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「斉明」と「筑紫」


 「有馬皇子の変」が起きる前に、「蘇我赤兄」が「天皇」の「三失」を指摘しています。

「書紀斉明紀」
「(斉明)四年(六五八年)十一月庚辰朔壬午 留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰 天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財一也。長穿渠水損費公糧二也。於舟載石運積為丘三也。」

 また、更に「斉明天皇」に対する「誹謗」「中傷」の言葉として以下のことも書かれています。

「(斉明)二年(六五六年)九月条」
「…時好興事 迺使水工穿渠 自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石 順流控引於宮東山 累石為垣。時人謗曰狂心渠。損廢功夫三万餘矣費損造垣功夫七万餘矣 宮材爛矣 山椒埋矣 又謗曰 作石山丘隨作自破 若據未成之時作此謗乎。」

 いずれも「狂心」と言われるものに部類されていますが、この両記事を対照させてみると、後の記事の「時人謗曰」と言う中には、先の記事の中で「赤兄」が最初にあげた「大起倉庫積聚民財」というのが入っていないようです。これについては、『書紀』には何も書かれていません。「宮室造営」と「作石山丘」については書かれているものの、「倉庫」の件は見られないのです。しかし「三失」の筆頭にあげられるぐらいですから、「書紀編者」にとって一番非難すべきものという認識があったはずですが、それが書かれていないというのも不審です。
 「大起倉庫」は『書紀』に記述がないぐらいですから、実際にも「近畿」(飛鳥)からは「遺跡」としては出ていません。しかし、「筑紫」(太宰府)の遺跡からは「蔵司」として「建物跡」が出土しています。

 「太宰府市史」(考古資料編)によれば、この遺跡は「三間×九間」の「礎石建物」やその周辺から多数の建物跡が検出されるなど、「奈良時代から平安時代」までの間において「九州最大規模」といわれるほどの建物遺跡であって、発見された「礎石」には「柱座」が造り出されているなど非常に立派なものであり、これであれば『書紀』で「大起」と言われるに直するものでしょう。その規模から言っても「三失」の筆頭にあげられるのも理解できるほどのものであると思われます。
 つまり「斉明」は「民衆」から「財物」つまり「財産」や「貴重品」など高価なものをその持てる権力に任せて集めたという訳ですが、それが「筑紫」にあった(集められていた)こととなります。 
 これと関係していると考えられるのは「安閑紀」にある以下の記事です。

「宣化紀」(五三六年)夏五月辛丑朔条」
「詔曰食者天下之本也黄金万貫不可療飢白玉千箱何能救冷夫筑紫国者遐邇之所朝届去来之所関門是以海表之国候海水以来賓望天雲而奉貢自胎中之帝泪于朕身収蔵穀稼蓄積儲糧遥設凶年厚饗良客安国之方更無過此故「朕遣阿蘇仍君未詳也加運河内国茨田郡屯倉之穀」「蘇我大臣稲目宿禰宜遣尾張連運尾張国屯倉之穀」「物部大連麁鹿火宜遣新家連運新家屯倉之穀」「阿倍臣宜遣伊賀臣運伊賀国屯倉之穀」修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難以備卒亦宜課諸郡分移聚建那津之口以備非常永為民命早下郡県令知朕心」

 この中に「修造官家那津之口」という表現が出てきますが、この「官家」というのが上に見た「蔵司」ではないでしょうか。
 この記事中では「筑紫国」の重要性が強調されると共に「自胎中之帝泪于朕身」という表現で「応神」から「自分」まで同様に「筑紫」に「穀」を運んでいたとする訳ですが、実際的には「自分」が「利歌彌多仏利」であり、「胎中之帝」とは「応神」であり、また「阿毎多利思北孤」となるものと考えられ、自分と父の二代に亘る事業であったことを示していると思われます。
 しかし、「筑紫」に運ぶべき理由としてそこに書かれた理由ははなはだ「薄弱」であり、これはそもそも当時の倭国の中心が「筑紫」にあり、「西日本」全体に対して「筑紫」へ「収穫物」(特に穀)を貢上するよう指示・強制をしていたのではないかと考えられます。
 それが「斉明」時代に「穀」以外にも多量の「財」を集めるようになったことを示すものであり、「収奪」の体制が整ったことによりいっそう「王権」強化の一環として「祖」「庸」「調」という収税システムが稼働し始めたことを示すという可能性があると思われます。

 また、先の記事中には「斉明」の土木工事好きの一端が書かれています。
 (以下再掲)

「…時好興事 迺使水工穿渠 自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石 順流控引於宮東山 累石為垣。…」

