(未採用論文。投稿日付二〇一五年十月十一日。)
「隋帝」による「訓令」とは
「趣旨」
『隋書俀国伝』によれば「倭(俀)国」の旧式な統治体制を耳にした「隋帝」はそれを「無義理」と認定し、そのため「訓令」によりそれを「改める」事としたとされますが、その「訓令」には「具体的」な内容があったと見られること。それは「統治」に伴う旧来の祭祀等の宗教的部分の見直しを迫るものであり、「法華経」を統治の根本とすることであったと考えられること。つまり「倭国」において「法華経」を尊崇することは「訓令」による半ば強制的なものであったこと。そのため「阿弥陀信仰」の隆盛は「六世紀末」付近から始まるとみられること。それらは特に「法隆寺」の各所に現れていること。その「隋帝」からの「訓令」として祭祀の変更が行われた影響あるいは効果により「前方後円墳」の築造停止が行われたと見られること。以上を考察します。
Ⅰ.「隋帝」による「訓令」について
従来その内容が余り詮索されておらず、重要視されていないと思われることに、「兄弟統治」と思われる政治体制を「遣隋使」が紹介したところ、「高祖」(文帝)はこれを「無義理」として「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。
「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰 此太無義理。於是『訓令』改之。」(『隋書/列伝/東夷/俀(倭)国』より)
この「訓令」については従来はあくまでも「倭国」の統治の体制や方法論などについて、それを「改めさせた」あるいは「止めさせた」という理解から出ていないようであり、せいぜい「中国式」なものへと変えさせたとする程度ですが、「訓令」という用語についての理解からみると、ここでは「倭国王」に対してもっと具体的な「案」を提示したはずであると思われます。
そもそも「訓令」とは手元の「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「倭国」の統治制度や方法についての現状を改め、別のやり方へと「改善」する指示あるいは命令を意味するものと思われます。
この「訓令」は「中国」の史書にはそれほど出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』に以下の例があります。
「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織,為作法制』,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」(『後漢書/列伝/王景』)
ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」に「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、具体的な内容(案)を示すものであると同時に、厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈のものであったと察せられます。
「倭国」に対する「訓令」の場合もその中には「統治体制と方法」についての具体的な改善プランがあったとみるべきでしょう。そのため派遣された「隋使」の役割としては「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われ、「倭国」の伝統に依拠したような「古めかしくて」「不合理」な体制は速やかに停止・廃棄し、新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われるわけです。その場合その「新しい方法」の内容を推定すると、中国式な体制へと変更するということは確かではあるとは考えられるものの、より具体的にはその時点の「隋」の統治体制に準じたものとすべしというものであったと見られますが、ではその「隋」における体制とはどのようなものだったでしょうか。
Ⅱ.「隋」の統治体制
「倭国」に対し「隋帝」(高祖)は「新体制」を訓示したと見られるわけですが、その「隋」の統治体制の中心には仏教がありました。当時の「隋」は 「仏教治国策」と呼称されるような体制であったものであり、「護三宝率遣興修、前詔後勅、佛法為首」(『魏七帝旧寺修寺記』より)あるいは「我大隋庸千齢之會、乗金輪以治世」(『「大隋南宮令宋君像碑開皇十一年」碑文』より)という表現がされるほど仏教がその統治の中心にありました。そう考えると同様の体制を「倭国」においても行うことを要求したものと推定することもできるでしょう。つまり「倭国」においても「統治体制」の中心に「国教」として仏教を据え、それを推進すべしというものであったとも考えられるものです。
「隋」の「高祖」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し(表向きは「仏道二教の振興」を目指したとされますが、「道教」にはそれほど重きを置かなかったと見られます)、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれています。この「菩薩天子」や「重興仏法」という用語は『隋書』(『俀国伝』以外の部分)では全て「高祖」に対する使用例としてのみ出現し、それ以外のものが確認できません。
