天智元年」の場合の方が近くなりますが(三十六歳となる)、『続日本紀』や他の資料等に書かれた「文武」の死去した年齢は二十五歳とする例が多く、その場合は「天武元年」を「元年」と考えると整合します。
 また『日本帝皇年代記』によれば「文武」は「白鳳十三年」の「辛酉」の年に生まれたとされており、上のいずれとも違うものの、これが「天智元年」とする「白鳳年号」として考え、その十三年と見ると「癸酉」となり同じ酉年となります。またこれは「六七三年」を意味することとなり、「死去」の「慶雲四年」(七〇七年)は「三十五歳」となり、上の『帝皇系譜』(紹運録)に一致することとなります。(死去した年次についても『日本帝皇年代記』には「丁未慶雲四年六月十五日文武天皇崩三十五歳」という表記があり、完全に整合しています。)
 しかし、『日本帝皇年代記』に拠った場合、今度は「立太子」したとされる「大化三年」という表記が「矛盾」となると思われます。「六七三年」生まれであるならば十五歳時は「六八七年」となり、これは「大化」ではなく「持統元年」になってしまいます。

 ただし、当時「立太子」は「律令」で定めた「小丁」(十六歳)にならなければ「立太子」出来なかったものと思われ、「十五歳」で「立太子」したとすると「非常時」であるが故の事態と想定されます。
 『養老令』などによれば「十六歳以上」が「正丁」とされ、一人前の大人としての扱いが始められる年齢であったことと関係しているものであり、そう考えるとそれを一年前倒しして「立太子」させるということの裏には、そうせざるをえない事情が横たわっていたと見るべきであり、「王権」の確立に力を注ぐ必要があったことを示すものと考えられます。
 一般的には「十六歳」以上でなければ、公式、公的行事などには参加できなかったと思われますし、例えば『書紀』では「舒明」の葬儀において「天智」が「十六歳」で「誄」をしています。また、「物部守屋」と戦った際の「聖徳太子」は「十六歳」であったとされていますし、「倭建命」が天皇から「命」を受けて「遠征」に出かけたのは「十六歳」になった時点であったと考えられるなど、「十六歳」を「成人男子」への重要なステップとする考えがあったことは間違いないと考えられます。

 またこのことは「天武」を「薩夜麻」と考えた場合、彼の帰国が実はもっと早かったという示唆も与えるのです。つまり「六六八年」という段階で「薩夜麻」がすでに「倭国」にいたこととなることを示すものであり、『書紀』に言う「六七一年帰国」と言うことが事実かどうか疑わしくなります。
 少なくとも『天智紀』には「数年」を隔てた「重出」と考えられる記事が複数あり、その間隔も「二−七年」程度までの範囲にわたっていて、この事から、記事の年次の正確さは全く担保されていないこととなります。
 「薩夜麻」は「郭務宋」と同行して帰国していますが、この記事も「唐」側資料には存在せず、「帰国」の年次としての「六七一年」というものが保証されているというわけではないのです。
 少なくとも「六七一年」に記載されている「劉仁願」が派遣したという「熊津都督府」からの使者の記事(下記)については、それ以前(六六八年)に「劉仁願」が「唐皇帝」から「査問」を受け「流罪」となったという「唐側資料」とは「矛盾」します。

「六七一年」十(中略)辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。」(天武紀)
「總章元年(戊辰、六六八年)八月辛酉,卑列道行軍總管右威衞將軍劉仁願坐征高麗逗留,流姚州。」(資治通鑑巻二〇一)

 このように「劉仁願」は「六六八年」に「姚州」に「流罪」となっており、この「天武紀」の使者派遣記事が、実際は「流罪」になる前のことと考えると、少なくとも「三年」のズレがあることとなります。すると同じ「六七一年」に帰国したとされる「薩夜麻」の記事についても「三年」遡上するものと考える必要が出てくると思われ、「六六八年」のこととすると、「帰国」してすぐに子供が出来たと考えれば「壬申の乱」の「天武」の言葉にも整合しますし、「持統」が「称制」しなければならない状況とも符合すると同時に、『紹運録』の記事ともまた整合することとなるのです。

 また、この「高市皇子」の言葉の中で「何敢逆天皇霊哉」つまり「どうして天皇の霊に逆らえるだろうか」というように「霊」という言葉を使っていますが、現に生きている人には決して使用されない種類の言葉ですから、この場合の「天皇」は目前の「天武(薩夜麻)」ではない事は明白であり、考えられるのは「前倭国王」がその対象と思われますから、ここでは「伊勢王」ないしはその「弟王」が想定できるでしょう。つまり、『書紀』で「大海人」として描写されている人物が実は「薩夜麻」であると考えれば、「高市」が言う「天皇霊」とは「薩夜麻」の父と目される「伊勢王」あるいはその「弟王」と考えた方がいいでしょう。この二人は「兄弟統治」を行なっていたものであり、「伊勢王」と「弟王」共に強大な権力を持っていたと解されます。そのような彼等の「霊威」がまだあるという言い方で「薩夜麻」を鼓舞していると考えられます。