 この記事の中の「香山」は(後でも述べますが)、「奈良」の「香久山」ではなく「大分の鶴見岳」のことと思われ、「石上山」はその名前の「石上」氏が元々「物部」の氏族であり、この名前をかぶせられている山も実は「物部」に関係する山であるとすると、「物部郷」とされる「浮羽」近くに想定が可能です。
 また、ここで「自香山西」と書かれていますが、実際には「鶴見岳」「から」水路を引いたというわけではないと考えられ、水路の「起点」が「物部郷」付近から見て「鶴見岳」が見える地域(方向)であったと言う事と考えられます。
 このような位置関係に掘られた水路遺跡としては、「天の一朝堀」と呼ばれるものがあり、これは「浮羽町」の山北の丘陵地帯に「東西方向」に伸びる「深さ20m」、「幅68m」、「長さ240m」の「年代」「用途」不明の「濠」と推定される遺跡です。
 「深さ」から言ってかなり大型の構造船でも浮かべることができると考えられ、「造船」に何か関係があったのかも知れません。
 また、「石運積爲丘」も「高良山神護石」遺跡がそれと考えられ、そう考えると『書紀』に記された「斉明」の「三失」は全て「筑紫」に存在していることとなります。
 このことは前段に記した、この時期の「斉明」の本拠が「筑紫」にあったと推定されることと重なるものです。
 また、「九州倭国王朝」の政権機能がこの時点で「難波副都」から「筑紫首都」へ復帰していた事を意味すると思慮されるものです。

 「斉明」が当初結婚していたという「高向王」は「我姫」に総領として派遣されていた「高向臣」と同一人物であると考えられますが、彼は「守屋」に荷担した結果、「我姫」へ「隠流」(左遷のバリエーション)となったものであり、その「物部守屋」の支援勢力が「新羅」であったと思われ、そのことから彼に同盟していた「高向」「中臣」も同様であったと考えられます。つまり、「高向氏」は「親新羅系氏族」であったと考えられ、(「玄理」も「遣唐使」として往復の際に「新羅」を経由しているのもそれを証しているようです)現在もかなりの数の「高向姓」が「九州北部」(福岡県に特に多い)に居住している事実から考えても、婚姻関係にあった「宝女王」も「新羅系」であって、本来「九州」にいたものではないかと考えられます。
 「斉明」の本拠が「九州」にあったことを示すように『書紀』には「六六一年」の記事として以下のものがあります。(「半島」へ派兵するという時点での記事)

「斉明七年(六六一年)三月丙申朔庚申条」「御船還至于娜大津。」

 上のように「難波」から船を出して「筑紫」に到着した時点の表現が「還至」という訳ですから、出発地点も「筑紫」(娜大津)であったことを示していると考えられます。その「還至(到)」という表現は『書紀』内にかなり多く見られますが、いずれも「出発地点に戻ること」です。例えば「斉明天皇」が死去した際の「皇太子」の行動として以下の記事があります。

「(六六一年)七年…
三月丙申朔庚申。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。

五月乙未朔癸卯。天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。

秋七月甲午朔丁巳。天皇崩于朝倉宮。
八月甲子朔。皇太子奉徙天皇喪。『還至』磐瀬宮。」

 これを見ると「朝倉宮」に遷る前にそれ以前に「筑紫」に到着した時点で「長津」に「仮宮」を設けたとされており、「朝倉宮」で亡くなられた後に「長津仮宮」へ戻ったことがわかります。このような際に「還至」という表現がされているわけであり、「元々いた場所」に戻るという意味で使用されていると思われます。(他の使用例も皆同様です)

 「斉明(皇極)は前述したように「舒明」と「双子」であったと考えられ、また「父」である「押坂彦人大兄」が失脚したか、死去したか不明ですが「史書」から全く姿を消した後、「皇極」は「筑紫」の「宗像族」に引き取られていたのではないでしょうか。
 上に見るように「皇極」が「筑紫」と深い関係にあるとすると、彼女と「市杵島姫」が同一視されるという可能性が考えられます。
 彼女は「宗像氏」つまり「龍王」の娘として成長し、その後伝来した「法華経」に帰依して、瀬戸内を「布教」しながら移動(東行)し、その後「近畿」に至ったと見られ、その時点で「舒明」と再会したものと見られます。
 この「舒明」は「利歌彌多仏利」を意味するものと思われ、それは『日本帝皇年代記』の中で「帝」という称号が奉られているのは「田村帝」と書かれた「舒明」だけであることからいえるものです。
 「利歌彌多仏利」は明らかに「皇帝」の地位に就いていたものであり、ここにおいて「田村帝」という存在と「利歌彌多仏利」は同一視されると見られる訳ですが、それは即座に「厩戸皇子」とも同一視されることを意味しています。
 「厩戸皇子」という存在は「聖徳太子」を意味する名称ですが、その「聖徳太子」は「利歌彌多仏利」(一部はその父である「阿毎多利思北孤」)の投影であると考えられますから、ここで「田村帝」(田村皇子)と「厩戸皇子」は同一人物であることとなります。さらにそのことから、「皇極」(中津王)と「市杵島姫」と「厩戸勝鬘」が同一人物という事が示唆されることとなります。
 「厩戸皇子」と「厩戸勝鬘」が「双子」であり「兄妹」であると考えると、同じ「厩戸」という「宮」号を名乗っていることも理解できることとなります。

 
(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2018/03/11)