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「熟田津」の歌について(2)


 このように『万葉集』の中には「に」が「方向」や「目的地」を表す助詞として使用されている例はいくらもあり、「熟田津尓」の「に」についても同様の解釈は可能であるわけですが、従来はそういう方向には傾かず、「に」を「内在的」には「from」の意味で使用しながら、体裁(外面)としては「at」の意味であると強弁しているのです。
 そこにはそうは言えない理由があるわけです。それは「左注」との齟齬です。
 「左注」には「山上憶良」の『類聚歌林』からの引用として「伊予石湯」に到着後の歌という意味のことが書かれており、従来の研究者達はこれを無条件に重視あるいはそれに依拠していて、その結果この「に」を「目的地」とすることが出来なくなったわけです。
 そもそも「左注」と「本文」(本歌)は本来別であり、「左注」に引きずられて解釈をねじ曲げるというのは本末転倒以外の何者でもありません。
 古田氏も主張されているように(※2)「左注」から「本文」を解放するべきであり、独立して研究の対象とすべきでしょう。
 
 ところで、上で考察したようにこの歌が「難波」から軍事行動を起こす際の歌であるとすると、行き先がなぜ「娜大津」ではないのか、なぜ「熟田津」なのかが問題となるでしょう。それはそこがこの海域の「潮流」の「潮目」であり、「西行」から「東行」へと変る場所であるため、「西行」してきた船団にとっては一旦小休止が必要であったものだからと考えられます。
 ここまでは「潮」の流れに沿ってくることが可能ですが、そこからは流れに逆らって運行する必要があり、この時点で漕ぎ手を増やして対応したと思われます。場合によってはここで船を乗り換えたという可能性もあるでしょう。
 ちなみに半島に向かった船団のほとんどは九州「吉野」からの発進と思われます。ここは干満の差も大きく、軍用の大型船であっても干潟に置いておけば満潮になれば自然に浮くわけであり、軍団の発進地としては最適であると思われます。(そこから一旦「筑紫」の「百道」に集合したもの)
 また船の建材として著名な「樟」は九州原産であり、九州島の中ではどこからと言っても良いほど産出されますが、「筑後川」の上流には「玖珠(くす)」という地名を持つ場所が存在するほどであり、この周辺は「樟」の自生する山林が豊富にあったことを示すものです。そこから切り出してそれを「筑後川」で下流に運びそこで船として加工するとした場合、軍事基地と見なされる「吉野」が非常に至近の地にあることも深く関係していると言うべきでしょう。
 それに対しこの時の「斉明」達はいわば「大本営」であり、彼女たちは「筑紫」へ行くだけであったと思われますから、それほどの大型船でもなくまた多数の船団を組んでいたわけではなかったとも思われます。
 さらに「難波津」から出航するに当たって「熟田津」が目標とされていたと思われることから、以前から「熟田津」は中継地としての機能があったと思われることとなるでしょう。
 たとえば「難波津」から船出した「六五九年」の遣唐使一行も「熟田津」で小休止したという可能性が考えられる事となります。
 その時の「伊吉博徳」の記録によれば以下のようになっています。

「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。…」

 この記事は巧妙に「難波」から「筑紫」までの所要日数を伏せていますが(「筑紫」記事は「発」記事であり「到着」記事ではありません)、少なくとも1ヶ月程度あるいはそれ以内の期間であったと思われ、「筑紫」で若干の小休止を含んでいるとすると、「斉明一行」の場合に比べ「博徳」達の行程は日数を要していないようではあるものの、それなりに時間がかかっている感があります。これはこの「熟田津」そのものが「中継地」としての機能を有していたものであり、ここで筑紫への航海の体制を整える意味があったものでしょう。

 ちなみにこの経路を「筑紫」から「伊予」へというように理解する向きもあるようですが、それは困難と思われます。理由はこの「熟田津」の歌が語調が良すぎるからです。これは明らかに「戦闘開始」に近いものであり、軍発進の号令としては首肯できますが、「石湯」へ行くためには大仰すぎるでしょう。
 また「熟田津」が「伊予」であるとした場合、「筑紫」から「伊予」へ一旦向かう理由が不明となります。「新羅」への軍出動を指示しながら、自らは後方へ移動していることとなり、これでは軍の指揮や連絡がスムーズに行くはずがありません。
 このことは「熟田津」が「筑紫」そして「新羅」へ向かう中継地点であったことを示していると思われ、進行方向のベクトルとしては同一であったことを示していると言えます。そう考えると、出発地点は近畿(難波)であると考えざるを得ません。

