『古事記』は上巻・中巻・下巻と分かれています。当然ではありますが、このように三巻に分かれていることには意味があるのであり、特に各「巻」の始めに配置されている、「天御中主神」、「神倭伊波禮毘古天皇」、「大雀皇帝」は「画期」とも言うべき「三者」であると考えられます。
彼等にはそれぞれ「神」、「天皇」、「皇帝」という称号が付いているわけですが、いずれも「始祖」とも「開祖」とも言えることを示すものです。
「天御中主神」は「古事記上巻冒頭」で「天地初發之時、於高天原成神名天之御中主神(以下略)」というように最初に産まれた神とされ、まさにこの国の(というよりこの「世界」の)「始祖」です。
また「神倭伊波禮毘古天皇」は「神武天皇」ですが、彼は「九州」から「東征」して「近畿の王」である「長脛彦」を打倒し「橿原宮」に初めて朝廷を開いたとされています。つまり「近畿王権」の「開祖」というわけです。
また「大雀皇帝」という人物については、「仁徳」であるとされていますが、彼に使用されている「皇帝」という称号は重要な意味を持つものであり、彼以前にはこのような称号を持った「天皇」(倭国王)は存在していませんでした。彼がこの国で初めて「皇帝」という称号を与えられた(使用した)人物なのです。そして、この「皇帝」という称号は周知のように「唯一無二」の存在であり、それはそれまでの「倭国王」とは違う「レベル」の権力者である事を示すものです。
この三者が「各巻」の冒頭を飾るわけですが、またそのことは彼等に共通するものがあったことを示すものでもあると思われます。つまり、「仁徳」「神武」「天之御中主」は各々比肩しうる治績やその王権の性格があったものと考えられるわけですが、特に『古事記』が書かれた時点における「王」から見て、この三者のうち「最近」の「人物」である「仁徳」が重要視されているのは明らかと考えられ、その「仁徳」の治績が「神武」、ひいては「天之御中主」に投影されている事を示すと推量されます。この事は「吉野の国栖(国巣)」が「奉仕」する記事が「神武」と「仁徳」にだけ見られることからもいえると思われます。
「神武」との関連では「神武」達が「熊野」から「大和」へ移動途中に「吉野」の山中で「彷徨」しているときに出会う形で登場するのが「吉野の国巣(国栖)の祖である」と「注」に書かれています。
また、『延喜式』などに描かれる「大嘗祭」でも「寿詞」を奏する役目として「吉野の国栖」が登場しますが、彼らは「仁徳」の時代以降毎年朝貢するようになったものであり、それほど昔から「皇室」と関係が「密接」である、というわけではないと思われます。その意味では「神武」との関連と言うより「仁徳」との関連の方が関係が重視された結果の「大嘗祭」での「寿詞」を奏するという役割であると言えるわけです。
つまり、このことはこの「三者」の中では「最近」の人物である「仁徳」が最重要人物であることを示すものであり、彼が「皇帝」と称せられていると言うことは、この『古事記』が書かれた時点の「王」とその側近において「仁徳」を賛美し、「正統化」することが最重要課題であったことを示すと考えられます。
また、そのような「正統化」というものが『仁徳記』と「神話」の構造の近似という形で表されているとも考えられます。
そこでは「応神」がその皇子達「三兄弟」(「大山守」「大雀」「宇遅能和紀郎子」)に「治めるべき」「分野」を各々に割り振った事が書かれていますが、これは「神話」において「伊弉諾」が割り当てた「天照」「月読」「素戔嗚」の三兄弟に対する「分治」と「相似構造」を持っていると考えられます。
「応神記」によれば「大山守命」には「山海の政」を、「大雀命」には「食国の政」、そして「宇遅能和紀郎子」には「天津日継」を治めさせるというように書かれています。
それに対し「国生み神話」では「天照」に「高天原」を統治させ、「月読」には「夜の食国」を、「素戔嗚」には「海原」を統治させるとしています。
このように「この世界」を三者に「分治」させるようにしたという点で、「応神紀」と「国生み神話」の世界は共通していると考えられるわけです。ただし、『記』では「大山守命」と「素戔嗚尊」、「宇遅能和紀郎子」と「天照」、「大雀尊」と「月読命」という対応となると考えられますが、「追放される」運命の人物の対応は成立しているものの、「天津日嗣」を受けるはずの人物(「宇遅能和紀郎子」)は現実には「死に至る」事となったわけであり、ここでは「対応関係」が成立していません。このことから「仁徳」以降の「王権」は「月読」系のものであったことが知られます。