それまでの「周朝」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を削減したことが知られており(『隋書帝紀』仁寿元年紀)、それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ(註1)、そのように仏教に傾倒し仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が、「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して仏教を示しそれを国教とすべしと訓示したという可能性は高いものと推量します。そして、この時の「訓令」により伝えられた仏教とは具体的には「法華経」ではなかったかと考えられます。
先に挙げた「大隋南宮令宋君像碑開皇十一年」碑文には「…軽茲小道、慕彼大乗、…」とあり、また『歴代三宝記』にも「…開皇十一年又詔曰如来説教、義存平等、菩薩用心、本無差別。…朕位在人王、紹隆三宝、永説至理、弘闡大乗。…」とあって、「文帝」が特に「大乗仏教」を重視していたことが知られます。「法華経」はその「大乗仏教」の代表ともいうべき経典であり、これを「隋」においても中心的位置に置いたものと思われますが、それはそのまま「倭国」に対する「訓令」としても生きていたものではないかと思われるのです。
Ⅲ.「訓令」と「阿弥陀信仰」
これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連しているものと考えられます。
「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(『二中歴』「年代歴」より)(ただし「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)
この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣されており、その「報表使」として「隋」から使者が派遣されたことを示すものといえます。(註2)
それを示すように「阿弥陀信仰」の勃興は「推古」の時代(六世紀末から七世紀初め)ではなかったかと思われる節があります。
「阿弥陀信仰」については平安時代の末に「末法思想」の喧伝の中で現れたとみる向きもありますが、実際にはそれ以前から行われていたものと思われます。たとえばこの「遣隋使」時点付近で創建されたと考えられる「法隆寺」についても「阿弥陀信仰」と関係していると考えられています(註3)。
「法隆寺」の現在の金堂は「南面」しており、その内陣に「釈迦三尊像」が置かれ、「西側」の壁に「阿弥陀三尊像」、「東側」の壁に「釈迦三尊像」という配置形式になっています。しかし、「昭和の大修理」の結果から当初は「南北」方向を長手にした「東面金堂」であったことが推測されています(註4)。寺域の「西」側に「南北」方向に配置された金堂はその本尊に向かうと「西方浄土」を向くこととなるわけであり、そのことからこの場合は「内陣」の中央に「阿弥陀繍仏」が置かれていたという可能性が強いと思えます。また、「玉虫厨子」についても、その表面下部の「須彌座」部分には「阿弥陀如来」と考えられる像が描かれています。実際の「金堂」空間はこれを発展拡大したものが配置されていたと考えられ、同様に「阿弥陀如来」が当初の主尊ではなかったか(あるいは「釈迦仏」との双方を「本尊」としていたか)と考えられることを示しています。また現在の「法隆寺」には「瓦」を初め「隋」や「初唐」のものと思われる影響は各所に確認されるものの、「百済」的な部分は非常に少ないとされます。これらのことはこの「法隆寺」創建時点で「阿弥陀信仰」があったことを示している思われるとともに、それが「百済」(及びそれを通じた南朝)的な影響ではなく「隋・唐」との関係の上で成立していることを示していると考えられます。
仏教文化の発展には色々な要因があったものと思われますが、「隋帝」(高祖)から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。
Ⅳ.「倭国王」の方針と仏教
このように「訓令」によって「倭国」に「隋帝」の意志と方針として仏教を「統治」の「首」とすべしということが伝えられたと思われるわけですが、それは「倭国」における仏教への傾倒が特に「遣隋使」派遣付近から始まっていることと整合するものです。ただし、これについては「隋」の「仏教政策」に迎合したものというような議論がありました。(註5)『隋書』には「隋皇帝」に対して「菩薩天子」というような表現をした例や多くの「僧」(沙門)を派遣して仏教について勉学させるなどの政策をとっているという記述があり、これらは「隋」特に「高祖」の仏教への傾倒に追随したものと思われ、「隋」との交渉を有利にするための外交手法であると理解されていた節があります。また他の諸国においても同様の外交手法を行っていたというように解析されており、倭国も同様の趣旨の外交姿勢であったというわけですが、しかし、実際にはこれは「訓令」による半ば強制的な「変更」というものが下地にあったがゆえのことだったのではないでしょうか。
このような内容の「訓令」を受けたとすると倭国側はそれを「拒否」できたのかというとそうは思われません。この段階の両国の国力の差は歴然であり、そのような抵抗は無駄であったでしょう。というより「倭国王権」はこの「訓令」を積極的に受容したとも見られます。逆にそれを「好機」ととらえた節さえあります。なぜなら「倭国王」はこの時「統治体制」の強化を主たる目的として「遣隋使」を派遣したものと思われるからです。すでにそれ以前に「倭国」の中心権力は相当程度強化されていたと思われますが、さらにそれを強化する手段として最新の文化・制度の導入が必要と考えた上の遣使であったと思われ、そのため仏教(特に法華経)を国教とするというアイデアは渡りに船ではなかったかと思われます。それ以前にも「百済」を通じて「南朝」から仏教(特に『法華経』)は伝来していたと思われるわけですが、それは「倭国王」とその周辺だけの狭い範囲に留まっていたものであり、それを「統治」に利用するという観点がなかったものです。強い権力を指向していた当時の「倭国王」(阿毎多利思北孤)がこのような方法論を示されたことにある種の強い示唆を受けたであろうことが推察され、「訓令」で示されたことを積極的に受容してそれを統治に応用していったものと推量します。その具体的な方法としてはまず「古来」からの「祭祀」を廃止することであったものと思われます。
