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「五衛府制」について


 『養老令』に見える「五衛府」(「左右兵衛府」と「左右衛士府」「衛門府」)については、以前からその各々の構成の違いがあることが知られていました。明らかに「兵衛府」及び「衛門府」つまり「地方豪族」に関わる制度の方が先行し、「衛士府」など「班田農民」の存在を前提にしている制度が後出するといえます。
 従来は「兵衛」は「舎人」と関係しており、「衛門」は「靫負」と関係しているとされます。しかもいずれも「国造」の子弟から選ばれたものとも言われます。その意味では「泥氏」が言うように「兵衛府」や「衛門府」は「九州倭国王朝」時代の名残といえるかも知れません。(※)
 ところで、この「兵衛府」や「衛門府」の成立はいつ頃であったでしょう。
 これら「舎人」や「靫負」などに象徴される「地方」の勢力の存在の元に、そのサポートにより「共立」されていたというような時代はかなり古いと考えられますから、少なくとも「阿毎多利思北孤」の「革命政権」の樹立よりも先行すると考えられます。
 たとえば「倭の五王」の「武」の上表文には「虎賁」という表現が出てきます。

「…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士『虎賁』、文武效功、白刃交前、亦所不顧。…」

 この「上表文」の中に出てくる「虎賁」(こほん)は中国では「皇帝」に直属する部隊をいい、いわば「親衛隊」を意味するものです。
 この「上表文」では「古典」に依拠した表現を使用し、「南朝」の「皇帝」など相手側に理解しやすいように言い換えていると思われますが、当然「倭国内」では別の呼称をしていたと思われ、それが「兵衛府」ではなかったかと考えられます。それは後の「藤原仲麻呂」時代(天平宝字二年(七五八年))に「兵衛府」が「虎賁衛」(こほんえい)と改称された例からもいえると思われます。
 その「兵衛」の典型的或いは代表的と言ってもいいのが「大伴」「佐伯」「久米」等の氏族であったと思われます。彼等は「聖武天皇」の「陸奥出金の詔」においても「海ゆかば」という彼等の家訓が示されているように、「皇帝」の至近に警衛している家柄であり、「虎賁」つまり「兵衛府」の有力な氏族であったと思われ、彼等のような氏族のサポートにより維持されていた時代が「倭の五王」の時代であることが推測されるものです。(この「海ゆかば」と「武」の上表文はどこか似ています)
 また、それは「兵衛府」が「中務省」という、「倭国王」に直結する組織に配されていることからも窺えます。更にその「兵衛府」の長官を「率」と表記し「そち」と訓ずるとされていたことも重要です。別途述べますがこの「率」は「魏晋朝」時代まで遡上する起源を持っていると思われ、「率善校尉」「一大率」に使用されている「率」と同義である可能性が強いと思われます。そのように「率」そのものの起源が古いと見られることはその「率」を以て「長官」としている「兵衛府」の組織自体もやはり歴史的なものである可能性を考えるべきでしょう。
 しかし、「阿毎多利思北孤」とそれに引き続く「利歌彌多仏利」の革命により、「公地公民」という概念が導入され、全ての「土地」と「人民」は「倭国王」の所有に帰するものという「テーゼ」が提示され、これに基づき諸制度が定められていったと思料されますが、そのようなものの中に「衛士」つまり「班田農民」からの選抜による「軍」の編成というものがあったと思われ、この事は「五十戸制」の導入と「衛士府」等の成立がほぼ同時であったことを推定させるものといえます。それは「隋制」に「衛士」があることからも推定できます。
 中国においていわゆる「府兵制」という制度は「隋」「唐」で完成したとされますが、これはいわゆる「班田農民」のうち一部を(輪番制で)「兵士」として、農閑期などに「折衝府」に集めて訓練し,また「衛士」として国都や辺境の守備に当たらせたものとされます。
 この事から「隋代」以降「倭国」が導入した諸制度の中に同様の「府兵制」と「衛士」の制度があった可能性が高く、「五十戸制」と同時の導入であったと考えられるでしょう。