これに関しては『隋書』の記事が参考になるでしょう。そこでは「遣隋使」が「隋」の皇帝(これは「文帝」)から問われて答えたという中に「天為兄以日為弟」という表現があり、それを「無義理」とされ「訓令」により改めさせられたとされています。ここでは「倭国王」が、自らが「天」であることを規定していたことを示すと思われますが、文脈から見ても「天」とは「夜」でありまた「月」であると思われます。「記紀」の神話では「イザナミ」「イザナギ」から「天照」「月読」「素戔嗚」が生まれたとされますが、この「使者」の言葉からは「阿毎多利思北孤」が「月読」であってしかも「兄」であることとなります。(万葉では「月読壮人(おとこ)」という表現が見られ、「月読」は元来男性と考えられていたことがわかります)また「天照」(日神)が弟(これも本来は「男」)であったと理解できるでしょう。
そして「神話」の世界では「弟」である「山幸彦」が「兄」である「海幸彦」と互いの支配する領域を取り替える事となるストーリーが展開されるわけであり、そう考えるとこのような「神話」の形成は「遣隋使」以降のことと考えるのが正しいこととなるでしょう。逆に言うと「仁徳」段階ではまだ「神話」の形成が進んでおらず、「月読」である「大雀尊」が「兄」であり、また主役となっていると思われることとなります。それが「阿毎多利思北孤」の代まで継承されていたと言うこととなるでしょう。
「阿毎多利思北孤」が「月読」であり、「海人」であり「海幸彦」であるというのはその「阿毎(あま)」という「姓」からも窺えるものです。これはその後も「海人族」を示す語として残ることとなったものです。
また、同様にして「天孫降臨神話」というものも「仁徳」とその周辺人物の事績を「神話」として「固定化」し「偶像化」するために書かれたものと思料されます。
西村秀己氏の研究に拠れば、「記紀」の「天孫降臨神話」時点の系図と「神功皇后」付近の系図が「酷似」していることが確認されています。
それによれば「天下り」の「当人」である「瓊瓊杵尊」とその「母」である「萬旗姫」、更に「父」である「天忍穂耳命」や「瓊瓊杵」の子である「彦火火出見」などの関係の「全体」が、「応神天皇」とその周辺の人物達に対応するとされます。つまり、「瓊瓊杵尊」が「応神天皇」に比定されるのを始め、その母「神功皇后」、「父」の「仲哀天皇」、「子」の「仁徳天皇」などの関係が「天孫降臨神話」と「相似形」を為すとされています。これらのことも先ほどの「分治」策と同様に「仁徳」の正統化のために位置づけられたものと見ることが出来るでしょう。
「天孫降臨」という事績(行為)については、すでに考察したように本来的には「弥生時代」の始まりという時期に「周」の王権の関係者が「倭国」へやって来て、倭国の権力中心となったという事実の反映と考えられるわけですが、これと同様それまで「統治実績」がないか、著しく「原始的」であった領域に「支配」の「くさび」を入れたことを示すと考えられ、それは「仁徳」が「皇帝」と称されるような行動をとったことを示すことを裏付けるものであり、ここで何らかの「強い権力」の発現に相当することが行われたことを示すものと思料します。(それが神話の時代から予定されていたことという主張となっている)
このように「仁徳」が「下巻」の冒頭に「開祖」として書かれ、しかも「最近」の「祖」として書かれている事、そして彼に対してその「正統性」の証明が必要になるということは、『古事記』が「推古」の時代までしか書かれていない事とつながります。つまり「推古」までがある「一時代」を示すものであり、それ以降は「別の時代」の位相を呈すると言う事であると思われるわけです。
また「下巻」が「仁徳」(大雀皇帝)で始まり「推古」で終わるというのはある意味「絶妙」な配置であり、その『推古記』が『隋書たい国伝』に書かれた「利歌彌多仏利」の時代であることは偶然ではないと考えられます。
「仁徳」の尊称として書かれている「皇帝」という称号は、中国で「秦の始皇帝」に始まるものですが、それ以前には「王の王」という地位にある立場の自称として「帝」が既に使用されていました。この「帝」はそれまでの「天子」と違い、「実力」(武力)により「覇権」を握った王という意味があったと考えられ、「祭祀」の主催者という意味合いが大きい「天子」という「称号」とは明らかにその性格が異なるものでした。しかし、「秦」の「始皇帝」に至って、「諸国」から「王」を廃止し、「官」が各地域へ派遣され、「始皇帝」の意思を忠実に実現するための体制が構築されるに及んで、「皇帝」という「帝」を更に上回る「強い権力者」としての呼称が生まれたものなのです。そのような「強い権力者」として「皇帝」の存在と、彼の意志を透徹するための制度である「郡県制」を構築し維持するためのツールである「律令」及びそれによる「法治国家」の成立と、それを可能にした「官道」の整備とそれを通じて展開可能な軍事力の充実などは、軌を一にするものであると考えられます。