 「伊勢王」と「弟王」はその強力な「タッグ」により倭国史上「空前」の「権力」の強さを誇示していたものであり、非常に広い範囲に「倭国王」として勢威を及ぼした人物であったと思われます。その彼等の「権威」がまだ「霊」となっても「生き続けている」というわけです。
 そうすると「壬申の乱」に出てくる「高市皇子」とは「誰か」と言うこととなりますが、これは「不明」としか言えません。ただし「父」が「薩夜麻」ではなく、なおかつ「近江朝廷」に「敵対する」関係というのは、明らかに「旧倭国関係者」であり、また王族の一員的存在であったと思われること、また「高市皇子」の「名」を「近江朝廷」側では「畏怖」していた様ですから、これはまだ「十九歳」程度の人間に対するものと言うより、彼の「父親」に対する「畏怖」であり、彼の傘下の武装勢力に対する畏怖でもあったと考えられ、彼の父親は相当な「軍事力」を保有していたことが推定できます。これらを総合すると彼は「伊勢王」の「弟王」の子供であるという可能性もあるでしょう。
 その場合、『書紀』では「弟王」は「大皇弟」として描写されていると思われますから、「天武」の子供という関係として描きやすいと考えられるものでもあります。つまり、「薩夜麻」を「天武」として描いた場合、必然的に「高市皇子」とは「親子」となってしまうのです。

 この人物は以降も「高市皇子」として『書紀』では描かれ、その後「太政大臣」の位まで上がったと考えられます。
 しかし、『天武紀』は「八世紀」にはいってから「付加」された部分であり、「潤色」と「改変」が多く確認されています。特に『天武紀』の冒頭に出てくるこれらの「壬申の乱」記事はある種「異様」であり、「乱」の経過が逐一書かれていて、それは「天武」と「高市」の存在の証明とでも言うべきものです。
 つまり、この部分は彼らの「権威」付けのために書かれたものと推察されるわけであり、そのような性格の記録ですから「記録」をそのまま信憑するわけにはいきません。それを前提として考えなければいけませんが、ここで述べられていることは、「大海人」が「近江朝廷」打倒のために立ち上がったのは、「身を守るためのもの」(自衛)であったこと、「天智」の皇子達も大多数は「大海人」の側についたこと、諸国の王達も「大海人」側についたこと、実際には「大海人」ではない人物が前面に出て戦ったこと、などが理解できます。

 「大海人」なる人物の存在が「希薄」であるのは以前から言われており、実際に「天智」の跡を継いだ「大友」に対して反旗を翻していたのは「薩夜麻」と考えられ(「大義名分」の点からと言う「薩夜麻」に対して「大友」が反乱を起こしていたといった方が適切かも知れません)、彼の存在を隠すために「大海人」なる人物を「でっち上げた」ものと推察されます。
 そして「高市皇子」という人物がいて、あたかも「大海人」の代理として戦ったかのごとくに装ったわけです。
 これに関しては「薩夜麻」が「半島」での「唐」・「新羅」との戦闘や、長期の捕囚などで身体に障害を負っていたのかもしれません。そのため先頭に立って戦う事ができなかったという可能性も考えられるところです。

 これが書かれた「八世紀」には「高市皇子」はすでに死去しており、子息の「長屋王」が「高市皇子」の権威を引き継いで宮廷内に存在していたと考えられます。
 この『書紀』編纂事業とその編纂内容について「長屋王」が「熟知」していなかったはずはないと思われますが、その『書紀』が今私たちが見ている『書紀』と同じであるかどうかは不明です。
 ただし、自分の父親が「大海人」の先兵として全軍を率いて戦った(「軍監」であったと考えられる)という記述は、「長屋王」の希望するストーリーにそったものであったかもしれません。
 『書紀』によれば「壬申の乱」では「大海人」側の作戦で「近江軍」の中に馬を走らせ「高市皇子の軍が来た」と言わせて「近江軍」を大混乱にさせているシーンが描写されています。この場合なぜ「大海人皇子の軍」ではなく「高市皇子の軍」なのか、なぜそれで「大混乱」となるのかが不明でした。しかし『書紀』編纂時には「高市皇子」の「皇子」である「長屋王」(長屋親王)が存在していることを考えると、「高市皇子」が「活躍」した、という記事内容となるのはある意味必然であり、書かれた背景も理解できるものでもあります。

 「高市皇子」は『書紀』では「宗像君徳善」の孫とされています(母が宗像君の娘「尼子娘」)。「天武」が「薩夜麻」であり「筑紫君」であるなら「宗像」の娘を「妻」にしているのは自然です。「筑紫君」と「宗像」「阿曇」など北部九州の氏族達は関係が親密であり、婚姻関係もあったと考えるのは当然とも言えるでしょう。「草壁皇子」「大津皇子」も「筑紫」で生まれており(「元明」も同様)、これら北部九州の氏族と関係が深いと考えるのが自然です。


(この項の作成日 2010/12/29、最終更新 2012/08/26)