時代劇でおなじみの「遠山の金さん」は「腕」ないしは「背中」に「桜吹雪」の「入れ墨」をしていたとされています。もっとも正確には「入れ墨」ではなく「彫り物」というべきでしょう。「入れ墨」というのは「島帰り」つまり「遠島」(島流し)の刑に服したものが「役」の期間を終えて帰還後に、それが完了していることを示すものを身体に刻むものであり、地方により場所は異なりますが、江戸の場合は「二の腕」に「リング」状に「彫る」ものでした。(ちなみに「筑紫」だと「額」にするのです。これは「古代」の「文身」の習慣と関連があるかもしれません))このようなものを本来は「入れ墨」と称するわけですが、「遠山の金さん」の場合は別に「島帰り」ではありませんから、「彫り物」というべきものでしょう。彼が「彫り物」をしていたのは事実らしいですが、それが「桜吹雪」であったかは定かではありません。
ところで「彼」は「何故」彫り物をしていたのでしょうか。これにはかなり深いわけがあったのです。
彼は本名「遠山景元」といいますが、彼の父は「遠山景晋」といい、「勘定奉行」などを歴任した「能吏」であったものです。しかし、本来は「遠山家」の人間ではありませんでした。遠山家に「子供」が産まれず、跡継ぎが出来なかったため、養子に入ったのです。当時は跡継ぎが産まれなければ「お家断絶」となる可能性が強く、それを避ける為に「親類」から「養子」を迎えることとなったものです。
そして、彼が「養子」に入ってまもなく、事件が起きます。それは「養子」を迎えるほど子供が出来ずに困っていた遠山家に待望の(いや待望ではなくなってしまったタイミングで)子供が生まれてしまったのです。「景晋」は、自分が養子に来た意味がなくなってしまったと感じ、「家督」を生まれてきた「景善」に譲ろうとしましたが、公儀にも届け出が出てしまっていることでもあり、遠山家でもせっかく養子に来て貰ったメンツをつぶすわけにも行かず、「景晋」に家督が相続されました。「景晋」はそれを受けましたが、実子がいるのであるから、自分の次はその実子に家督を譲り、家系を戻すことを決めていたのです。しかし、その後「景元」(金四郎)という自分の子供が出来てみると親の人情として自分の子供に家督を譲りたいと考えるようになりました。
成長して、自分の置かれた状況が理解できるようになると「景元」は「実子」筋に家督相続を「戻すべき」と考えるようになったのですが、父である「景晋」は迷っていました。それを見た「景元」はある日「彫り物」をして帰ってきたのです。そして、その「彫り物」を父に見せて、自分には「家督」を継ぐ意志も資格もないと言う事を示したのです。それを見た「父」は「景元」の意図を悟り、実子である「景善」に家督を譲ることを決め、それはその通りになったのですが、彼(「景善」)の子供は幼いときに死んでしまっていたため、「景善」が死去すると、結局「景元」が家督を相続することとなったというわけです。
彼は父と同様「能吏」であったようであり、その優秀さを時の老中「水野忠邦」に見込まれ、「江戸町奉行」という大役を任され、見事に果たしたものです。その結果「彫り物」を背中に入れた「御奉行様」が誕生したということとなったものです。
この話は、下敷きとして「呉の太白」の伝説があったものと考えられます。
『魏志倭人伝』には「南朝劉宋」の「斐松之」という人物が校定した刊本があり、その中では『魏略』という書物からの引用が書かれているものがあります。この『魏略』は「二八〇年」に「魚拳」により書かれた魏の歴史書で、「陳寿」がまとめた『三国志』に先立つこと二〜三年の書物です。(現在は失われています)そこからの引用文の中には「倭人は呉の太伯の末裔であると自称している」という文があります。
「呉の太伯」というのは、紀元前十二世紀ごろの人で「周」の王子であったものですが、聖人の資質を持つ末弟(文王の父)に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、その地の風習である「文身断髪」を行い「後継ぎ」の意志と資格のないことを示しました。
当時「王」(天子)になるべき人物は「通常」の人物とは違うとされており、「支配」されるべき「未開」で「粗野」な人達の風習などを自ら行うような人物は「天子」にはなれないとされていたのです。それを行うことで「太伯」は「後継者」の候補から自ら脱落して、弟に道を譲ったわけです。彼は自ら「勾呉」と号し、「呉の太伯」と呼ばれました。(「史記」の「呉太伯世家」では周の古公亶父(ここうたんぽ)の長子・太伯(泰伯)とされる)
この「呉」の国は、「春秋時代(BC770〜BC402)」の列国「呉」の発祥であり、揚子江流域を領土としていたものです。その後江南には「呉」と「越」(「越」は「禹」の苗裔で「夏后帝少康」の後裔と称しました)との強国同士の争いが何度も繰り返されましたが、結局「紀元前四七三年」、「呉」が「越」に敗れその時多くの難民が日本にやって来たものと考えられています。
この「呉の太白」の話は上のように「司馬遷」の『史記』に出てくるものであり、このような漢文史料は当時の役人の必須の教養でしたから、「彼」や「父」である「景晋」が知らなかったはずはないと考えられ、彼は「天子」を継ぐべき資格はないことを示すために「呉の太白」が行ったという「文身」(彫り物)を自分もすることで、「家督」を継ぐ意志がないという自分の「固い意志」を示したものと考えられます。
また、このような「彫り物」をしているということは当時の町民レベルでも著名であったらしく、その「庶民性」は人気の的でしたが、彼はその「彫り物」を決して人には見せなかったとされています。
更に、自分を推挙した「老中」である「水野忠邦」と、彼と結託していた同じ江戸町奉行「鳥居甲斐守忠耀」の行った「天保の改革」という「節減策」の実行に当たり、彼等と違って民衆の側に立って生活の確保を考えながら行った結果、「大目付」という一見栄転ながら実は「閑職」という地位に左遷させられたりします。このような正義感なども人気の元であったかもしれません。
その後異例なことに再度「江戸町奉行」に戻され、(形式上降格となる)再び、江戸の治安維持と生活確保に尽力したものです。