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「忍坂王家」と「蘇我氏」


 「皇祖大兄」についてそれが「忍坂日子人大兄」であることは『書紀』の記述からも明らかですが、彼は「息長氏」の系列に属する人物でした。彼の母親は「息長眞手王女廣姫」とされています。また彼女は「敏達」の最初の皇后であったとされており、彼らの宮は「百済大井宮」と呼称されていたようです。

「(五七二年)(敏達)元年夏四月壬申朔甲戌。三。皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后。
是月。宮于百濟大井。」

「(五七五年)(敏達)四年春正月丙辰朔甲子。立息長眞手王女廣姫爲皇后。是生一男。二女。其一曰押坂彦人大兄皇子。更名麻呂古皇子。其二曰逆登皇女。其三曰菟道磯津貝皇女。…」

 この「宮」の所在地については諸説あるようですが、「奈良県桜井市」の「広陵町」にあったとみるのが相当でしょう。その後「廣姫」が亡くなり、新たに迎えたのが「推古」でした。そして彼らの宮は新たに設けられた「譯語田宮」という場所であったものです。

「(五七五年)(敏達)四年…
是歳。命卜者占海部王家地與絲井王家地。卜便襲吉。遂營宮於譯語田。是謂幸玉宮。
冬十一月。皇后廣姫薨。」

「(五七六年)(敏達)五年春三月己卯朔戊子。有司請立皇后。詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后。是生二男。五女。。其一曰菟道貝鮹皇女。更名菟道磯津貝皇女也。是嫁於東宮聖徳。其二曰竹田皇子。其三曰小墾田皇女。是嫁於彦人大兄皇子。其四曰■■守皇女。更名輕守皇女。其五曰尾張皇子。其六曰田眼皇女。是嫁於息長足日廣額天皇。其七曰櫻井弓張皇女。」

 「敏達」が死去した際には「殯宮」は「広瀬」に設けられたとされていますが、これは「百済大井宮」の至近であったと見られます。

「(五八五年)(敏達)十四年…
秋八月乙酉朔己亥。天皇病彌留崩于大殿。是時起殯宮於廣瀬。」

 このような場合「宮」の近くに「殯」する場所を設けるのが通常であり、その意味では「推古」との「譯語田宮」の近くではなく前皇后との宮である「百済大井宮」の至近が選ばれているのは不審といえます。
 またこの「推古」の「母」が「蘇我稲目」の「娘」である「堅鹽媛」であることを考えると、『書紀』などで「蘇我氏」の権威が高かったと一般に考えられることと齟齬しているように感じられます。

(五四一年)(欽明)二年春三月。納五妃。元妃。皇后弟曰稚綾姫皇女。是生石上皇子。次有皇后弟。曰日影皇女。此曰皇后弟。明是桧隈高田天皇女。而列后妃之名。不見母妃姓與皇女名字。不知出何書。後勘者知之。是生倉皇子。次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛。堅鹽。此云岐施志。生七男。六女。…其四曰豐御食炊屋姫尊。…」

 しかし、既に述べたように「敏達」以降「忍坂日子人大兄」またその「弟王」である「難波王」などに権威が継承されていったらしいことが推測されるわけですが、それはとりもなおさず「息長氏」の影響力が強かったことを推定させるわけであり、その意味で「敏達」の殯宮も「廣姫」との「宮」の至近である「広瀬」に営まれたことはある意味当然であったともいえると思われます。それは「敏達」の「夫人」として「蘇我氏」が父親である子供が一人もいないと言うことにも現れています。このような婚姻関係の薄さは「敏達」の前後を見ると希有なことであり、「忍坂王家」と「蘇我氏」の関係の薄さを物語るものであって、同時に「忍坂王家」とその背後にいる「息長氏」の関係の深さをまた物語るものでもあります。
 またこれについては『書紀』によれば「大臣」である「蘇我馬子」が自ら「吉備」に赴き「屯倉」に関する事務を処理している間にこれらの后と夫人達の人選が行われたと見られ、その意味でも「蘇我氏」の意向は強く反映されていないものと思われます。この「馬子」の行動は「敏達」の指示によるものと思われ、彼は困難な仕事を任されると共にその成果を問われる意味もあったものであり、それは「蘇我氏」全体の評価につながる結果になるものでそのため「馬子」としては

 『書紀』では「推古」と「蘇我氏」あるいは「聖徳太子」にクローズアップされて書かれていますが、実際には「敏達」以降「忍坂王家」が「王権」の主流であったと見るべきと思われるわけであり、そう考えれば『隋書』に「倭国王」と描かれた人物が「男性」であることは奇妙ではなく、「忍坂日子人太子」あるいは「難波皇子」などの「忍坂王家」の人物が該当すると考えることができるでしょう。(この段階で「王権」と「息長氏」との関係が深いとされるのは、すでに検討した「神功皇后」の時代がちょうどこの年次付近であると推定されることと重なっています。なぜなら「神功皇后」はその名を「息長足姫尊」といい、「息長氏」の一員である事が明確だからです)

 ところで「忍坂日子人太子」は『古事記』によれば「甲辰年」つまり「五八四年」に死去したとされます。(この部分の解析からはこの「崩年」が「敏達」に関わるものではないことが推察できます)
 この年次は明らかに「隋使」発遣以前ですから、この『隋書』の中の「倭国王」は「日子人太子」ではないこととなります。その場合次代の「倭国王」は誰であったでしょうか。
 この時代は「兄弟相承」が基本であったという考え方がありますが、もしそうなら必然的に「難波皇子」にその座が行くこととなります。
 つまり、この『隋書』に書かれた「倭国の風俗」部分が「遣使」以前の状態を写したものと考えると、この時点の「阿毎多利思北孤」と称した人物は「難波皇子」であったという可能性が高いのではないでしょうか。そうすると、彼の朝廷を「難波朝廷」と称したとも考えられ、「評制」の全国展開が彼の時代とすると、伊勢神宮の起源とも関連して整合的理解ができると思われます。(「なにはづ」の歌との関連も考えるべきことでしょう)


(この項の作成日 2014/12/10、最終更新 2018/04/21)