ホーム:倭国の七世紀(倭国から日本国への過渡期):「舒明」と「皇極」(「斉明」)について:

「皇極」(斉明)と「高向王」について


 「斉明天皇」は「舒明天皇」と「結婚」する前の名前が「寶皇女」であったと言い習わされていますが、それは後年の改称であり、本来は「寶女王」でした。「女王」であれば、男性の「王」と敬称がつく人物達と同様、「近畿王権」の支配の外にある存在であると考えられます。
 そして『書紀』によれば「寶女王」時代に(つまり「舒明天皇」に嫁ぐ前に)「高向王」と結婚しており、「漢皇子」を設けた、と書かれています。
 「斉明紀」の冒頭に以下のように書かれています。

「天豐財重日足姫天皇 初適於橘豐日天皇之孫高向王 而生漢皇子. 後適於息長足日廣額天皇 而生二男一女. 二年 立為皇后 見息長足日廣額天皇紀.」

 ここで「高向王」との間に生まれた子供は「漢皇子」であるとされ、「漢」の字がつくわけですから、両親のどちらかが「渡来系」と考えられるわけですが、可能性としては「高向王」であると思われます。
 この人物に比定できるのは『本朝皇胤紹運録』の「用明」の皇子の中に「高白皇子」がおりその子に「漢皇子」がいるとされ、そこには「母皇極」と書かれていることです。これが「高向王」という存在につながるものと思われます。
 ただし、この「皇統紹運録」の「漢皇子」記事はいわば付け足しのように書かれており、これは『書紀』にそう書かれているので付加したという形跡が濃厚です。

 「坂上氏」など各氏族の系図上にも「漢王族」に連なる「高向王」という人物についての情報があり、「孝徳朝」で「准大臣」に任ぜられ、「敏達天皇」の孫「茅濡王の娘」と結婚した、などと書かれています。
 「皇極」は「舒明天皇」と結婚したとされるぐらいですから、その前に結婚していたという人物もそれほど身分の低い人物とは考えられず、「准大臣」という表現はあながち誇張とも考えられません。

 では実際に存在していたのは誰なのでしょうか。この「高向某」に比定すべき有力な人物は三人います。ひとりは「高向玄理」です。
 彼は「高向漢人玄理」とも「高向黒麻呂」とも書かれますが、明らかに「渡来系」の人物です。もう一人は「高向国忍」です。そして最後に「我姫」に総領として派遣されていた「高向臣」(名前は不詳)です。
 このうち「國忍」については、『続日本紀』に彼の子供とされる「高向朝臣麻呂」の死去した記事があり、それによれば「國忍」は「刑部尚書」であったとされます。

「和銅元年(七〇八年)八月 丁酉。攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。」

 この「刑部尚書」とは現在で言えば「警察」と「検察」「司法」などの権限を併せ持った人物であり、かなり強い権力を持っていたものと考えられます。つまり、「坂上氏系図」に言う「准大臣」という官位にも該当すると考えても不自然ではないことは確かです。
 しかし、彼には年齢の点で問題があるようです。彼の「息子」である「高向麻呂」が亡くなったのが「七〇八年」とされているわけですが、その「麻呂」は「六八一年」には「小錦下」の官位を授けられています。

「(天武)十年(六八一年) 十二月癸巳田中臣鍛師。柿本臣猿。田部連國忍。高向臣麻呂。粟田臣眞人。物部連麻呂。中臣連大嶋。曾禰連韓犬。書直智徳并壹拾人授小錦下位。」

 この時「麻呂」が「三十歳」程度と考えると「国忍」が「刑部尚書」にいる期間にできた子供と考えられ、その当時彼(高向国忍)も三十歳前後と考えると「生年」はちょうど「六二〇年」付近となると思われ、これでは「寶女王」よりもかなり年下となると考えられます。
 「寶女王」は「六三〇年」に「舒明即位」と『書紀』にあり、この時点で既に「舒明」との間に子供がいることになっていますから、推定される年齢からは、それ以前に「高向国忍」との間に子供を作ることは困難であると思われます。
 