Ⅴ.「訓令」と「前方後円墳」の築造停止
このように「隋帝」からの「訓令」により「統治体制」と「宗教」(祭祀)について改革が行われることとなったと思われるわけですが、その現れとみられるのが「前方後円墳」の築造の停止です。
「前方後円墳」については「考古学的」な見地からは「六世紀末」に西日本で、「七世紀初め」には関東でもその築造が停止されたと見られています。それもその地域内では「一斉」に停止されるわけであり、中には築造途中で放棄されたと見られる例もあります(註6)。これは明らかに「王権」中枢から何らかの指示・命令が出されたことを示すと思われ、そのような「斉一的」な現象の裏には強力な権力が存在していると見るのは当然であり、この時点の「倭国」にはすでに「中央集権的」な王権の存在があったものとみることができるでしょう。
そもそも「前方後円墳」というものと、そこで行われていた「祭祀」というものは当然仏教以前に属するものです。その内容や形式についてはあまり明確ではありませんが、「六世紀末」という段階においてすでに「古式」といえるものであったと考えられ、「隋帝」の考える「近代的」な仏教的観念や時代的位相とは遠く離れたものであったことが推測できます。そのため「倭国王」の統治の内容を聞いた「隋帝」(高祖)から仏教の全面的導入を訓令されたとすると、必ず「倭王権」はこれらの祭祀について停止し、また廃棄することとしたでしょう。つまり、「統治体制」や「祭祀」が「訓令」により変えられることとなったなら、その「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というのが国内諸氏に対して指示・命令されたとするとこれもまた当然といえるわけです(註7)。そのことはまた「埴輪」の終焉が同時であることからもいえることです。
「埴輪」については「前方後円墳」と組み合わせて行われていた「祭祀」の重要な要素であり、また「墓域」を「聖域」化する重要なパーツとして位置づけられていたとされます。その「埴輪」がいわゆる「終末期古墳」とされる「円墳」や「方墳」からは随伴しないわけであり、それは「埴輪」が「前方後円墳」と同様「倭王権」からの指示等により廃止されたことを示していると思われます。
そもそも「前方後円墳」という「墳墓」の造成や、そこで行われていた祭祀は、「諸国」の「倭国王権」に対する「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと思われ、倭国中央の意志がその「祭祀形式」の存否に重大な意義を与えていたものです。つまり、「倭国王」から「中止」や「変更」が指示された場合は速やかにそれに従うべきものであったと思われるものです。
この「前方後円墳」の築造停止については従来種々の理由付けが考えられており、律令制国家の萌芽ともいえる国家体制変革がこの時行われたという指摘もあり注目されますが(註8)、一般的には仏教の国教化に先立つあるいは伴うものという理解がされており、それらはある意味正しいとも言えますが、それがどのようなことが契機、あるいは動機となっていたかについては『法華経』の伝搬の拡大との関連が考えられていたものの具体的な根拠が不明でした。しかし上に述べたように「隋帝」から「訓令」を受けたその中身が「前方後円墳」の築造停止につながる内容を持っていたと見ると事実を整合的に説明できると思われるわけです。
(註)
1.氣賀沢保規「隋仁寿元年(601)の学校削減と舎利供養」(『駿台史学』一一一号二〇〇一年二月駿台史学会)
2.私見では「遣隋使」は「開皇年間の始め」にはすでに派遣されていたと見ています。(詳細は別稿)
3.私見では当初「法隆寺」は「元興寺」として創建されたと見ています。(拙論「元興寺と法隆寺」(一)(二)(『古田史学会報』一一五号、一一六号二〇一三年))
4.米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』(新泉社一九九一年)で展開されている論などによります。
5.川上麻由子「遣隋使と仏教」(『日本歴史』七一七号二〇〇八年)などの論。
6.竹村順広「放棄石造物と九州王朝」(『古田史学会報』七十四号 二〇〇六年六月)。
7.私見ではこれが「大化」年間に出されたとされる「薄葬令」であったと見ています。「薄葬令」を七世紀半ばやそれ以降の時代のものと見るには「馬」の殉葬を禁ずるなどの内容が齟齬します。(詳細は別稿。)
8.広瀬和雄『前方後円墳の世界』(岩波新書二〇一〇年)による。
「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系『日本書紀』」岩波書店
『隋書』『旧唐書』その他(『大正新脩大蔵経』等)の漢籍資料は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しています。
氣賀沢保規「隋仁寿元年(601)の学校削減と舎利供養」(『駿台史学』百十一号二〇〇一年二月)
塚本善隆「隋文帝の宗教復興特に大乗佛教振興 -長安を中心にして」(『南都佛教』第三十二号南都佛教研究会一九七四年)