 ところでこの歌の中では「月を待つ」という行為が為されています。この意味についても従来諸説がありますが、もし潟や陸地に船があるとすると満潮にならなければ船出できないこととなるでしょう。
 地球は自転しており、月はその地球の周りを29.5日で公転しています。このことから、地球上の一地点に注目すると、一日一回は月にその地点が向くこととなり、それとちょうど反対に地球の真裏に来るときと一日二回満潮があることとなります。(真裏の時も海水が反対側に持ち上げられて満潮となります。これを「潮汐の原理」と言います。)
 さらに、潮汐は月の引力だけではなく太陽の引力でも起きています。つまり、「太陽」と「月」の引力が重なると満潮の中でも最大の状態となり、この時「大潮」となります。
 出航する船が大型であれば満潮の中でも「大潮」であることが必要となるでしょう。それは一月に「新月」と「満月」の時の二回しか来ませんから、タイミングが重要です。新月の場合はそのタイミングがわかりにくいものですが、満月なら夜半過ぎに上ってきますから、それを見て判断できます。
 皆船に乗り込んで準備していて、満月が出て潮が満ちたその瞬間を選べば、通常は大型の船が出入りできないような遠浅の港からでも容易に外洋に出られます。
 軍用船は遣唐使船に比べ装甲(「矢」などのための防御板)などが船体各所にあったと思われ、重量があった可能性があるでしょう。そうであれば通常より「喫水線」が高かった可能性があり、これを進水させようとすると水位を高く保つ必要があったかも知れず、それには「大潮」が必要であったとも考えられます。
 そう考えると「遣唐使船」の船出とはやや状況が異なっていると思われるのも首肯できます。
 ただし、難波(大阪湾)は「潮流」が遅くさらに干満の差も小さいため大型船と言うより中型船が出入りするのに適した港であったと思われます。その場合それほど干満の差が大きい必要性はなかったものと思われ、その意味でもこの歌が「難波津」で歌われたとすると整合すると思われます。

 「難波津」ではありませんが同じ近畿の「住吉」の岸に船が到着する際には「潮が満ちる」タイミングを利用していたらしいことが「謡曲」から窺えます。
 以下謡曲「岩船」からの「抜粋」です。

「…久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\『潮の満ちくる浪に乗つて』。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。『汐にひかれ波に乗つて。』長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ここでは『潮の満ちくる浪に乗つて』あるいは『汐にひかれ波に乗つて』とされ、それによって「住吉の岸」に到着したように書かれています。
 ここに出てくる「磐船」は当時の用法としては「大型船」といえると思われ、金銀財宝を満載しているという書き方からも喫水線は高かったと思われますから、「満潮」を待たなければ岸に着けなかったものではないでしょうか。「熟田津」の歌ではちょうどこの逆を行おうとしたと思われるわけです。
 同様の事は「江戸時代」の記録からも窺え、たとえば米沢藩から福岡藩へ祝賀のために派遣された一行が「大坂港」から船出する際にやはり「潮時」を待ったとされています。(※3)
 その「潮時」とは文中によれば「一七〇五年(宝永二年)一月三十日申の時」とされ、これは明らかに「新月」の際の「大潮」の時刻を指すものです。またその使用した船は「小早船」と呼ばれる「12.7メートル×2.7メートル」程度の大きさであり、この時代でもこの程度の大きさ(大型とは決していえない)の船は「潮」を待たなければならない必然性があったと見られます。これらのことからこの「熟田津」の歌のケースも「大潮」を待って船出する光景を描いたものと思われ、さらにそれは「難波津」からの出港であったことが推定できると思われるわけです。

 さらに、『斉明紀』の「伊吉博徳」が乗った「遣唐使船」も「筑紫」から「百済」の南端の島へ着いた後、大陸へ漕ぎ出すときにはやはり「満潮」(特に大潮)を待っています。

「…以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。『以十四日寅時。』二船相從放出大海。…」

 ここに書かれた『十四日寅時。』とはまさしく「大潮」の時間ですから、「遣唐使船」のような外洋船が船出する際には(そこが特に遠浅の場合)「大潮」でなければ出港できないということがあったものと推量されます。(彼らの場合はこの島へ流れ着いた時点で「座礁」したという可能性もあるでしょう、そうであればますます「大潮」を待つ必要があったものです。)


(※1)佐藤鉄太郎『実在した幻の城 ―大津城考―』中村学園研究紀要第二十六号一九九四年
(※2)古田武彦『新・古代学』第四集(一九九九年十一月)及び「失われた『万葉集』─黒塚と歌謡の史料批判─」(大阪市天満研修センター)一九九八年六月等
(※3)水野惠子「祭魚洞文庫『筑前紀行」における海路の旅」流通経済大学流通情報学部紀要 12(1) 二〇〇七年十月


(この項の作成日 2014/09/03、最終更新 2018/03/11)