『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」
この「歴年」については『三国志』中に多数の使用例がありますが、いずれも複数年に亘ることを示す表現ではあるものの具体的な年数はその後に示すのが普通であり、それがない場合はせいぜい数年間を示す用語と思われます。
具体的な年数を示す場合を以下に示します。
「遷光祿勳。帝愈攝昼{殿,彫飾觀閣,鑿太行之石英,采穀城之文石,起景陽山於芳林之園,建昭陽殿於太極之北,鑄作?龍鳳皇奇偉之獸,飾金?、陵雲臺、陵霄闕。百役繁興,作者萬數,公卿以下至于學生,莫不展力,帝乃躬自掘土以率之。而遼東不朝。悼皇后崩。天作淫雨,冀州水出,漂沒民物。隆上疏切諫曰:蓋「天地之大コ曰生,聖人之大寶曰位;何以守位?曰仁;何以聚人?曰財」。然則士民者,乃國家之鎮也;穀帛者,乃士民之命也。穀帛非造化不育,非人力不成。是以帝耕以勸農,后桑以成服,所以昭事上帝,告虔報施也。昔在伊唐,世?陽九厄運之會,洪水滔天,使鯀治之,績用不成,乃舉文命,隨山刊木,前後『歴年二十二載』。災?之甚,莫過於彼,力役之興,莫久於此,堯、舜君臣,南面而已。禹敷九州,庶士庸勳,各有等差,君子小人,物有服章。今無若時之急,而使公卿大夫並與廝徒共供事役,聞之四夷,非嘉聲也,垂之竹帛,非令名也。是以有國有家者,近取諸身,遠取諸物,嫗煦養育,故稱「ト悌君子,民之父母」。今上下勞役,疾病凶荒,耕稼者寡,饑饉荐臻,無以卒?;宜加愍?,以救其困。」(『三國志/魏書 二十五 辛?楊阜高堂隆傳第二十五/高堂隆』)
ここでは「歴年二十二歳」とされ、この「歴年」の具体的年数が「二十二年間」であることが示されています。
また以下の例では「数百年」であることがわかります。
「…太和中,?上疏曰:「大魏受命,繼蹤虞、夏。孝文革法,不合古道。先帝聖コ,固天所縱,墳典之業,一以貫之。是以繼世,仍發明詔,思復古刑,為一代法。連有軍事,遂未施行。陛下遠追二祖遺意,惜斬趾可以禁惡,恨入死之無辜,使明習律令,與羣臣共議。出本當右趾而入大辟者,復行此刑。書云:『皇帝清問下民,鰥寡有辭于苗。』此言堯當除蚩尤、有苗之刑,先審問於下民之有辭者也。若今蔽獄之時,訊問三槐、九棘、羣吏、萬民,使如孝景之令,其當棄?,欲斬右趾者許之。其黥、?、左趾、宮刑者,自如孝文,易以?、笞。能有姦者,率年二十至四五十,雖斬其足,猶任生育。今天下人少于孝文之世,下計所全,?三千人。張蒼除肉刑,所殺?以萬計。臣欲復肉刑,?生三千人。子貢問能濟民可謂仁乎?子曰:『何事於仁,必也聖乎,堯、舜其猶病諸!』又曰:『仁遠乎哉?我欲仁,斯仁至矣。』若誠行之,斯民永濟。」書奏,詔曰:「太傅學優才高,留心政事,又於刑理深遠。此大事,公卿羣僚善共平議。」司徒王朗議,以為「?欲輕減大辟之條,以揄v?刑之數,此即起偃為豎,化屍為人矣。然臣之愚,猶有未合微異之意。夫五刑之屬,著在科律,自有減死一等之法,不死即為減。施行已久,不待遠假斧鑿于彼肉刑然後有罪次也。前世仁者,不忍肉刑之慘酷,是以廢而不用。不用已來,『歴年數百』。今復行之,恐所減之文未彰于萬民之目,而肉刑之問已宣于寇讎之耳,非所以來遠人也。今可按?所欲輕之死罪,使減死之?、?。嫌其輕者,可倍其居作之?數。?有以生易死不?之恩,外無以?易?駭耳之聲。」議者百餘人,與朗同者多。帝以?、蜀未平,且寢。」
ここでは「大理」(刑官)担当から「肉刑」を復活させるべきという上表がされ検討したとされていますが、その中で「肉刑」が行われなくなってから「数百年」経っているという意味で「歴年数百」と書かれています。この「肉刑」が行われなくなったのは「前漢」の「文帝」の時代ですから、この「魏」の時代までに「四〇〇年」ほど経過していると思われ、確かに「数百」という表現は妥当といえます。
