「狗奴国」率いる諸国連合の「王」は「卑弥弓呼」という人物とされますが、彼らは同じように祭祀の主宰者であったものですが、その方法論で食い違っていたものと思われます。
「狗奴国」は「銅鐸圏」の中心王朝であったと思われ、「紀元〇年」付近に「西日本」全域を襲った「巨大地震」とそれに伴う「巨大津波」によって「生活」と「習慣」を破壊された人々を再結集した勢力であり、「津波」の大きさに見合う「巨大銅鐸」を「祭器」として使用することで、「鬼神」の祟りを鎮めることを「祭祀」の中心とした勢力であった可能性が高いものと推量します。
「卑弥呼」は「鬼道」に事えるとされますが、これは「五斗米道」の流れを汲む、ある程度「新しい」信仰であり、それは「疫病」に対応するためのツールとして機能していたとも考えられるわけです。しかし「卑弥弓呼」はより原始的な「鬼神信仰」であったと思われ、(当時としては)「近代化」されていなかったものでしょう。
たとえば、「卑弥弓呼」の支配領域では「疫病」の流行もそれほどではなく、「卑弥呼」の提唱する「鬼道」によらなければならない必然性がなかったものではないかと推測されます。
中心王朝である「狗奴国」つまり「卑弥弓呼」の支配領域が「近畿」付近であると考えると、当時はそこまで人の流れが多かったとも思われず、半島や大陸から流入した人々の割合も「九州」付近に比べれば圧倒的に少なかったとみられ、「疫病」の蔓延もそれほどではなかったと思われます。
疫病が蔓延するためには潜伏期間に多くの人々がかなり長距離を移動するという現実がある必要があり、この時点ではそのような可能性は低いものと思われ、「疫病」がもし「北部九州」で蔓延したとしても即座に「近畿」がその範囲に入ったとは思えません。(難波が百済など半島からの渡来者が多くなるのは「古墳時代」以降と思われ、この「弥生末期」という時期にはそれほど多くはなかったであろうと思われます。)そうであれば「卑弥呼」と「不和」であったという理由も理解できそうです。
「卑弥呼」は「疫病」の流行や気候不順などを旧来の「祭祀」に原因を求め、それを変革しようとしたものではないでしょうか。その「変革」は「五斗米道」的な要素を取り入れた中に存在していたと推測され、新しく「鬼道」というものを樹立したものでしょう。
また「疫病」の蔓延を防ぐ実効策として人の移動を制限したり、「隔離」など接近禁止的方策などを行ったと見られ、さらに領域の境界において「祓え」や「禊ぎ」を強く義務づけるなどの策を行ったと見られますが(それは「男弟」の実務としてのものであったと思われますが)、それは「近畿」から見ると人や物資、文化などの流入を制限するものとなったこともまた「対立」する要因となったと推定されます。それに対し否定された旧来の「祭祀」を守ろうとしたのが「卑弥弓呼」であったとみられるわけです。
彼は「卑弥呼」に匹敵する「宗教的指導力」があったと考えられ、「近畿以東」をまとめて「邪馬壹国」に対抗する力を備えたものと思料します。
その後「播磨東部」付近を境界として「邪馬壹国」の統治範囲と「狗奴国」率いる「諸国連合」とが対立する構図となったものと思料します。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2017/12/25)