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「有馬皇子」の変と「中皇命」


『万葉集』の中に「中皇命」という人物が歌った歌があります。

「中皇命、紀伊の温泉に徃(いでま)す時の御歌」

@「君が代も 我が代も知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな」(巻一、十番歌)

「意訳」「あなたの命も、わたしの命も知っている岩代の岡のこの草をさあ結びましょう。」
(草を結ぶのは旅の無事や将来を祈るまじないです)

A「我が背子は 仮廬作らす 草(かや)無くは 小松が下の 草(かや)を 苅らさね」(巻一、十一番歌)

「意訳」「わが君は仮の庵をお作りになる、草が足りないのなら、あの松の下の草をお刈りなさい。」

B「吾(あ)が欲りし 野島は見せつ 底深き阿胡根(あごね)の浦の 玉ぞ拾(ひり)はぬ」(巻一、十二番歌)

「意訳」「見たいと思っていた野島を見せていただいた、でも底深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。」

「右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに曰く、「天皇の御製歌云々」 と云ふ。 」

 上に見るようにこの三作は「山上憶良」によると「斉明天皇」(宝皇女)の「御製」であるとされています。
 ところで、『古事記』の「敏達天皇」の「皇統譜」を見てみると「敏達」の子の「忍坂日子人太子」の子として「岡本宮治天下之天皇」(舒明天皇)が居り、その「兄弟姉妹」に「中津王」がいます。
 この系図から考えて、「中皇命」つまり「『なかつ』すめらみこと」というのは「中津王」であり、これは「寶女王」(斉明)の「諱」(本名)であるという可能性が高いと思われます。(この時代では「男女」の区別なく「王」と表記されているようです)
 既に見たように「皇極」(斉明)「舒明」はその互いの母の名称から考えて、同母の「兄妹」(というより「双子」)であると考えられ、そうであれば、系図上に「皇極」に相当する人物が居ても不思議ではありません。そう考えれば、この「三作」は確かに「斉明」の「御製」と考えられるものであり、また、その時そこに「中大兄」が居たことは確かであると思われます。

 また、「紀の湯」「磐代」「草を結ぶ」などのキーワードはいずれもこの時起きたとされる「有馬皇子の乱」を想起させるものです。
 「有馬」は「護送中」に歌を詠んだとされます。うち一首は以下の通りです。

「磐代の 浜松ヶ枝をひき結び 真幸くあらば また顧みん」

 この歌と、@の歌は微妙に響き合うと言えるでしょう。
 「紀の湯」は先に「有馬」が湯治に行っており、彼は「斉明」に「紀の湯」が「病気によい」と云われたことから、彼女も「湯治」に行ったとされています。
 そして、その「留守中」に「有馬」は「謀反」を計画したとされているのですが、それは「蘇我赤兄」の裏切り(あるいは謀略か)により捕らえられ、「紀の湯」に護送されます。その途中で歌った歌が上のものとされます。
 その頃、「紀の湯」では「有馬」の謀反と逮捕が報告されていたものと思われます。そこに「斉明」と「中大兄」(天智)は一緒にいたものと思われ、「有馬」を逮捕し護送されているということを聞いてから二人は相談したのでしょう。そして、その結論(あるいは斉明の意志)を「歌」にしたのではないでしょうか。それがこの「三作」と考えられます。

 @の「十番歌」では「自分達の安全」を第一に考えましょうといっているようです。もし情けをかけて生かしておけば「後顧の憂い」を呼ぶと云うことも有り得るからです。(そのような「障害物」は除去すべきと云うこと)

 Aは、これを「あなたは 今夜の宿にと仮小屋を作っておられるけれども、もしも屋根を葺く草が足りないようでしたら、小松の下の萱草をお刈りなさいませ」というような意味で「直訳的」に受け取るのは、この時点で発生していた「有馬皇子の謀反」という事実と整合しないでしょう。これは明らかにそれを下敷に詠んだものであり、もし必要ならば「最終手段」を取れば良いだけのこと、萱を集めるのと大差ない話です。という意味でしょうか。また、「有馬」が「辞世」として詠んだ歌も知っていたのではないでしょうか。彼は「松の枝の下にいる」というわけです。
 
 Bでは、「斉明」から「天智」に向かって「あなたの「本気」を知りたい」と言っているようです。これは、「倭国王権」簒奪を促すものと考えられます。

 ここで歌われた三作は当然、自分達の「身」に危険が及んでいた事実が明るみになってから作られたものであり、歌の「隠れた中心」に「有馬皇子」がいたことは間違いないと考えられます。
 つまり、これらはいずれも「斉明」の口から「中大兄」に向かって「有馬」殺害とその後の「倭国王権」奪取を勧めている事を表す「歌」であると考えられるものです。
Bで「阿胡根の浦」の「玉」と云われているものは「珠」であり、これは「如意宝珠」を指していると考えられ、それはこの当時「倭国王権」をも指すものであったと考えられます。
 「利歌彌多仏利」は「帝」を名乗りましたが、それは「九州」の俗の信仰であった「如意宝珠」を取り込んだためであり、九州の有力氏族(宇佐)などの支持を取り付けたことがそのような強い権力の発現の原動力となったと思われます。「玉」はその「権力」の象徴としてここでは表されていると考えられます。
 それを「手に入れたい」と「中津王」(中皇命)は「中大兄」に向かって「唆している」と見られるのではないでしょうか。


(この項の作成日 2012/11/20、最終更新 2013/05/22)