このように具体的な数字を伴う場合もあるわけですが、他方年数が何も書かれない場合も多く、その場合前後関係からその年数を推定すると、数年である場合がほとんどです。
以下に「年数」が書かれない場合で推定できる代表的なケースを挙げてみます。
「太祖圍張超于雍丘,超言:「唯恃臧洪,當來救吾。」衆人以為袁、曹方睦,而洪為紹所表用,必不敗好招禍,遠來赴此。超曰:「子源,天下義士,終不背本者,但恐見禁制,不相及逮耳。」洪聞之,果徒跣號泣,並勒所領兵,又從紹請兵馬,求欲救超,而紹終不聽許。超遂族滅。洪由是怨紹,絶不與通。紹興兵圍之,『歴年』不下。紹令洪邑人陳琳書與洪,喩以禍福,責以恩義。」(『三國志/魏書七 呂布臧洪傳第七/臧洪』)
ここでは「太祖」つまり「曹操」が「臧洪」の立てこもる城を攻めたが「歴年」降伏しなかったとされています。これは「一九四年」からの出来事であり、それが終息したのは「一九七年」とされますから、最大でも四年間と思われます。
以上から「歴年」とだけ書かれて、具体的な年数が示されない場合は「数年」以内のことを指すと思われ、この「倭王」をめぐる争いも同様であったものと考えられることとなるでしょう。そうであれば「男王」が統治して国情が安定していた時点から数えて「卑弥呼」の即位まで「八十年強」の年数が想定できることとなります。
この「七〜八十年」という表現から考えて、これは「一代」ではなく「二代」あるいは「三代」にわたる治世と推察されますが、『後漢書』にいう「帥升」がこの『倭人伝』にいう「男王」の一人であるとすると、「帥升」の貢献が「紀元一〇五年」ですから、彼を含めてそれ以降の男王期間が七〜八十年であったこととなり、「一八五年」付近にその混乱期間の始まりが想定できると思われます。つまり「卑弥呼」の即位はそこから数年後の「一八〇年から一九〇年」付近と推定されることとなるでしょう。(ただし、これについては「帥升」もそれ以前の「委奴国王」も「倭王」でもなく「倭国王」でもなかったという理解も可能ですから、彼ら以降に「邪馬壹国」の王が「男王」として立って、その時点以降のことを指すとも考えられるわけです。そうなると「卑弥呼」の即位はかなり遅れることとなり、「後漢代」ではなく「魏代」のことと理解する必要があるかもしれません。)
ここで「倭」で争乱が発生した原因は何だったのかというのが問題となるでしょう。その答えは「卑弥呼」が立って安定したという中に既に現れていると思えます。
「卑弥呼」は「鬼道」祭祀の主宰者であったわけであり、彼女の登場により政治が安定したということは、当時の社会がそのような霊的能力の高い人物を欲したということになるわけですが、それは即座に「宗教」に頼らなければならなくなった民衆の置かれた状況があったことを意味するものです。
「宗教」は現実の政治が果たせないあるいは果たせなくなった場合の「救済」が最も主たる使命であり、また効能です。それはこの時点で強烈な「社会不安」が発生していたことを示すものといえます。
「古代」における「社会不安」は特別なものではなく、実際には現在の私たちが抱くものとほとんど変らないものと思われ、それは「天候不順」や「天変地異」あるいは「伝染病」の蔓延などが根底にあったという可能性があり、それに対して政治が対応できなくなっていたことがあったものと思われます。そのため「宗教」の出番となったというわけです。
この頃は農業もまだまだ原始的であり、水害や旱害などにより不作となることがしばしばあったのではないかと考えられますが、特にこの時期に「社会不安」が発生するには別に理由があると思われますが、関係が深いと思われるのは「後漢」の政治状況です。