「大雀皇帝」という存在についても同様な事情がその「皇帝」称号の背後にあると考えられ、彼の時代に「強い権力」が発現され、「郡県制」が施行されると共に、「律令制」が施行された事を示すものと言えます。
「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡託宣集』の中には「仁徳の代」の記事として「此皇始置諸国司又始位階」と書かれていますが、『書紀』中にはそのような記事が見られないことから、これは「独自性」のある記事と考えられます。しかし私見によれば「利歌彌多仏利」は「六十六国分国」事業を行い、「我姫」などに「令制国」と同等の領域を持つ「國」を成立させたと考えられますから、この『宇佐八幡託宣集』の記事は「阿毎多利思北孤」と「仁徳」とがまさに「重なる」ということを示すと言えるでしょう。
また、このように「仁徳」に冠せられている「皇帝」という「称号」は、その思想的立場として『隋書俀国伝』において「遣隋使」が持参した「国書」に記載されていたという「日出所の『天子』」というように、自身のことを「天子」と称する「思想」と重なるものです。このことから、彼の生きた時代というものが、本来は「隋」代であった事を示すものではないかと推察され、「彼」(仁徳)が「利歌彌多仏利」の投影であるならば、「彼」の時代において「権力」が「大幅」に「強化」されたことは「諸史料」から「事実」と考えられるわけであり、「皇帝」というような称号は彼にこそふさわしいと言えると思われます。
(上に見たように中国では「皇帝」以前から「天子」称号は存在していたわけですが、「倭国」ではそれが「同時」に導入されたものであり、「中国」でもこの二つの称号は以降ほぼ「同義」であることとなって、特に差異を云々する必然性がない事態となります。このような時代性がこの「皇帝」「天子」という両称号が併用される素地となっていると考えられます。)
また、『書紀』と『古事記』にはかなり多数の「歌謡」が含まれており、(共通する「歌謡」を差し引いても残り百九十首あるとされています)その「歌謡」が最多出現するのが「応神」「仁徳」両天皇の時代であることが確認されています。このことだけでも「両書」の中でこの「二天皇」がいかに「特別視」されているか分かりますが、加えて、その歌謡に使用されている「枕詞」についても際だった特徴があることが判明しています。つまり、『書紀』と『古事記』には共通の「歌謡」があり(約五十首)、そこで使用される「枕詞」についてもほぼ共通しているわけですが、「応神」「仁徳」の時代に使用されている「枕詞」「だけ」が「両書」で異なっているのです。
一般に「枕詞」は変化しにくいとされ、それは「短いこと」「すぐ下の音節や語に掛かる」必要があるという特徴などからですが、そのようなものが『古事記』と『書紀』の表面上の時間差(八年間)という期間の割には異なっているのは「不審」とされているわけです。しかも他にも「助詞」の違いなど「微細」な違いがこの「応神」「仁徳」という両天皇の部分に限って存在しているのです。これらの理由としては『「紀」と「記」が互いに意識した結果』という指摘がされることもあります。つまり(特に)「書紀編纂者」が『古事記』の内容を把握・熟知しており、「敢えて」それと変えているというのです。もちろん両史書の成立の事情を考えるとそのような可能性もなくはないと思いますが、しかし、それは「紀」と「記」の全般に言えることであり、特に「応神」「仁徳」の両帝の場所だけに限らないわけですから、そのような考え方では解決できる問題ではないといえます。
この理由として最も考えられるのは「応神」「仁徳」の両天皇の時代の「歌謡」については「未定」つまり、定まった読みなどがなく、「確定」していなかったと言うことではないでしょうか。つまり、他の部分は既に定まった用字・用語があり、そのため「両書」で大きく異なる事はないと言うことと考えられるものです。この事は即座にこの「両天皇」の時代の歌謡が「新しい」と言うことを示していると考えられるでしょう。