 古代中国では「兵衛」は有力各豪族が自己の領域に開いた「軍府」の兵士を言い、「北周」以前から各地に存在していたものですが、これを「隋代」に再編成し「十二衛府」へと変更したものです。この段階で「府兵」と「禁軍」とに分かれました。「府兵」は「班田農民」で構成された「衛士」であり、「禁軍」は皇帝直属の「兵衛」であったものです。
 「倭国」にはこのような制度も存在していたと思われ、各々の諸国の有力者は各自軍団を保有していたと考えられ、それが「兵衛」の前身であったと思われますが、「倭の五王」の時代になり、いわば「大統一時代」、つまり「九州」やその周辺だけではなく、「東国」全般に影響力を及ぼすための(「戦闘」と言うより)「威圧行為」(それは「馬と剣」による)を行っていったと考えられますが、逐次勢力下に置いた各国の有力者から(「質」の意味もありますが)「子弟」を徴発し、「倭国王」の周辺の警護に配置していったものではないでしょうか。これが後の「兵衛府」となっていたものであり、「武」の上表文に書かれた「虎賁」であったと考えられます。
 彼等は「倭国王」の至近に存在することとなるわけですから「氏素性」が明確であることが求められたものであり、そのような人物を父ないし祖に持つようなものだけが「近習できる」というある意味特権でもあったのです。これは「隋・唐」でも行われていた「宿衛」に非常によく似た存在であったと思われます。
 「宿衛」は「各諸国」(例えば「新羅」や「吐播」など)からある種「人質」として受け入れた人員を「皇帝」の近くでボディーガード役とするものであり、「新羅」からは「金春秋」の息子(金仁問)が「宿衛」とされていたという記録があります。
 しかし、「倭国」ではこのような前代から継承した、ある意味「非近代的」ともいえる制度は、その後の「隋制」(「府兵制」と「五十戸制」)の導入により漸次その意味が低下していったと考えられ、「泥氏」も言うように「五衛府」の中で相対的に比重の低い地位しか与えられないと言うこととなったと考えられます。

『隋書俀国伝』に拠れば「朝会」の際には「儀仗」が「陳設」されると書かれており、また「国楽」を奏するとも書かれています。これらは主に「親衛隊」によるものであったものでしょう。

 「…雖有兵、無征戰。其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂…」

 「儀仗」とは「儀式用」の「武器」を指し、上の文章に拠ればそれを「陳設」するとされていますから、展示、並べるわけです。それは「倭国王」の威儀を示すものですが、それが「儀仗」となるためには「ストーリー」が必要であり、それは現在「無征戦」であっても過去においてはそれが「儀仗」ではなく「実用」であった時代の存在を想定させるものでもあります。
 そのことはいくつか例が挙げられている「武器」からもいえます。そこには「弩」や「投石機」のような大がかりな戦闘用のものが含まれており、これが上に見たような「大統一時代」に「倭国内」の統治領域を拡大する過程で活躍したことを推定させるものです。
 しかし、これら「武器」があってそれを使用する「人間」がいなくなったというはずがないわけですから、「無征戦」とはいいながら、「兵員」は確保されていたと思われます。ただし、それは「各氏族」に直結するものであり、「朝廷」(倭国王)のものではなかったものではないでしょうか。つまりこの記事は「府兵制」が未確立の段階の軍制であったと思われ、「兵衛」による「禁軍」だけの状態におけるものであった事が推定されます。(それは「八十戸制」と推察される戸数表現からも制度が未発達な段階にあることが推定されることからもいえます)
 その後「班田農民」による「衛士」が朝廷周辺の警護を担当するようになったと見られます。そして、これは「京師」構築と関係があるともいえるでしょう。つまり、「京師」「都城」が構築されたとすると、「倭国王」本人の警護だけではなく、その都城を守護する防衛組織も必要となったと思われるわけであり、これが後の「衛士府」「衛門府」へとつながっていったと考えられます。
 後の「五衛府」でも「兵衛府」以外は朝廷周囲の警護であり、また市中への見回りなどの役目もありました。これは「都城」あるいは「京師」の存在を前提に考えるべき組織であると思われます。

