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『百済僧』『觀勤』の上表


 以下は古賀達也氏の研究(※)に依拠します。

 仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の『推古紀』の中に興味深い記事があります。

「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。』故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」

 この記事の中には「夫佛法自西國至于漢經三百歳。」という文章があります。つまり、「仏法」が「西国」から「中国」(漢)を経由して「百済」に伝わるまで「三〇〇年」かかったというのです。
 五世紀「東魏」の「楊衒之」が撰した『洛陽伽藍記』では、西国(インド)から中国への伝来は「後漢の明帝」の時代(紀元五十七〜七十五年)とされ、一般にはこれは「紀元六十七年」のことと考えられています。

「白馬寺漢明帝所立也 佛入中國之始 寺在西陽門外三里 御道南帝夢金神長丈六項背 日月光明金神號曰佛遣使向西域求之乃得經像焉 時白馬負而來因以為名 明帝崩起祗?於陵上 自此從後百姓冢上或作浮焉寺上經凾 至今猶存常燒香供養之經… 」『洛陽伽藍記/卷四 城西/白馬寺』
 
 これによれば、「後漢」の「明帝」が「西域」に遣使し「経像」を求めたものであり、それを白馬が背負ってきたので「洛陽」に「白馬寺」を建てたとされ、それが仏教の「中国」における「始め」であると書かれています。 
 また「百済」に「東晋」より仏教が伝来したのは、『三国史紀』によれば「三八四年」とされています。

「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)

 この間は「三八四−六十七=三一七年」ですから、これを「三〇〇年」の経過、と表記するのはそれほど間違いではないと思われます。しかし問題はその後です。「觀勒」の上表文では「乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。」、つまり、百済に伝わってから「僅か一〇〇年」と言っているようなのです。
 「百済」に伝来してから「百年」ということは、この「上表」の年次は「三八四年」+「一〇〇年」=「四八四年」付近のこととなってしまいます。
 さらに「貢上佛像及内典未滿百歳」、つまり「倭国」に仏教が伝来してからは「一〇〇年未満」というのですから、「八十年」前後と考えれば、「倭国」への伝来の年次は百済に伝来した年次である「三八四年」に「百−八十年」(=二十年)ほどを加えて「四〇四年」前後、という事となります。こう考えなければ「上表文」の趣旨と合致しません。
 ただし、「観勒」は「西国」から「漢」を経由して「百済」に伝来するまで「三〇〇年」かかったと言っていますが、上記の計算では「三一七年」となり、「十七年」の誤差があります。「観勒」の表現法にはこの程度の誤差があると考えると、「百年」にも「百年未満」という数字にも「十年程度」の誤差があっても不思議はありません。つまり「伝来」については上に見た「四〇四年」に対し十年程度の出入りを考える必要があるでしょう。また上表した時期についても「五〇〇年」程度までその幅を広げて考えるべきと考えられます。ただし、いずれにしても「観勒」の時代として「五世紀末」程度を想定する必要があり、「倭の五王」の一人である「武」に対して行われた「上表」であると見るのが相当ではないかと思われることとなります。

 また、この推定はこの時点で「僧正」「僧都」「法頭」などが任命されたという記事内容とも合致します。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 これらの「僧尼」を統制管理する職掌の「中国」における原型は「東晋」の頃のようですが、「王権」が「僧尼」等に対する監督としての「職掌」として任命したのは「南朝劉宋」の「順帝」の「昇明年間」に「楊法持」という人物を「僧正」としたとされているのが最初と考えられます。

「宋時道人楊法持與高帝有舊,元徽末,宣傳密謀。昇明中,以為僧正。…。」『南史/列傳第六十七 楊法持』の段

 この記事は「武」が「上表文」を提出した年次の至近となります。つまり、彼が派遣した「使者」が「僧尼」を管理する「管掌」としての「僧正」という存在を知識として持ち帰ったという可能性(蓋然性)は非常に高いと考えられますが、このことは「観勒」が上表した結果、それに応じて「僧正」などの任命を行ったという『書紀』の記事と整合するものといえ、彼の「真の」時代が「武」の時代であることを強く示唆するものです。(「観勒」という人物名が五世紀のものであるかは不明であり、全くの別人であったという可能性もあるとは思われます。)


(※)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か〜「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)


(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2017/06/03)