上に見たように「卑弥呼」の即位の前夜とでも言うべき時期は「後漢末」という時期が措定され、この時点付近で争乱が発生したというわけですが、「帥升」を「男王」の一人と仮定した場合には「卑弥呼」の即位年次として「後漢」で発生した「黄巾の乱」の時期とほぼ等しい(「一八四年」)というところに注目すべきこととなります。もしそれがもっと遅れるとしても事態は余り変らないと思われ、「後漢」王朝の衰微とそれに対応して争乱が発生したことと、この「倭国乱」との時期及び内容が近似していることに注目すべきこととなるでしょう。
一般には「後漢」が衰微していく過程は「梁冀」氏のような強力な人物が外戚となり「幼帝」を誕生させそれを陰で操る体制が生まれたことや、彼等を「宦官」と協力して排除したため今度はその「宦官」による専横を止められなくなったなどの理由により「皇帝」の持つ「権威」が大幅に低下したことが衰微の重要な要因とされます。しかし、実際にはそれらはさほど重要な要素ではないと思われます。なぜならそれらは「一般の人々」に直接関係したこととは思われないからです。
この「後漢」のような強力な王権が倒れるには「民衆」の苦しみが極大に達する状況があったとしなければならず、それに対して王権の側から適切な対応ができなかったことがそこに原因として横たわっていると思われます。
この時期「太平道」や「五斗米道」など道教系の新興宗教が発生し、多くの民衆の支持を集めそれが「黄巾の乱」など争乱に結びつくということとなったわけですが、その過程には天候不順による農業への被害が大きかったということが重要な要因としてあったものと考えられます。
『後漢書』など当時の記録を見ると、「旱害」あるいは「大水」「地震」というような自然災害も多かったとみられますが、そのような食糧事情の悪化は当時の衛生状態とも関連して「伝染病」の発生にもつながったものと思われます。
それを示すように同じく『後漢書』の中には「疫」「大疫」「疫癘」と称されるような「伝染病」とおぼしきものが蔓延していた事を示す記事が数多く見えます。
(以下「順帝」年間の『疫癘』と「考桓帝」と「考霊帝」の治世の中での『疫』『大疫』の例を挙げます。まず、「順帝」の治世期間に現れる『疫癘』の例です。)
「永建元年(一二六年)春正月甲寅,詔曰:先帝聖コ,享祚未永,早弃鴻烈。奸慝?間,人庶怨?,上干和氣,『疫癘』為災。朕奉承大業,未能寧濟。蓋至理之本,稽弘コ惠,蕩滌宿惡,與人更始。其大赦天下。賜男子爵,人二級,為父後、三老、孝悌、力田人三級,流民欲自占者一級;鰥、寡、孤、獨、篤?、貧不能自存者粟,人五斛;貞婦帛,人三匹。坐法當徙,勿徙;亡徒當傳,勿傳。宗室以罪?,皆復屬籍。其與閻顯、江京等交通者,悉勿考。勉修厥職,以康我民。
…冬十月…甲辰,詔以『疫癘』水潦,令人半輸今年田租;傷害什四以上,勿收責;不滿者,以實除之。」
(以降「桓帝」の『疫』『大疫』の例)
「元嘉元年(一五一年)春正月,京師『疾疫』,使光祿大夫將醫藥案行。癸酉,大赦天下,改元元嘉。
二月,九江、廬江『大疫。』」「後漢書/本紀 凡十卷/卷七 孝桓帝 劉志 紀第七/元嘉元年」
「九年春正月…己酉,詔曰:『比?不登,民多飢窮,又有『水旱疾疫之困』。盜賊?發,南州尤甚。?異日食,譴告累至。政亂在予,仍獲咎?。其令大司農?今?調度?求,及前年所調未畢者,勿復收責。其?旱盜賊之郡,勿收租,餘郡悉半入。』」「同上/延熹九年」
(以降同様に「霊帝」の治世期間の『疫』『大疫』の例)
「(建寧)四年(一七一年)…二月癸卯,地震,海水溢,河水清。
三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太尉聞人襲免 集解引惠棟?,謂案蔡質漢官典職儀載建寧四年七月立宋皇后儀,稱太尉襲使持節奉璽綬。襲於三月罷,不應七月尚與立后之事。何?云蔡氏所載是詔書,不應有誤,當是本紀所書拜罷未審也。按:校補謂袁紀建寧四年三月,太尉劉寵、司空喬玄以災異免,免太尉者不作聞人襲,其他拜罷亦多與范書異,則何?信也。太僕李咸為太尉。[一]字元卓,汝南西平人。
詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。」「後漢書/本紀 凡十卷/卷八 孝靈帝 劉宏 紀第八/建寧四年(一七一年)」
「二年春正月,『大疫』,使使者巡行致醫藥。」「同上/熹平二年(一七四年)」
「二年春,『大疫』,使常侍、中謁者巡行致醫藥。」「同上/光和二年(一七九年)」
「五年春正月辛未,大赦天下。
二月,『大疫。』」「同上/光和五年(一八二年)」
(以下「黄巾の乱」関係記事を挟む)
「中平元年春二月,鉅鹿人張角自稱「?天」,其部(師)〔帥〕有三十六(萬)〔方〕,其部(師)〔帥〕有三十六(萬)〔方〕 據殿本考證集解引惠棟?改。皆著?巾,同日反叛。[一]續漢書曰:「三十六萬餘人。」安平、甘陵人各執其王以應之。[二]安平王續、甘陵王忠。
三月戊申,以河南尹何進為大將軍,將兵屯都亭。置八關都尉官。[一]都亭在洛陽。八關謂函谷、廣城、伊闕、大谷、?轅、旋門、小平津、孟津也。壬子,大赦天下黨人,還諸徙者,[二]時中常侍呂彊言於帝曰:「黨錮久積,若與?巾合謀,悔之無救。」帝懼,皆赦之。唯張角不赦。詔公卿出馬、弩,舉列將子孫及吏民有明戰陣之略者,詣公車。遣北中郎將盧植討張角,左中郎將皇甫嵩、右中郎將朱儁討潁川?巾。庚子,南陽?巾張曼成攻殺郡守?貢。
夏四月,太尉楊賜免,太僕弘農ケ盛為太尉。[一]盛字伯能。司空張濟罷,大司農張?為司空。
朱儁為?巾波才所敗。
侍中向栩、張鈞張鈞 按:集解引惠棟?,謂袁宏紀作「均」。坐言宦者,下獄死。[一]時鈞上書曰:「今斬常侍,懸其首於南郊以謝天下,即兵自消也。」帝以章示常侍,故下獄也。
汝南?巾敗太守趙謙於邵陵。[一]邵陵,縣名,屬汝南郡,故城在今豫州?城縣東。廣陽?巾殺幽州刺史郭勳及太守劉衞。
五月,皇甫嵩、朱儁復與波才等戰於長社,大破之。[一]長社,今許州縣也,故城在長葛縣西。
六月,南陽太守秦頡?張曼成,斬之。
交阯屯兵執刺史及合浦太守來達,自稱「柱天將軍」,遣交阯刺史賈j討平之。
皇甫嵩、朱儁大破汝南?巾於西華。[一]西華,縣,屬汝南郡,故城在今陳州項城縣西。詔嵩討東郡,朱儁討南陽。盧植破?巾,圍張角於廣宗。宦官誣奏植,抵罪。[二]植連破張角,垂當拔之,小?門左豐言於帝曰:「盧中郎固壘息軍,以待天誅。」帝怒,遂檻車?植,減死一等。遣中郎將董卓攻張角,不尅。
洛陽女子生兒,兩頭共身。[一]續漢志曰續漢志曰 按:「志」原作「書」,逕據汲本、殿本改。:「上西門外女子生兒,兩頭,異肩共?,以為不祥,墮地弃之。其後政在私門,上下無別,二頭之象。」
秋七月,巴郡妖巫張脩反,寇郡縣。[一]劉艾紀曰:「時巴郡巫人張脩療病,愈者雇以米五斗,號為『五斗米師』。」
河南尹徐灌下獄死。
八月,皇甫嵩與?巾戰於倉亭,獲其帥。[一]其帥,卜已也。倉亭在東郡。
乙巳,詔皇甫嵩北討張角。
九月,安平王續有罪誅,國除。
冬十月,皇甫嵩與?巾賊戰於廣宗,獲張角弟梁。角先死,乃戮其屍。[一]發棺斷頭,傳送馬市。以皇甫嵩為左車騎將軍。十一月,皇甫嵩又破?巾于下曲陽,斬張角弟寶。
湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂為軍帥,攻殺護羌校尉伶?、金城太守陳懿。[一]伶,姓也,周有大夫伶州鳩。
癸巳,朱儁拔宛城,斬?巾別帥孫夏。
詔減太官珍羞,御食一肉;?馬非郊祭之用,悉出給軍。
十二月己巳,大赦天下,改元中平。
是?,下?王意薨,無子,國除。下?王意薨無子國除 按:集解引錢大マ?,謂下?王衍傳中平元年意薨,子哀王宜嗣,數月薨,無子,建安十一年國除。是意亦有子。郡國生異草,備龍蛇鳥獸之形。」「同上/中平元年(一八四年)」
「二年春正月,『大疫。』」「同上/中平二年(一八五年)」