「応神」「仁徳」両天皇の時代が「新しい」とすると、特に『古事記』の場合は「推古朝」までしかない(つまり一番新しいのは『推古記』であると言う事)ことから、「応神」「仁徳」両天皇の「実年代」が「推古朝」から遠くない、あるいは「重なっている」ということを示すものではないかと思われます。
『書紀』では「百済」から「王仁」という人物が「論語」と共に「千字文」を「応神朝」にもたらしたとされていますが、(この人物は「なにはづ」の歌を詠んだとされる)「千字文」は「南朝」「梁」の時代に作られたものであり、「応神」の時代とされている「四世紀」や「五世紀」とは時代が全く合いません。
実際には「六世紀前半」に「千字文」は成立したものであるのは確実ですから、「倭国」に伝来したのが「六世紀後半」であるのはそれほど「不審」ではないこととなります。この事からも、「応神朝」の真の時代が「六世紀後半付近」であることが想定されることとなり、それは「阿毎多利思北孤」の時代に限りなく「接近」することとなるものです。
またそれは『隋書俀国伝』の中で「倭国の風俗」を記した中に「如意寶珠」に関する記述があることにも関係していると思えます。なぜなら「千字文」の中に「如意寶珠」について「夜光るのが特に良い」という意味の語句があるからです。
(千字文)「1-18」「…劍號巨闕 珠稱夜光…」
この「語句」を下敷きにしているとすると「遣隋使」の教養の中に「千字文」があったこととなり、「千字文」の伝来時期が彼の人生の中のことであった可能性が強いことを示すと思われます。
また『日本後紀』の中に書かれている「藤原継縄」の「桓武天皇」に対する「上表文」の中に以下の表現があります。
「襲山肇基以降清原御寓之前、神代草昧之功往帝庇民之略」
この文章は『続日本紀』の前に存在していた「前日本紀」の書かれている範囲としての表現です。そして、これに続く『続日本紀』の「範囲」としては「文武」から以降が書かれているという意味の文章となっていて、このことから「清原御寓」が「文武」の治世を指す表現と推察されるわけですが、この「清原宮」が実は「難波朝期」に「筑紫」に存在した「飛鳥浄御原宮」を指していたことが明確となったことにより、「清原御寓之前」という「倭国王」は「利歌彌多仏利」が該当すると考えざるを得ないこととなりました。
ここでは「襲山肇基」と「神代草昧之功」、「清原御寓之前」と「往帝庇民之略」とが「対句」を構成していると見られるわけですが、「清原御寓之前」というのが『隋書俀国伝』に登場する「利歌彌多仏利」であるとすると、「清原御寓之前」と「対句」として構成されている「往(いに)しへの帝の庇民の略」という部分も「利歌彌多仏利」の治世を指していることとなります。
ところで、「往帝」つまり「いにしえの帝」というように「帝」を冠して称される人物は「古今和歌集」でも「みかどのおほんはじめ」が「仁徳」とされ、また後の『懐風藻』その他でも「仁徳」は「聖帝」と称されているなどの例から、この日本後記」の記述の「往帝」も「仁徳」を示すものであると考えるのが至当です。それを示すものが「庇民」という言葉です。この「庇民」とは「庇」が「かばう」「守る」という意義があることから「民を守護する」という、「為政者」の行なうべき最高のこととされ、「礼記」にも「庇民之大德」とも称される「先例」がある用語です。このような用語が使用される条件を備えているのは、「仁徳」に他ならないと考えられます。それは「竃の煙を見て租を停めた」と伝えられる古事がまさに「庇民」にふさわしい事績であり、それを行ったとされる「仁徳」がまさにその人物として適合すると考えられるものですが、このような「人物」について「清原御寓之前」つまり「利歌彌多仏利」の業績として描かれているということと考えられることとなります。
更に「利歌彌多仏利」の業績と考えられる事に「十七条憲法」の制定があるとすると、その内容が「庇民」という用語にふさわしいことにも気づきます。「十七条憲法」の中身を見ると「統治者」に対する「心得」的条項が主なものであり、そこではあたかも「護民官」の如く「民衆」対する粗雑な取扱を戒めるものとなっています。その意味でも「仁徳」と「利歌彌多仏利」の同一性が否定できないこととなります。
「仁徳」はその後「平安朝」などの各「王権」からも「賞賛」されている事実があり、この「天皇」を「理想」とする考え方が「八世紀以降」の王権にあったことが窺えます。
(この項の作成日 2011/04/19、最終更新 2018/04/22)