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「第四指」と「魔法」


 「第四指」は現在日本では「薬指」と称されていますが、これは以前「薬師指」であったことの名残であるとされています。またその「薬師指」の由来は、「薬」を解く(かき混ぜる)指がこの指であるとされていたからのようですが、なぜ「第四指」がその役目を負っていたのでしょうか。それはこの指に「魔法」の力があるとされていたという説が有力です。
 第四指は古代には洋の「東西」を問わず「無名指」などと表現されていた事が明らかになっています。例えば「サンスクリット語」や「ラテン語」「ペルシャ語」「ロシア語」「ガリア語」等々で「無名指」と同等の表現がされています。それはこの指に「魔法の力がある」とされていたからであるという研究があります。※
 それによれば、その「魔法の力」がある「指」が「無名」であるのは、「名前」を知られると効果がないと考えられたからであるとされ、それは古来「戒名」や「古代の天皇の「諱」(いみな)なども「本名」であり、生前はそれを「魔物」に知られないように「伏せて」あったものであって、死んで始めて明らかになるという考え方に通じます。※
 また「中国」などでは「名前」については通常「字」で呼称されまた表記されていたとされます。死後略歴などを記す場合には「本名」を書き、その後に「字」を書いていたものですが、例えば「百済根軍墓誌」の場合を見ると「公諱軍、字温」と書かれています。「諱」である「軍」が本名であり、「字」とされる「温」は通称です。生前は「諱」が明らかになったり、使用される事はなく、「字」が使用されますが、死後は「諱」が使用されるようになります。それは「本当の名前」が「鬼神」に知られると「災い」が起きるとされていたからであり、「名前」にはそのものの「本質」が現れていると考えられていたようです。このことから、「名前」を知られることを極力避けていたと考えられます。
 この「第四指」についても、備わっている「魔法」の力が、その名前が知られることにより「減ずる」こととなってしまうと考えられ、そのため「無名指」(つまり名前のない指)となったのだと考えられます。
 日本で「薬師指」と呼ばれるようになったのは、「薬」が効くのは「魔法」の力があるからであり、そのためにはこの指を使う必要があるからと考えられたものと思料されます。
 「薬師如来」像も「左手」に薬壺を持ち、右手の「薬指」だけを上げて前方に伸ばしている形で造形されています。このことからこれらを造物する際にすでに「第四指」に意味を持たせているのは明らかであり、このことから「第四指」が「薬師指」と称される原因となったものと考えられます。

 この「第四指」に「魔法の力」あるいは「霊力」を認める考え方は上に見るように全世界の各地に見られるものであり、特に「左手の薬指」は、「心臓」が「左」にあるように見える事から特に重視されたものと思われます。そして、その指に装着する装飾具も同様に「霊力」を保持していると考えられたものであり、「指輪」がこの「第四指」に装着するものとされていた事もそれが理由であったと思われます。中でも「結婚指輪」が典型的な例であり、この指につけられることにより、その指輪をつけてくれた相手だけを好きになる「魔法」がかけられることとなるというわけです。

 説話の中では「天智」は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。
 これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。
 しかし、この行為は仏教の教義に則ったものというより、「仏教以前」の世界に属するものと考えるべきであり、前代まで行われていた「神道」的要素が強いと考えられます。
 このような「血」の儀式様のものは仏教の教えとはかなり遠いものと思われ、このような「生け贄」的考え方は「神道」など当時の日本における「俗」としての古典的要素が強いと考えられます。
 しかし、以下の中国の例においても、「出家」しようという人物が、指を切断している例があり、中国ではそのような思考法がそれほど珍しくなかったともいえます。

「祖堂集卷第十八」「仰山和尚」の段
「仰山和尚嗣?山,在懷化。師諱慧寂,俗姓葉,韶州懷化人也。
年十五,求出家,父母不許。年至十七,又再求去,父母猶?。其夜有白光二道,從曹溪發來,直貫其舍。父母則知是子出家之志,感而許之。師乃斷左手無名指及小指,置父母前,答謝養育之恩。…」