このように頻繁に「大疫」と記され、何か強い感染力あるいは伝染力のある病気が蔓延していたことを窺わせるものです。さらに「桓帝」の「延喜九年」の「詔」では「比?不登,民多飢窮,又有水旱疾疫之困。」とされ、天候不順により食糧不足となっていることが記されていますが、「疫」以外にも「水害」や「旱害」を示す記録や地震あるいは「津波」と思われる記事などが再三にわたり書かれており、うち続く天変地異に多くの人々が悩まされていた実態が明らかとなっています。
そもそも「疫」とは多くの人がその病気に悩まされていたことを示し、さらに「癘」はその中でも「悪性の病気」を指す語ですから各種考えられるものの、その症状等が書かれていないため推測でしかありませんが、たとえば「天然痘」などもその候補の中に入るでしょう。
「天然痘」の感染力の強さと致死率の高さは比類がありませんから、この「疫癘」という致死率の高い悪性の流行病が「天然痘」を示すと考えてもそれほど不自然ではないこととなります。
記録上は「南北朝期」に「南朝」側の記録として「天然痘」と思われる記事が見られるのが最初とされますが、それが「北朝」からもたらされたとみられるわけで、「牧畜」の習慣を持っていた「鮮卑族」など匈奴の出身者が多かった「北朝」との交戦経験が「天然痘」の流行をもたらしたものと思われます。
たとえば「一六五年」から十五年間にわたってローマ帝国の領域で多くの死者を出した疫病(アントニウスの疫病あるいはアントニウスのペストと呼ばれるもの)と同じものが当時東方へ伝染していたと言うこともありうると思われます。当時「ローマ帝国」は「パルティア」(現在の「イラン」「イラク」付近にその中心があった)との戦争のため多くの人員を中近東付近に派遣しており、彼等が疫病をローマ領内へと運んだものと見られます。この疫病は天然痘と見られており、少なくとも350万人(一部には500万人という説もある)が死亡したとされますが、当時「ローマ」は「漢」との間に使者を交換しており、通交があったものです。これらの交流の結果が漢帝国内の疫病となったという可能性もあるでしょう。
ただし、「黄巾の乱」が当初発生した「河南地区」は当時の首都である「洛陽」を含んでおり、「夏」「殷」王朝やそれ以前の石器時代においても文化中心であったとみられており、その当時から「豚」などを家畜として利用していたことが判明しています。この地域から最初に「黄巾の乱」が発生したわけであり、彼等は「水害」「旱害」の他「疫癘」に悩まされていたという可能性は高いものと推量します。つまりここでいう「疫癘」は「家畜」との共通伝染病であった可能性が強く、その意味では「豚インフルエンザ」などもその候補として考えられるでしょう。
「疫癘」の正体がどの伝染病であっても「黄巾の乱」の発生した「河南」地区は「大農業地帯」であり、天候に恵まれていれば農民が生活に困ることはそうなかったはずです。それが「新興宗教」に頼らざるを得なくなったわけですが、そのようになった理由の一つは強い社会不安の存在であり、その根底に「病気」(「疫癘」)に対する恐れがあるとともに、生活そのものが破壊されていることに対する不安があったものと思われます。
「黄巾の乱」を起こした教団である「太平道」では罪を懺悔告白し、「符水」(お札と霊水)を飲み、神に許しを乞う呪文(願文)を唱えると「病が治る」とされ、支持を集めたとされ、いわゆる「現世利益」を目的としているとされますが、「病を治す」というところが主眼であったものであり、それが「疫癘」に対してのものであったことが推定出来ると思われるわけです。
このような「後漢」の混乱とそれに伴って発生した「宗教結社」の存在とが「卑弥呼」の前代の混乱及び「卑弥呼」の即位という事情に重なっていると思われるのです。
(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/07/08)