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「伊勢」と「倭姫」


 「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。
 この「日葉酢媛命」は、その死に際して「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。

「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」
「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」

 しかし、「近畿」では「人型埴輪」は「五世紀」中頃付近で既にかなりの数が現れますから、これは確かに上のエピソードとは合わないわけですが、他方「古田氏」も指摘していますように「九州」は「埴輪」そのものの受容も遅く、また「人形埴輪」については「五世紀後半」に九州地域にも一部に見られるようになりますが、それも「六世紀半ば」になると「埴輪」自体が姿を消します。
 これらのことは「筑紫」の「古墳」とそれに付随する「埴輪」という観点で考えると、上のエピソードは整合していると考えられます。
 また『皇太神宮雑記帳』には「倭姫」が多くの「忌詞」を定めたという記述があります。

「…仏《乎》中子《止》云、経《乎》志目加弥《止》云、塔《乎》阿良々支(友?)《止》云、法師《乎》髪長《止》云、優婆塞《乎》角波須《止》云、寺《乎》瓦葺《止》云、斎食《乎》片食《止》云、死《乎》奈保利物《止》云、墓《乎》土村《止》云、病《乎》慰《止》云、如是一切物名忌道定給《支》亦祓法定給《支》」

 この中に記される「忌詞」には「仏教」関連のものがあり、このことは彼女の時代に既に仏教が存在し、しかも「寺院」や「法師」が既に存在していたということを示すものと考えられ、実年代についても「六世紀半ば」以降であることが推察できます。(このことは「瓦」が崇峻年間に初めて倭国に伝えられたという『書紀』の記述が真実を伝えていないことを示すものでもあります)
 これらのことから、この「垂仁紀」の「埴輪」のエピソードも、視点を「筑紫」周辺に移動すると整合する内容であり、この事からその「日葉酢媛命」の「皇女」である「倭姫」も「筑紫」あるいはその至近の場所に存在していたという可能性が高いと思料します。しかも、『万葉集』に現れる「淡海」では「鯨」が採れるとされています。

「万葉集巻二 一五三番歌」
「<太>后御歌一首 鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立」

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ]邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波袮曾 邊津加伊 痛莫波袮曾 若草乃嬬之 念鳥立
(意味) 鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ

 これは「天智」の「后」(大后)と考えられる人物(これがまた「倭姫」です)が、「天智」の「殯」に際して詠ったとされる「淡海」についての歌であるとされます。 
 ここでいう「大后」とは「倭国王」の皇后にあたる人物であると考えられ、これは実際には「利歌彌多仏利」の「正夫人」を指す名称ではないでしょうか。

 「利歌彌多仏利」も「薩夜麻」も共に「淡海」に「拠点」を設けたものであり、また「天智」は「近畿」の「琵琶湖」付近に「淡海」を「移植」したとも考えられるものです。これらに共通しているのは「海」であり「海人族」との関係です。「伊勢の海」を我がものにするためには「海人族」を味方につけなければなりません。
 「利歌彌多仏利」は「親新羅勢力」との対決に「海人族」(宗像氏族か)の力を利用したものであり、「薩夜麻」は「百済を救う役」という一大決戦に「阿曇」「阿部」という海人族の勢力を利用したと考えられ、ともに海人族との関係を強化していたことが推定されています。
 そして、「利歌彌多仏利」と「薩夜麻」は「筑紫」の「淡海」、「天智」は「琵琶湖」の「淡海」であり、双方とも海人族の一大勢力である「安曇氏」の勢力下と考えられる点が共通しているのが注目されます。

 彼らの王権の祭祀の中心が「宇迦之御魂大神」であり、それを祭っていたのが「伊勢神宮」の前身であったと思われるのです。そして「東国」を支配するために「前進基地」を難波に作った際に「伊勢の神」を祭る社も「遷宮」し、現在の「伊勢神宮」後に「鎮座」したものと考えられるわけですが、その際に各諸国に対し「伊勢神宮」つまり「宇迦之御魂大神」を祀るように圧力を加えたものと推量します。
 本来各諸国にはその土地の神様がいたはずですが、それらに代えて倭国に深い関連のある神様(「宇迦之御魂大神」)を祀るよう強制したものであり、中央(倭国王権)への帰属、服従の強制が実施されたものとみられるわけです。
 このあたりのことは『常陸国風土記』の中にも書かれています。それによれば、「夜刀の神」という「蛇」がご神体の神がいて、それまでは「神の場所」と「人の場所」を別にすることで「神」が「祟る」ことがないように、「社」を設けて「祭っていた」ものでしたが、「難波朝廷」の時に「任命」された官人「壬生連麿」が、その神に対しなんの畏敬の念も持たず、文字通り「虫けら」のごとく追い払った、と書かれています。これは明らかに「土着」の神に対する「信仰」の軽視であり、今後はそれらに替えて「倭国中央の」神を「祭る」ことを強制したものと考えられます。そしてその「祭祀」の中心に新たに置かれたものが「宇迦之御魂大神」であり、その後「稲荷」として祀られるようになったものと思われるものです。


(この項の作成日 2011/07/06、最終更新 2019/05/12)