 この中では「父母」に「恩」を示すため「指を切断して」供えたとされています。「父母」への「恩」を示すために、自分の「指」を切断するというのは一見わかりにくい論理ですが、「恩」に「答謝する」為には「拝礼祭祀」を行なう必要があり、そのためには「神」に供えるものが必要であったと言うことではないでしょうか。
 この段階では彼は「出家」する前ですから、「中国」の民間に流布していた宗教の中で暮らしてきていたものであり、そのような状況下でこの行為を行なったと考えられますが、そのような中では「神」に供え物をする、特に「血」を「供える」ということが重要視されていたと言うことが考えられます。
 そもそも仏教では「不殺生」というのが「戒律」の重要な要素であったものであり、「五戒」の第一に数えられるものです。しかし、「中国」では仏教発祥の地である「インド」とは違って、以前より「犠牲」を伴う「儀礼」を行う文化がありました。それは仏教伝来後もかなり後代まで遺存したものであり、例えば「南朝」「梁」の「武帝」は、深く仏教に帰依した結果、宗廟へのお供え物についても「疏菜果実」つまり「肉類」は取り止めとしたとされています。つまり、この時点までは「宗廟」で犠牲を用いた儀式を行なっていたものであり、それは代々の皇帝の「義務」でもあったわけです。しかし、彼の代になって「儀式」には「犠牲」を用いないということとなったものです。
 「生類」全てに「人間」と同等の「命」の重さを見て、殺生を禁じ、解放するという考え方や行動は、「生贄」という「傷を付け」「血を流す」儀式を行なう思想とはかけ離れています。
 このような「生贄」やそれを伴う儀式は「殷」や「周」など「古代中国」に淵源するものといえますが、仏教以前の古代的感覚であると思われます。
 「唐」時代以降についても状況は余り変わらなかったものと見られ、「唐皇帝」は「道教」の開祖である「老子」について、「唐皇帝」の祖先であるとして「道教」を重視しましたが、これは「天師道」と呼ばれ、後漢時代の「五斗米道」の流れをくむものとされています。その基本は「天地」の神への感謝と豊作と幸運を祈念した「禮際」を行なうものであり、それには「供え物」(生贄)が必須であったと考えられます。

 この「仰山和尚」の「出家」に関するエピソードでもやはり「天地」の神と祖先神への感謝が基本であったと思われ、「指」を切り落として供え物とすると言うのは当時それほど珍しいものではなかったのかも知れません。
 「天智」の例でも、『扶桑略記』の文章では「奉為二恩」とされ、「奇瑞」とされる「寶鐸」等が掘り出されたことを「父母」に感謝し、そのために「薬王菩薩本事品」にある「指灯」の行を行なったあと、今度は「神祇」に対して「祭礼」を行ない、その際に「お供え」(生け贄)として燃やした自己の「第四指」(無名指)を差しだしたと言うことが考えられ、共に同じような「祭式儀礼」であったと思われます。

 ちなみに、この『祖堂集』の「仰山和尚」のエピソードはそのほかの点でも「天智」のそれと酷似しています。
 「元亨釈書」等では「白石」が掘り出され、それが「夜有光」とされており、これを「奇瑞」としているわけですが、『祖堂集』では「其夜有白光二道」とあって、やはり「夜光る」ものであり、それを「奇瑞」であるとするのも共通です。
 そして、その結果「天智」と「仰山」は共に「左手無名指(仰山は小指も)」を切り落として、それを「父母」に感謝の意を表するとして、「天地の神に」「供えて」祭礼を行なったということとなります。
 この「逸話」が記された『祖堂集』(そどうしゅう)は、五代十国の「南唐」時代(十世紀)に成立した中国禅宗の記録です。しかし、『祖堂集』は中国国内で編集されたものの、いわばそのまま「お蔵入り」となり、その後「高麗」に持ち込まれ、一二四五年「順佑五年」に高麗大蔵経の附録として刊行されたものの、それも二十世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかったとされます。 
 しかし、上に見る記事の酷似は偶然とは言いがたく、上に見た諸資料中でも一番早い時期と考えられる『三宝絵』(「十世紀頃」か)に『祖堂集』が影響を与えているという可能性が考えられるところです。

 また、確かに「指を燃やす」というような行は上に見るように「法華経」にあるものであり、その意味では上の行為は仏教と必ずしも食い違っている訳ではありませんが、それを「切り落として」「石壇」(地中)に納めるということについては、どう考えてももはや「仏教的」とは言えないと思われます。このような仏教の経義と微妙に異なる儀式が行なわれている事から考えて、この時の「天智皇帝」なる人物の時代は、「仏教的」な雰囲気で満たされていた訳ではなく、以前からの「民間信仰的」が色濃く残っていた事が想像されます。
 それは仏教に深く傾倒している人物でさえもその「時代的限界」の中にいたと言うことを示すと思われ、逆に言うとそのような事が行なわれるということはこの時代が、もっと古い時代のことではないかという事をも考えさせるものとも言えます。それから想起させられるのは『隋書俀国伝』の「知卜筮、尤信巫覡。」という記事です。
 この記事は「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」の口頭報告をまとめたものと思料され、それ以前の「倭国」の状況を窺わせるものですが、そこでは「俗」つまり民衆レベルでは多くが「巫覡」つまり「男女」の「祈祷」や「占い」をする人達に頼って生活していたことを示すものであり、そのような時代的雰囲気というものは、「天智」と称される人物が行った「左手第四指」を切り落とすという行為が行なわれた背景としての時代的雰囲気とよく重なるものではないでしょうか。
 つまり「天智皇帝」が本当に「天智天皇」を指すのか、「崇福寺」の創建は本当に「六六八年」なのかと言うことが問われていると言えるでしょう。


(この項の作成日 2013/06/08、最終更新2013/09/17)