 また「玄理」は「遣唐使」として「唐」に派遣されたのが『書紀』では「六〇七年」とされていますが、「帰国」が「六四〇年」となっており、さすがにこの滞在期間は長すぎるものと考えられ、「六三一年」に派遣されたという遣唐使の帰国の船に(「会丞」などと同時に)になぜ同乗しなかったのかその理由が不明となっています。
 いずれにしろかなり長い間「倭国中央」を離れていたと考えられますから、「漢皇子」を設けたとするとかなり若い頃のこととなると考えられます。しかし、「遣唐使団」の中に「学生」として派遣される場合は、当然「唐」で勉学に励む目的で派遣されるわけですから、この場合「長期間」帰国できなくなるのは覚悟する必要があるわけであり、また往還の際に「遭難」するという危険も高く、それらを考慮して「学生」などは「係累」(「妻子」)のいない人物を選ぶのが通例であったと思われます。
 「白雉年間」の遣唐使の内訳などから推察されることですが、まだ「成人」したばかり程度の若者を選んで送り込んでいるようです。(もちろん「遣唐使節」は別ですが)
 これらのことから「高向玄理」が「遣唐使」として派遣された際に、すでに「寶女王」と結婚していてその間に「漢皇子」を設けていたとはやや考えにくいということは言えそうです。

 そうすると可能性があるのは「総領」として「我姫」にいた「高向臣」ではないかと言うことです。この人物については「任命」や「派遣」された時期や年齢などが不詳である訳ですが、「総領」の仕事を補佐していたと考えられる「中臣幡織部連」という人物は、「守屋」に連座して「我姫」に流されたという人物と同一ではないかと考えられます。
 このことに関して「関東」に伝わる「羊大夫」伝承では、「物部守屋」滅亡の際に「羽鳥連ないし服部連」がその「一味」として「流罪」となって東国に来たとされています。またこのような重大事件の際は「本人」はもとよりその子供(特に男の子)も「流罪」になると言う例が多く、この時の「中臣幡織部連」も「父」に連座したという可能性があります。そうすると「五九二年」付近の時点で「少年」であったと考えられ、彼と共同で「我姫」を統治していたという「高向臣」も推定される「寶女王」の年齢とそれほどのギャップはないものと思われます。
 これらのことから考えると蓋然性が高いのは「名前」が不詳の人物である「総領」である「高向臣」がその相手であったのではないかということであり、彼らは「利歌彌多仏利」の改革により「総領」となり、その時点で「寶女王」と結婚し、その後「漢皇子」を設けたと言う事となります。つまり、「漢皇子」の生年としては「利歌彌多仏利」の即位時点と思われる「六一九年」以後であったという可能性が高いと考えられます。

 「総領」であった「高向臣」がその後どうなったのか、『書紀』には一切書かれていませんが、『常陸国風土記』には「七世紀半ば」のこととして、「総領」である「高向臣」が「評分割」などの権力を発揮して存在しているのが分かります。彼は「総領」という立場でしたから、「五位以上」相当の位があったものであり、「准大臣」という言い方も全く的外れではないと思われ、まだこの段階で健在であることが知られます。
 つまり、「我姫」に総領として派遣されていた「高向某」という人物との婚姻関係がもっとも蓋然性が高いものと思料され、彼との間に「倭京」改元時点付近で「漢皇子」を生んだものと見られます。
 彼女はこの後「舒明天皇」と結婚すると言うこととなるわけですが、その辺りの詳細は不明ですが、少なくとも「天智」が彼女の子供であるとすると、「舒明」が「田村皇子」時代に既に生まれていることとなります。
 そう考えると「漢皇子」を生んだ直後に「田村皇子」と結婚したこととなるでしょう。
 そうしなければならなかった理由が存在すると思われますが、それに関連しているのが「舒明」(田村皇子)との関係です。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2014/03/04)