 また『続日本紀』には「筑紫」に対して「兵衛」と「采女」を貢上するよう指示を出した記事があります。

「(七〇二年)二年夏四月壬子条」「令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。」

 これによればそれまでは「筑紫七國」(及び「越後」)は「采女」も「兵衛」も出していなかったこととなります。この「兵衛」が上に見たように「諸国」から「質」として取った存在であるらしいことを念頭に入れると、この時点以前には「筑紫七国」は「諸国」ではなかったこととなり、逆に言えば「直轄領域」であったことが推定できます。つまり、「筑紫七国」のいずれかに「王都」があったこととなるわけですが、この「大宝二年」という段階では「諸国」つまり「王権」中央ではなくなっている事が読み取れ、「筑紫」から「王都」が「近畿」に移動した(遷都か)のがこの時点付近であることとなるでしょう。(ただし実際の年次としては『続日本紀』のこの周辺の年次が「移動」の可能性が考えられることを想定すると、「七世紀半ば」での「王権」の移動というものも考慮すべき事となります)

 ところで「天武」の死去の際に各「官」により「誄」が奏されたわけですが、その中では「左右兵衛府」だけが登場しており、「衛門府」(「衛士府」も)による「誄」がそこには見られません。
(以下関係記事)

「平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次直大參當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
乙丑。諸僧尼亦哭於殯庭。是日。直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事。次直大肆■原朝臣大嶋誄兵政官事。
丙寅。僧尼亦發哀。是日。直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事。次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事。次直廣肆穗積朝臣虫麻呂誄諸國司事。次大隅。阿多隼人及倭。河内馬飼部造各誄之。
丁卯。僧尼發哀之。是日百濟王良虞代百濟王善光而誄之。次國々造等随參赴各誄之。仍奏種々歌舞。」「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔甲子条」

 記事の中では「壬生」「諸王」「宮内」「左右大舍人」「左右兵衞」「内命婦」「膳職」「太政官」「法官」「理官」「大藏」「兵政官」「刑官」「民官」「諸國司」「隼人」「馬飼部造」「百濟王」「國々造等」という順列により国の各組織の各々が「誄」を奏しているにもかかわらず、「衛門府」(「衛士府」も)が登場していません。これは省略されたとは考えられず、この時点では「衛門府」「衛士府」は存在していなかったという可能性を考える必要があります。そのことはこの段階では「京師」が成立していなかったという可能性につながります。つまり「門」があってこその「衛門府」であり「衛士府」であったはずですから、彼らの存在が確認できないということは「都城」そのものが形成されていなかったか、あるいは「都城」に不可欠の「門」がなかったという事にならざるを得ません。
 よく知られているように「藤原京」やそれ以降の「平城京」などには複数の「門」があり、それには「王権」を守護する役目の各氏族の名前がつけられていたものであり、これは各々の氏族には名誉と考えられていたものです。彼らの氏族より選抜された者達により「門」と「宮城周囲」の警護が行われていたものであり、それが「衛門府」であったと思われるわけですが、発掘によれば「難波京」にはそのようなものが確認できず、そのような門が「難波京」では造られなかったという説があります。

 藤原宮朝堂院東門と東第二堂の調査(奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部二〇〇三・三・十五)によれば「平城宮東区朝堂院以前の時代には、東門が存在するかは不明でした。今回藤原宮朝堂院で確認したことにより、藤原宮以後、平城宮東区朝堂院(上層)以前に造営された後期難波宮(なにわのみや)朝堂院、平城宮東区朝堂院下層にも、東西の門が存在していた可能性を指摘できます。一方、藤原宮造営以前の宮殿として前期難波宮がありますが、調査の結果からは門が存在する可能性は低く、現状では藤原宮朝堂院東門は朝堂院東西門の最も古い例といえます。」というように報告されており、「東門」がなかった可能性が報告されていますが、「東門」に限らず「西」の他「諸門」がなかったという可能性は高いと推量します。そのことは「天武」が「難波宮」にいたという可能性を推定させます。もし彼が「難波宮」にいたなら「衛門府」など「門」に関する警護の担当による「誄」が奏されなくて当然と言えるからです。それは「難波宮」の時代と「天武」という人間の時代について再検討をする必要があることを示唆するものです。


※泥憲和「大宝律令の中の九州王朝」(『古田史学会報』No.68 二〇〇五年六月一日)


(この項の作成日 2013/05/12、最終更新 2018/04/22)